山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1163号-(百伝063)蓼科山「頂上の穴と雷鳥と雷獣」

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【本文】

▼【蓼科山とは】
 山の形が富士山に似ているので、諏訪富士とも呼ばれ
ている北八ヶ岳の一番北にそびえる蓼科山(たてしなや
ま)。その頂上は、直径約100mもの火口のあとが岩の
広場になっています。そこはまるで大展望台のようで、
南北八ヶ岳から霧ヶ峰、美ヶ原、南、中央、北アルプス、
浅間山、上越国境、秩父山脈の山々と360度の眺望です。

▼【山名・異名】
 蓼科山は、高井山・飯盛山・位山・鷹居山・八伏山・
立科山・諏訪富士・高井山・飯盛山・おそなえ山・青葉
山などの異名もあります。位山は神のすわる場所・座(く
ら)のある山のなまったもの。鷹居山は鷹がたくさんい
るためだそうです。なかでも諏訪富士は、その端正な姿
からついた名です。

 蓼科山は、山の形が富士山に似ており、遠くから一目
で分かる山なのでよい目印になります。そのため、昔か
らふもとを行き交う人々の道標になりました。大和時代
には、北側山ろくの雨境峠(あまざかいとうげ)から瓜
生坂(うりゅうざか)に、官道・東山道が通り、室町末期
にも、武田信玄が蓼科山の南西側山ろくに、軍事目的の
棒道(ぼうみち)を造っています。武田信玄は信濃攻略
の際、甲州から諏訪に入り、蓼科山を目じるしにして北
上したといわれます。

▼【山頂】
 蓼科山の広い山頂の、一番低いところに蓼科神社の奥
社の祠があります。この神社はもと高井大明神という地
主神でしたが、明治政府の神仏分離によって明治8(18
75)年に、蓼科神社と名前を変えました。高井大明神の
高井とは、高いところにある井戸ということです。この
山に降った雨は、地下にしみこみ、ふもとのあちこちに
泉となってわき出て、村々をうるおしてくれるのです。
つまり井戸の神さまです。

▼【雷鳥・雷獣】
 かつてこの山に「雷鳥」や「雷獣」という動物がいた
という記録があります。江戸時代後期の寛政10年(1798)
刊の『遠山奇談』(とおやまきだん)という書物の(後
篇)「巻之四」第二十一章に、「たてしな山に雷獣雷鳥
ある事」という項があります。

 そこには、「立科山に、夜中に鶏鳴声ありといふこと、
世上の風聞なれど、何をもつていふや。夜中に鶏のこゑ
はきかぬが、雷の時昼夜に限らず、鳥のこゑすることあ
り。正しく此事をいふことなるべし。ある人水無月の末
に、山にのぼりしが、霧ふかくして、人声たへたるに、
鳥六七見えたり。羽さき丸く、高く飛びさらんことを、
はかりて、終に数輩、東西に立わかれしを、笠をかざし
杖をならして、追ふに甚だたけくして、声はなし。つい
に岩間へことごとくかくれたり。…

 …雛一羽残りしが、雛をよぶ其(の)こゑ虫の鳴(く)
ことし。幽栖の鳥ゆへ人におどろきて、声を出さずと覚
ゆ。はからず、其雛をとらへたり。大きさ鳩のごとく、
黄脚(きすね)の高さ五寸、鉾色(ほこいろ)は鶉のご
とし。目のうへくぼみて、是も丹頂の気ざし見ゆ。とら
へて親鳥のうらみあらば、よかるまじとて、放し逃す。


 …さて此所をさること半丁斗行しに、やがて鳥の群り
鳴こゑ、鳥の大きなるこゑのごとく、山陰にこたまして、
すさまじく、見返しみれば、今の鳥也。鳴終ると夕立し
て、雷鳴。其夕立の間に、又かの鳥鳴。なき終ると又雷
鳴。此鳥雷の気をかんじて鳴と覺ゆ。こゝによつて此あ
たりの人雷鳥といふ。人家には見馴ぬめづらしき鳥也」
とあります。これは山でおなじみの「ライチョウ」のこ
とでしょうか。

