【本文】
▼【両神山とは】
秩父の両神山(りょうかみさん)は、岩峰が鋸の歯が
ならんでいるようで、遠くからでも一目で分かります。
くさりに捕まりながら山頂の剣ヶ峰に立てば、360度の
展望。目を凝らせば遠く北アルプスまで確認できます。
また5月下旬から6月上旬ごろシャクナゲ・ヤシオツツ
ジで彩られます。また西側の山裾にある小倉沢に沿って
金の産地でもあったそうです。
山頂の剣ヶ峰から北へ、前東岳・東岳・西岳・八丁峠
へ延びる、ゴツゴツした主脈の険しい尾根がつづきます。
いま「両神山」といえば、この山全体の名前になってい
ますが、狭義には高い岩稜がつづく剣ヶ峰から東岳まで
をいうそうです。
お分かりのように、剣ヶ峰から前東岳、東岳までは同
じくらいの高さの岩稜がならんでいます。しかし東岳の
先の風穴の切戸(きれっと)を境にして、西岳からは一
段と低い岩稜になっており、その様相が違っています。
狭義の山名はこんなところから来ているのかも知れませ
ん。
奥秩父に造詣の深い登山家・原全教(はらぜんきょう)
氏も、「剣ヶ峰を中心にして、南を男座山(おざさん)、
北を女座山(めざさん)と呼ぶところから、これを男女
の両神にみたてて、この範囲(剣ヶ峰から東岳まで)を
狭義の両神山とすべきであろう」と著書の中で述べてい
ます。この場合も両神というのは男女の神といっている
ようです。
ここ両神山には、あちこちに石仏が建っていて、その
数300体以上といわれるからすごい。こんな山ですから、
信仰の山として三峰山三峰神社、武甲山御嶽神社ととも
に、「秩父三山」と呼ばれているほど民衆から崇められ
た山でした。
それもそのはず、この山も修験道の祖、役(えんの)
行者小角(おづぬ)が奈良時代に開山したと伝え、江戸
時代は、多くの修験者の修行の道場だったそうです。
▼【山の名】
両神山は、別名八日見山(ようかみやま)・龍頭山(り
ゅうかみやま)・鋸岳などとも呼ばれています。それぞ
れの山名については以下のような説があります。
▼【両神山の説】
まず両神山について。この名は大昔、日本武尊が山頂
に伊弉諾(イザナギ)・伊弉册(イザナミ)の男女2神
(両神)をまつったからだといいます。このふたりの神
は、『古事記』や『日本書紀』でおなじみです。記紀に
よると、高天原の神々の命で海に漂う脂のような国土を
固めて結婚し、国産み・神産みを果たした創造神という
ことになっています。
▼【八日見山の説】
次ぎに八日見山(ようかみやま)説です。この名は狭
義には、両神山の剣ヶ峰から東岳につづく、西岳付近の
別称らしい。両神山としては、やはりこのあたりがメイ
ンなのでしょうか。奥多摩の高水三山の命名者でもある
高畑棟材氏も『山を行く』の著書の中で、西岳を「八日
見山」としています。
八日見山は、例の日本武尊が東夷征伐の時、この山を
見ながらここまで、8日間もかけて歩いてきたとか、ま
た武尊が東征の途中で筑波山に登った時、山なみのはる
か彼方に八日間、この山を遠望したからなどとの説があ
ります。どっちにしろ8日間、両神山が見えていたわけ
です。その他地元の伝説に、日本武尊がこの山に8日間
かけて登ったなど、細かい違いの話もあります。
▼【龍頭山の説】
またこの山を龍頭山(りゅうかみやま)とも呼んでい
ます。これは、両神山東岳の北東ろくの尾ノ内地区の呼
び方で、龍神山とも書いています。剣ヶ峰から北へ延び
る岩稜の東岳と西岳間に、龍頭神社をまつる祠(龍神社)
があり、そのための山名だそうです。
このあたりを狭義に龍頭山ともいうそうです。その祠
から北東へ延びる尾ノ沢を下ると、尾ノ内地区に出ます。
この沢の山頂にまつってある竜神社の祠は、尾ノ内地区
の龍頭神社の奥社になっています。
山頂にある奥社の祠を竜の頭に見立て竜の頭としたと
き、そこから流れ下る尾ノ内沢は竜の体で、里宮のある
ふもとの地区はしっぽにあたります。尾ノ内地区の名の
由来はそこにあるといいます。
もっとも八日見のヨ(ヤ)ウカミは、ヤオカミのこと
で、ヤは八、オカミは高?(たかおかみ)、闇?(くら
おかみ)のオカミで雨乞いの神です。これはすなわちオ
ロチ(大蛇)のことで、仏典でいうところの竜王のこと。
つまり八つの頭を持つ竜王(龍頭大明神)なのだそうで
す。難しくなりましたが、結局は同じことですね。
▼【両神山中の神社】
主峰剣ヶ峰の南東直下、鳥居のある小広場(ここが昔
の案内書でいう山頂部らしい)には、ふたつの神社の本
