【本文】
▼【甲武信ヶ岳とは】
奥秩父の甲武信ヶ岳は、埼玉(武蔵)、山梨(甲斐)、
長野(信濃)の3県にまたがっています。かつては、こ
の三国境を、江戸時代に出版された『新編武蔵風土記稿』
や『武蔵通志』では国師岳とあります。また甲州の地誌
『甲斐国志』では三繋平(みつなぎだいら)、信州の『信
府統記』では大椹峠(おおさわらとうげ)と呼んでいた
そうです。三繋平、大椹峠は、いまの地名では見あたり
ませんし場所も不明です。しかしそれらの古書に国師岳
とあるからには、6.5キロ南西の国師ヶ岳と混同したも
のではないかと考えられています。
また埼玉県秩父市大滝(旧秩父郡大滝村)の栃本地区
方面では、この山を「拳(コブシ)」と呼んだそうです。
これはこの地区の高いところに登ると、三宝山・甲武信
ヶ岳・木賊山の三山がいかにも、大空に「ゲンコツ」が
持ち上がっているように見えるからといいます(『山の
憶い出』木暮理太郎)。さらに甲斐の山梨県三富側では、
3国の境なので「三国」、信濃の長野県川上村では「三
方山」と呼んだとの情報もあります。ただこれは甲武信
ヶ岳の北方にあるいまでいう三宝山(さんぽうさん)の
ことのようです。
しかし、いまの名は甲武信ヶ岳。でも甲武信と書いて
「こぶし」と読ませるには、やはりちょっと無理があり
ます。知らない人が「こうぶしん」と読んでいるのも仕
方ないことですよね。こんな読み方にさせたのは理由が
あったようです。
明治時代、農商務省が作った地図「甲府図幅」に、三
つの国名(甲斐国・武蔵国・信濃国)の一字ずつをとっ
て「甲武信」と記載しました。さらにお役人は、武蔵側
で「拳(コブシ)」呼んでいることに目をつけました。
そして甲武信の字を「こぶし」と読ませました。機転の
効いた人がいたものですね。
山の名前についてはさらに、先述の通りかつて甲武信
ヶ岳は6.5キロ南西の国師ヶ岳と混同され、コクシと
呼ばれていたあったそうです。このことについて、『奥
秩父研究』などの著書のある原全教氏も『奥秩父回帰』
の中で、コクシが転化してコブシになったのだろうとも
しており、それぞれ持論を述べています。蛇足ながらク
シは「越す」から転じて小丘の意味を持つといいます。
なんか難しい話です。
▼【展望】
甲武信ヶ岳山頂からの展望は東以外は抜群です。北東
に目をやると谷川岳、榛名山、浅間山が、また北アルプ
スの山々、八ヶ岳、国師ヶ岳から金峰山など奥秩父。さ
らに中央アルプス、南アルプス、天子山系、御坂山系と
富士山などなどが望めます。高山植物は山頂付近にコケ
モモ、ヒメシャジン、ヒメイワカガミ、キバナノコマノ
ツメなどなど分布。山頂直下に甲武信小屋があります。
▼【三つの源流】
さて、ここの甲武信ヶ岳を起点に、雁坂峠から雲取山
方面の東へ延びる尾根、また西へのミズシから国師ヶ岳
方面へ延びる尾根、さらに三宝山、十文字峠方面の北へ
延びる尾根があります。この三つの尾根が分水嶺になっ
て、甲武信ヶ岳は南に流れる笛吹川、西に流れる千曲川
(信濃川)、北東へ流れる荒川と、三つの川の源流部が
集まっています。
▼【荒川源流】
甲武信小屋下の踏み跡を下っていくと、荒川の支流の
本谷の源流があり、「荒川源流点」の碑が建っています。
荒川は、奥秩父東北面域の水を集めて、秩父、長瀞、寄
居、熊谷、大宮、川越と埼玉県を貫流。東京都北区の岩
淵水門で本流の荒川と支流の隅田川に分かれ東京湾にそ
そいでいます。東京の奥座敷・奥多摩から秩父山地の北
側をまわり込むため、延長169キロ、流域面積2940平方
キロにおよび、関東第2の河川になっています。
▼【千曲川源流】
一方、長野県内での千曲川が、新潟県に入ると信濃川
と名を変え日本海に注ぐ信濃川。総延長は367キロで、
日本一の長さを誇る川だそうです。その源流も甲武信ヶ
岳の西北長野県側直下、標高2200m地点にあります。島
崎藤村の『千曲川のスケッチ』、小林一茶の『帰郷』の
舞台にもなっています。『万葉集』では筑摩川として詠
まれて以来、多くの古歌に登場しています。
甲武信ヶ岳山頂から西側、ミズシと呼ばれるピーク手
前の鞍部から長野県側の源流点に降りて行きます。そこ
には「千曲川信濃川水源標」とか、地元の小学生のつく
った立て札のほか、「清流、いつでも美しくあれ」など
と書かれた木柱がたくさん建っています。登山者はザッ
クをおろし大休止。おやつを食べる者、突然湧き出す水
を口にする者、それぞれに憩い源流点は以外ににぎやか
でした。
▼【笛吹川源流】
