山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

…………………………

▼1164-(百伝064)八ヶ岳「八つの山の話と神々の争い」

…………………………

【本文】

▼【八ヶ岳とは】
 八ヶ岳とは、山梨県と長野県の境にある南北30キロ
にもわたる連峰です。最高峰は赤岳(2899m)。まん中
当たりに夏沢峠があり、それを境に便宜上、八ヶ岳(南
八ヶ岳)と北八ヶ岳に分けています。八ヶ岳(南八ヶ岳)
は、最高峰の赤岳を中心に、西岳・編笠山・権現岳・阿
弥陀岳・横岳・峰の松目・硫黄岳などです。北八ヶ岳は、
箕冠山(みかぶりやま)・根石岳(ねいしだけ)・天狗
岳・中山・丸山・茶臼山・縞枯山・横岳などがならんで
います。

 南八ヶ岳の主峰は赤岳で、山頂には赤岳神社の祠があ
り、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)と金山毘
古神(かなやまひこのかみ)などと、愛染明王(あいぜ
んみょうおう)などがまつられています。かつてはここ
も修験の道場だったそうです。

▼【山名】
 そもそも八ヶ岳は、八つの峰からその名があるといい
ます。それは江戸後期の文化11年(1814)の『甲斐国
志』)第2巻に、「一、八ガ岳………山峯巒(ほうらん
・山の峰々)??(さくがく・山の斉(ひと)しからざ
る貌・かたち)トシテ八葉ニ分ル、ユエニ名トス其ノ一
峯ヲ檜(ヒ)ガ岳ト云フ雷神或ハ石長(イハナガ)姫ヲ
祀ル三代実録ニ所レ謂ハ檜ト峯ノ神ナリト云フ」とあり、
それが山名のもとらしい。

 しかし、もっと前の江戸時代・天明年間(1781〜1789
年)の『甲斐名勝志』という書物にも、「此(の)山、
西は信濃国諏訪郡、北は佐久郡なり嶺分かれて八有、故
に八カ嶽と云(いふ)」とあります。それは赤岳から見
て、北にある横岳と硫黄岳、西方に阿弥陀岳、南に権現
岳、西岳、編笠山、峰の松目(または北八ッの天狗岳)
の八つなのだそうです。

 また江戸後期嘉永1年(1848)の『甲斐叢記』(かい
そうき・『甲斐名所図会』とも)には、「八岳 又谷鹿
岳と作く長沢、西井出、谷戸、小荒間、上笹尾、小淵沢
等の諸村の北に峙(そば)立て檜峰(権現岳トモ云)、
小岳、三頭岳、赤岳、箕蒙岳、毛無岳、風三郎岳、編笠
山等八稜に分かるゝゆえに此名あり」と、峰の名前まで
明記してある文書があります。

 ところが、その後の文献によって八つの峰々が違って
きてしまうから困ります。また長野県の諏訪地方に行く
と、またがらっと変わります。そりゃそうでしょう。ふ
もとから見える峰は、その地方その地方で違いますから
ねえ。でもよく八つにこだわったものです。「八」とい
う字の「末広がり」の形がよほど気に入ったのでしょう
か。

 それとも、日本の神の数とされる八百万(やおよろず)
からか、あるいは権現岳に祭られている八雷(やついか
ずち)に由来するという人もいます。しかし地形からの
説では谷間を意味する「ヤツ」ないし「ヤト」から派生
したと考えるのが自然ではないかという人もいます。

▼【富士山と八ヶ岳】
 さて八つの話はそこまでとして、山梨県の甲府盆地か
らながめた時、南東にそびえる富士山、それとは反対側
の北西にある八ヶ岳はどうも冴えません。しかも、北西
は死霊のおもむく地ともされています。山の形も優れず、
人々は昔からどうしても富士山に対して八ヶ岳には、陰
・負のイメージを持っていたようです。

 先の文献『甲斐叢記』でも、富士山を美しい木花開耶
姫(このはなさくやひめ)にたとえています。一方八ヶ
岳は、醜い磐長姫(いわながひめ)にたとえます。どう
も八ヶ岳を富士山より劣って見ていたようです。

▼【山の背比べ伝説】
 山の背比べ伝説もそのひとつです。富士山と八ヶ岳が
高さ競べをした時、八ヶ岳から富士山へ樋(とい)をか
け、水を流したら富士山の方へ流れました。明らかに八
ヶ岳の方が高い。負けた富士山はおこって八ヶ岳の頭を
樋で打ったうえ、横腹を蹴り上げました。そのため八ヶ
岳の峰はいくつにも分かれてしまったという話が平安末
期の(『伊呂波字類抄・いろはじるいしょう』)にあり
ます。

▼【京都の天狗が建てた頂上の社】
 これは結構知られた伝説ですが、こんな話も残ってい
ます。大昔、あちこちの地面に音もなくしわが寄りはじ
めました。そしてしわは見るみる盛り上がり、煙と火と
泥が吹き出してどんどんと高くなっていき、山が生まれ
ました。こうして生まれた山々の中で、目立って高いの
が富士山と八ヶ岳でした。そのうち、どちらともなく背
の高さを自慢し競争をはじめました。