社が、背中合わせに建っています。一つは「両神神社」
の本社で東向きに建てられ、それを背に「御嶽神社(両
神大神社)」の本社が南向きに建てられています。両方
ともオオカミの狛犬が建っています。このふたつの神社
には次のようなものです。
▼【両神神社】
まず両神神社(旧両神神明社)。本社は、昔は山頂部
といっていた(いまは鳥居のある小広場)に、里宮のあ
る東の里宮の方を向いて建っています。里宮は、東ろく
の日向大谷(旧薄村)にあります。この神社の奥宮は、
剣ヶ峰にある小さな社です。
神社の名前にもいろいろ変遷があったようです。両神
神社は、はじめ「両神山両神神社」と呼ばれていました
が、その後「両神山八日見神社」になり、大正10(1921)
年ごろ、なぜかまたもとの社名「両神山両神神社」に戻
したということです。神仏習合時代は観蔵院と呼んでい
ました。
▼【御嶽神社】
次は、「御嶽神社」。本社は先述のように、鳥居のあ
る小広場に南向きに建てられています。ただ江戸時代後
期の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「東向きにある社
は両神明神社、その後ろに南向きで建てられてある社は
両神権現社で、ともに薄(すすき・旧両神村薄)地区、
白井差(しらいさす・旧両神村白井差)地区の鎮守」と
書かれています。里宮は旧両神村の浦島地区にあり、寺
号を金剛院といいます。
この神社は、『新編武蔵風土記稿』にあるとおり、昔
は「両神権現社」と呼んでいました。そののち、御嶽山
の王滝口を開いた普寛行者の御嶽教とむすびつき、「両
神御嶽神社」とか「御嶽神社」と呼ばれるようになりま
した。
里宮である浦島地区の金剛院(現金剛院御嶽神社)は、
かつては両神山の浦島登山口になっていたところ。人々
はここから両神山に登ったといい、かつてはにぎわった
そうです。金剛院入り口の碑には、「両神大権現、御嶽
蔵王大権現」とあり、御嶽山とのつながりをあらわして
います。
▼【龍頭神社】
もうひつ、「龍頭神社」があります。この神社の奧社
は、東岳と西岳の間の尾根にあり、里宮は尾ノ内(旧小
鹿野町)にあります。神社名はふつう「りゅうとう」神
社と呼ぶそうです。里宮から南西に突き上げる尾ノ沢を
遡ると奥社のある尾根に出られます。
祭神はやはりイザナギ・イザナギの2神です。龍頭神
社の由緒記には、「日本武尊が両神山に登頂したとき、
イザナギ、イザナミの2神が霊夢の中にあらわれた。喜
んだ武尊はこの両神を山頂にまつった」と、いうことも
書かれています。
同じ龍頭神社の縁起にこんなのがあります。平安時代
「前九年の役」の時、源頼義(みなもとのよりよし)が
首謀者の奥州安倍氏制圧のため派遣されました。しかし
敵もさるもの、なかなか目的が達せられません。そのこ
ろ頼義に従属している山に筑波山がありました。
その筑波山の神主真壁権太夫(まかべごんだゆう)は、
頼義たちの安倍氏制圧の結果が思わしくないのに業を煮
やして、諸国の神々に「戦勝祈願」をするため旅に出た
といいます。
神主たちが武蔵の国、秩父県八日見山まで来た時、「山
気乃凡ナラヌ事ヲ思イ暫ク此地ニ足ヲ留メ居住」した。
ある夜、「霊夢でご宣託があり、山の南方にある濃霊池
にすむ神竜が洪水を起こしたり、谷を崩したりしている。
これを鎮めるには、諏訪大明神を勧請し、神竜を一社の
神としてまつるべし。」……
……「また頼義の武運長久逆徒追討のためには、八幡
太神宮を勧請すべし」とのご神託がありました。そこで
権太夫神主が、神竜を龍頭大明神と崇め、巻岩山の奧に
鎮めたところ、神竜もおとなしくなり、その結果か、源
頼義も安倍貞任、宗任、高氏など安倍氏を滅ぼすことが
できたといいます。
その後「八日見山ニ住ム一眼坊ト云天狗」が権太夫の
霊夢にあらわれ、巻岩山の奧にまつった龍頭大明神を山
頂へ移しまつれとのご託宣がありました。彼はその社地
とすべき所へ「明神濃眷属山狗(耳)仰セテ案内サス此
足跡ヲ慕イ分ケ登ルヘシ」としたのことです。
また「此神元来神竜タル故別(而)女人ヲ禁シ給」と
もいいます。これによって権太夫は、「絶頂に登リ岩窟
ニ籠リ一昼夜祈念シ」、「八日見山ニ勧請」しました。
平安中期の寛徳2年(1045)のことだとしています(『山
岳宗教史研究叢書8』両神山の信仰)。
▼【巨人伝説】
さて、難しい話はさておいて、両神山の伝説に入りま