またここには上記の荒川、千曲川のほか、南ろくに笛
吹川の源流が突き上げています。笛吹川は、源流から山
梨県山梨市三富(旧東山梨郡三富村)広瀬付近から甲府
盆地へ、さらに鰍沢町付近で釜無川と合流し富士川とな
り、富士山の西側を通って静岡県に入りやがて駿河湾に
注ぎます。
笛吹川の源流域は、大正・昭和期の登山家である田部
重治が紹介してから全国的に知名度をあげた所。ここに
は、小屋の飲料水を汲み上げるポンプ小屋があります。
3つの源流水のなかでは一番おいしいとか。源流点の付
近は風化して、岩くずでおおわれた急斜面になっていま
す。ふもとの広瀬地区では毎年「道の駅みとみ」で、笛
吹川源流まつりも行われています。
▼【笛吹川の権三郎伝説】
この笛吹川にはこんな伝説があります。昔、芹沢の里
(いまの三富村上釜口地区)に、権三郎という若者がい
ました。権三郎は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資
朝一派の藤原道義の嫡男でした。彼は父が甲斐に逃れた
と聞き、母を伴って尋ね歩く途中、この里にたどり着い
ていたのでした。しかしせっかく尋ねたこの地も、父は
すでにこの世にはないとの知らせに、村人と一緒に暮ら
していました。権三郎は笛の名手でもありました。彼が
吹く笛の音は村人の心をなごませ、里人は彼を「笛吹権
三郎」と呼んでいました。
そんなある年、長雨がつづいて彼の家の近くを流れる
子酉川(ねとりがわ・いまの笛吹川)が、とうとう氾濫。
権三郎と母親が住む丸木小屋を押し流してしまったので
す。権三郎は流木に必死でつかまることができ、何とか
助かりましたが、母親は無惨にも濁流に流されてしまい
ました。権三郎は行方不明の母親を探し歩く日が続きま
した。悲しみに打ちひしがれ流れる笛の音。
しかし彼の努力は報われることはありませんでした。
とうとう権三郎は川の淵に身を投げてしまいました。そ
して遺体はずっと下流の小松の河岸で発見されたのでし
た。変わり果てた彼の手にはしっかりとあの笛が握られ
ていました。里人は涙を流して同情し、その土地の名刹
である長慶寺というお寺に葬りました。
それからというもの、夜になると毎日川の流れの中か
ら、美しくもあり悲しい笛の音が聞こえてくるようにな
りました。これはあの権三郎が吹いているのではないか、
村人たちはいつしかこの川を「笛吹川」と呼ぶようにな
り、いまも芹沢の里では「笛吹不動尊権三郎」として尊
崇してるということです。
▼甲武信ヶ岳【データ】
★【所在地】
・埼玉県秩父市大滝(旧秩父郡大滝村)と山梨県山梨市
三富(旧東山梨郡三富村)、長野県南佐久郡川上村との
境。中央本線塩山駅の北22キロ。JR中央本線塩山駅か
らバス、西沢渓谷入口下車、歩いて6時間20分で甲武信
ヶ岳。写真測量による標高点(2475m)がある。そのほ
か付近に何もなし。山頂直下に甲武信小屋がある。地形
図上には山名と標高点の標高のみ記載。標高点より南南
東方向直線約300mに甲武信小屋がある。
★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステ
ム」から検索)
・標高点:北緯35度54分32.9秒、東経138度43分43.92秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「金峰山(甲府)」
★【山行】
・某年6月26日(日・晴れのち小雨)
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典・長野』(角川書店)1991年(平
成3)
・『信州山岳百科3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭
和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本の民話8』(常州・甲州)(未来社)1974年(昭
和49)
・『山の憶い出』木暮理太郎:『日本山岳名著全集2』(あ
かね書房)1962年(昭和37)
・『日本歴史地名大系・長野県の地名』(平凡社)1990
年(平成2)
……………………………………………………………………………
山旅通信【ひとり画ッ展】題名一覧へ【戻る】
……………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」HPトップページへ【戻る】
|