 先に生まれた八ヶ岳は、さすがにどんどん高くなって
いきました。富士山も負けずに伸びています。八ヶ岳は
この辺で差をつけてやれとばかり、「グイ」と背伸びを
しました。そのとたん、頭の方が3分の1ばかりポッキ
リと折れてしまいました。折れた八ヶ岳の頭からは新し
くいくつもの頭が出てきましたが、高くはなりませんで
した。八ヶ岳はくやしくて毎日泣いていました。八つの
頭の両方の目、計16もの目から涙を滝のようにあふれ
出ています。

 この騒ぎを聞いて京都の鞍馬山から大天狗が飛んでき
ました。事情を聞いた天狗は、八ヶ岳に同情しました。
そして小天狗に申しつけて赤岳の頂上に社を建てたそう
です。折れた八ヶ岳の頭は南東の山腹に丁重に鎮座させ、
斎(いつき)祭らしめたといいます。この森を斎(いつ
く)しの森と呼びました。この森は、のちに美しの森と
いうようになったそうです。一方、大天狗・小天狗は同
情のあまり岩になり、赤岳の南で同名の2つの奇岩にな
って見守っています(『日本伝説大系5・南関東』)。

▼【富士の神八ッの神と、でえらん坊伝説】
 また富士山からみて、駒ヶ岳と八ヶ岳とどちらが高い
かを争ったところ、駒ヶ岳の方が高かったため、駒ヶ岳
の神が八ヶ岳をたたいたら八つに分かれてしまったとい
う伝説もあります。民衆はまわりの風景で壮大な想像を
するものですね。

 伝説をもうひとつ。その昔、長野県浅間山には富士山
に腰掛けるという大男「でえらん坊」がすんでいたとい
う。でえらん坊は南方にそびえる八ヶ岳をいつも気にな
っていました。ある日、とうとう八ヶ岳を自分のものに
しようとノッシノッシと攻めてきました。八ヶ岳の女神
・磐長姫ひとりではちょっと手に負える相手ではありま
せん。そこで妹の富士山の神・木花開耶姫に応援を頼み、
中山峠ででえらん坊を迎え撃ちます。

 でえらん坊は、大太法師・ダイダラ坊・デーデッポー
・デーダンボウなどと呼ばれ、各地でも名高い伝説の大
男。磐長姫・開耶姫の姉妹神が一緒になってもなかなか
勝負がつきません。力の限り戦った結果、なんとかでえ
らん坊を追い払うことができましたが、八ヶ岳の神も傷
を負ってしまいました。その傷からは血がしたたり落ち
ていきます。すると地面に落ちた血にあとに黒いユリの
花が咲いたのです。戦場だった中山峠のすぐ近くに黒百
合平があります。そこに咲くクロユリは磐長姫の血から
生まれた花なのだという。

▼【ミドリ池の美女伝説】
 また中山峠から東へ1時間30分ほど下ったところに
あるミドリ池には、全裸の美女に化けて男を惑わせ、池
の中に引きずり込む妖怪がすむといいます。この妖怪は
この池の主の女郎蜘蛛。もとは浅間山麓の雲場(くもば)
の池にすんでいましたが、暴れん坊のでえらん坊に追い
払われ逃げてきて、ミドリ池にすみついたのだというこ
とです。このほか、北八ツにある白駒池や双子山の南麓
にある双子池にも興味ある伝説があります。



▼赤岳【データ】
★【所在地】
・長野県茅野市と長野県諏訪郡富士見町(合併せず)、
長野県南佐久郡南牧村(合併せず)と山梨県北杜市大泉
町(旧北巨摩郡大泉村)、山梨県北杜市高根町(旧北巨
摩郡高根町)との境。中央本線茅野駅の東20キロ。JR
中央本線茅野駅からバス、美濃戸から歩いて4時間30分
で赤岳(山頂に南峰と北峰がある)。南峰に一等三角点
(2899.2m)と赤岳神社の石祠と神道関係の大祠、北峰
に赤岳頂上小屋がある。

★【位置】電子国土ポータルWebシステムから検索
・三角点:北緯35度58分14.87秒、東経138度22分12.23


★【地図】
・2万5千分の1地形図「八ヶ岳西部(甲府)」or「八ヶ
岳東部(甲府)」(2図葉名と重なる)


▼【参考文献】
・『甲斐国志』(第2巻):『大日本地誌大系45』校訂・
佐藤八郎、佐藤森三(雄山閣)1982年(昭和57)
・『信州百名山』清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本歴史地名大系19・山梨県の地名』(平凡社)1995
年(平成7)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新
社)2004年(平成16)

……………………………………………………………………………

山旅通信【ひとり画ッ展】題名一覧へ戻る
……………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」HPトップページ
へ【戻る

…………………………………………………

【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室