す。鋸の歯のような岩峰がつづく両神山ですが、山頂は
平になっています(剣ヶ峰の南東直下、いまの鳥居のあ
る小広場)。それには訳があります。
この山は昔はもっと高かったそうです。そのせいかこ
の山は、高い峰に積もった雪からいつも冷たい風が吹い
ていて、ふもとには花も咲かず、森の木々も寒さに震え
ていました。
そのころ富士山に腰をかけて、東京湾の水で顔を洗う
ようなデエダン坊という大男がいました。デエダン坊は
これを見て、「これじゃ、あんまりかわいそうだ。あの
山の頭を少しちぢめてやろう」。
大男は硬くて大きなこぶしを振り上げたかと思うと、
両神山に打ちつけました。山の頭は吹き飛んでしまい、
変な形になってしまいました。あわてたデエダン坊は、
大きな手で山をなでまわして平らにしたというはなしも
あります
▼【一位ガタワ伝説】
両神山の清滝小屋から南に行ったところに「一位ガタ
ワ」というところがあります。以前はここから白井差の
バス停に下る道がありました。ここには以前から自然石
の墓があり、こんな言いつたえがあります。奈良時代初
頭の和銅年間、一位道人(いちい)という人が、両神山
に登ったということです。
そのころ秩父から銅が産出、それを記念して「和同開
珎(わどうかいちん)」ができました。一位道人は、こ
の和銅産出のため秩父にやってきた役人だったという説
もあります。その時に両神山に登ったといわれ、一位ガ
タワにある自然石の墓は、この人のものとされています。
また一説にこの人は「七位唐人」という人で、群馬県
吉井町にいた帰化人だったとも、日本武尊の軍に所属し
ていたとも、はたまた、一位道人と同一人物だなどとも
いわれています。
▼【一位ガタワ巫女伝説】
一位ガタワの自然石の墓には、一位道人の伝説のほか
に、もうひとつの話があります。昔、両神山も女人禁制
の山でした。一人の巫女(みこ)が、このおきてを破り
村人のとめるのもきかずに、登っていきました。
村人が心配してうしろからついて行くと、一位ガタワ
の峠で巫女は、杖を地面にたてて立ったまま死んでいま
した。これを見てあわれんだ村人たちは、巫女を厚く埋
葬しました。いま一位道人の墓といわれるのは、この巫
女の墓だともいわれています。現在その場所には「一位
局」の巫女像が建てられています。
また一説には、一位ガタワまで登った巫女が、解けた
わらじのひもを結ぼうとしました。そのとき一瞬、稲光
のような光がピカッと走りました。見るともうそこには
巫女の姿はありませんでした。翌朝、心配して巫女を探
しに出かけた3人の村人が、いままで見たことがない石
がひとつ山道にあるのを見つけただけでした。
先の『新編武蔵風土記稿』の文書には、このあたりの
方言で巫女のことを「イチイ」と呼ぶとあり、このイチ
イがあやまって「一位」となったのではないか。また、
一位ガタワの上方に「寺平」という平坦地があり、名前
から昔そこにお寺があったらしい。あるいはその寺に住
んでいた僧の墓かも知れないと書かれています。
▼【弘法の井戸伝説】
両神山にも弘法の井戸伝説があります。昔、両神山に
貧しい老婆が住んでいました。夏のカンカン照りのある
日、杖をついた旅の僧がやってきました。そして「水を
いっぱい下さらんか」と頼みました。お婆さんは「いま
汲みに行ってきますので少しお待ちを」といって桶を持
って暑いなか、出かけていきました。
村に井戸がなく、遠い水場まで水を汲みに行くのに時
間がかかるのでした。しばらくして帰ってきた老婆は、
お坊さんに水を差し出しました。旅の僧はそれを見て老
婆に厚く礼をいい、水を飲み干しいいました。
「ところで、水くみに苦労をしているようだが、お礼
にひとつ、井戸をつくってあげよう」と、いうと持って
いた杖を地面に突き立てました。すると不思議や、突き
刺した杖のそばから水がコンコンと湧きだしたのです。
去っていく僧を見て、「あれは弘法大師さまに違いない」。
村人はそれからこの井戸を「弘法の井戸」と呼んだとい
うことです。
▼【天狗伝説】
さて、山といえば天狗が切り離せません。ここ両神山
には天狗もいることになっています。両神山の表参道、
八海山(はっかいさん)とよばれる所に大頭羅神王(お
おずらしんのう)という石像があります。右手に剣を持
ち、髪の毛のなかにはもう一つの顔が異様な形で彫られ
ています。
この山の信仰は、「木曽の御嶽」の行者によって始ま
ったものといいます。そういえば御嶽の前衛の山の八海
山や三笠山、阿留摩耶山(あるまやさん)の名も両神山
の山中に見うけられます。しかも、行者の唱える唱文の
なかに「三笠山刀利天坊(とうりてんぼう)、八海山大
頭羅坊、阿留摩耶山アルマヤ坊…」と、御嶽山と同じ天
狗の名がでてきます。
そして行者たちが禊ぎをする滝のほとりの天狗社にま
つられる天狗も同じ刀利天狗、三笠坊、アルマヤ天狗、
大頭羅坊だというのです。ならば表参道にあるこの「大
頭羅神王」というのは、御嶽山の天狗の分身であるわけ
です。火炎に似た形をした髪の毛のなかの顔は両牙をむ
きだし、見ようによっては不動さまのようにも見えます。
そういえば石像のすぐ上には、弘法の清水という水場
があり、なにやら関連ありそうです。しかし、両神山に
なぜ御嶽山の天狗がいるのか不思議です。秩父といえば、
木曽御嶽山の王滝口の登山口を開いた普寛行者の出身地
(秩父市大滝)があります。この山両神山も木曽の御嶽
行者が修行した山です。
両神山中には御嶽講の霊神碑も多く建っており、この
山の最高峰剣ヶ峰には普寛行者の碑も建っています。行
者の弟子たちにも関東出身者が多いといい、関東の山々
に御嶽信仰と同時に木曾の天狗の勧請されたのではない
かとされています。
また関東で御嶽天狗で有名なものに新田山(群馬県太
田市金山町新田神社)の相殿御嶽社(明治の神仏分離以
前は御嶽社が新田山の社だった)があります。この神社
は正真正銘の木曽御嶽神をまつってあり、社殿裏の古碑
には、御嶽の大天狗、三笠山刀利天坊と、八海山大頭羅
坊の奇怪な山神の姿が彫りつけてあります。
これらは場所的に両神山から近いということもあり、
また新田山と秩父両神山には相通じるものがあるところ
から、新田山系の御嶽修験によって、両神山に御嶽天狗
が根を下ろしたのではないかと天狗の研究者は見ていま
す。
ちなみにこのあたりも狛犬はオオカミになっています
が、オオカミを山の眷属として神のお使いをして大切に
するのは三峰よりこちらの方が古くからある習わしだそ
うです。
▼両神山【データ】
★【所在地】
・埼玉県秩父郡小鹿野町(旧秩父郡小鹿野町・旧秩父郡
両神村)と埼玉県秩父市大滝(旧秩父郡大滝村)との境。
秩父鉄道三峰口駅の北西14キロ。西武線秩父駅からバス、
小鹿野乗り換え出原から歩いて4時間で両神山。二等三
角点(1723.0m)と両神神社奥ノ院がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
から検索
・三角点:北緯36度01分24.24秒、東経138度50分28.75
秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「両神山(長野)」
▼【参考文献】
・「あしなか」238号(山村民俗の会)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典11・埼玉県』小野文雄ほか編(角
川書店)1980年(昭和55)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平(名著出版)1990
年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書8』(日光山と関東の修験道)
宮田登・宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『新編武蔵風土記稿』(第十二册)蘆田伊人校訂(雄
山閣)1981年(昭和56)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳(三樹書房)19
77年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本歴史地名大系11・埼玉県の地名』小野文雄ほか
(平凡社)1993年(平成5)
・『山の憶い出』小暮理太郎:「日本山岳名著全集2」(あ
かね書房)1962年(昭和37)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年
(平成19)
・『両神山』(風土と登山案内)飯野頼治(実業之日本
社)1975年(昭和50)
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