 さらに『遠山奇談』には、雷が落ちると同時に落ちて
くるとされる「雷獣」という動物についても記述してあ
ります。「……さて又、此(の)山に異獣あり。夏雷雨
の起る時、小獣嚴に、あらはれ雲を望み、飛で雲に入。
其勢ひ、絲を引ごとく火を顕し、數十疋須臾(しゅゆ・
しばらく)の間に、雲に飛入やいなや、夕立して雷鳴す
る。あるとし、何としたりけん、此小獣夕立のゝち、山
より死して流れいづるを、人こぞりて取あげ、みるに、
かの獣なり。しかも二疋あり」。…

 …「大きさ小犬のごとくにて、灰色。毛松葉の針のご
とく、手をさへるに、いらつきて手掌痛し。頭長く鳥の
ごとく成口ばしあり。嘴は半Kし。尾は狐のごとく、ふ
つさりとしたり。利爪(つめ)は鷲よりもたけく、深山
大木などに、爪の痕あるものは、決して是也。土佐の國
の海邊に雷汁とて、酒などたぶることあるよし。決して
是成べし。小犬位のものにて毛は針のごとしといふ」と
あります。雷獣は、体毛は針のようで鳥のように口ばし
があり、尾は狐のようで鷲よりも爪が鋭かったそうです。

 また、江戸後期天保5年(1834)成立の『信濃奇勝録』
(井出道貞著)にも、蓼科山について、こんな記述があ
ります。この山の頂上には祠がまつられている。山の形
を遠くから見ると、「飯を盛たるが如くなれハ(ば)飯
盛(いいもり)山ともよべり……」とあります。また雷
鳥については、「此巌石の間に鳥ありて、栖(す)む、
たまたま出て遊ふを登山の人見る事あり、加賀の白山の
雷鳥(ライチョウ)と云に似たり…」。ここでは、いま
登山者の人気者である、ライチョウに似ていると書いて
あります。しかし、ライチョウについは、1929(昭和4)
年、博物学者の矢沢米三郎という人が調査の結果、絶滅
を報告しています。

▼【蓼科山の薬草】
 さらにここで採れる薬草についても、「山中に寒露梅
と云(う)草あり、葉は黄楊(つげ)の如くにて大小あ
り、大なるハ実白く小なるハ赤し、採て嘗(なむ)れハ
味ひ梅のこ(ご)とし、不老草ハ常世草(とこよくさ)
ともいへり、諸毒を治し瘟疫(うんえき)をはらふ、…。
其外異草多し、薬品ハ黄蓮(わうれん)(チクセセツ)
中にも柴胡(さいこ)ハ絶品なり、一年糠尾(ぬかを)
村の医生宮原謀採薬に登りて見出し採帰りて試るに功能
他に勝れり」などと記載してあります。

▼【甲賀三郎伝説】
 さて、蓼科山の山頂の広場にはこんな伝説があります。
昔、甲賀三郎という人に愛妾がいました。それを知った
妻は怒り、その愛妾を監禁し、夫の前から隠してしまい
ました。驚いた三郎は、行方不明になった愛妾をあちこ
ち探しました。そのうち、蓼科山の山頂に大きな穴があ
るのを見つけました。三郎は藤づるで篭を作り、ことも
あろうに綱を妻に持たせて中に入りました。愛妾を一生
懸命探す夫を見て、妻は面白いはずはありません。

 妻は綱を放して、三郎を穴に置き去りにしてしいまい
ました。三郎が入った穴の中には別の世界があって、い
ろいろな人が歩いています。ひとりの老婆に道を聞きま
した。いろいろ話すうち、なぜか老婆は三郎に粟餅をく
れました。それを食べているうち、自分が大蛇の姿にな
っていることに気づきます。夜になり、神さまたちの話
し声が聞こえてきました。

 「三郎は冥途の粟餅を食べてしまった。もう人間には
戻れないゾ。いまとなっては、諏訪湖に入って神になっ
た方がいい」。甲賀三郎は驚きました。そして悩んだ末、
諏訪湖の神なることを決心しました。「今茲(ここ)に
寺あり、尾垂山貞勝寺と称す。遂に諏訪に至り神となれ
り。諏訪大明神是(これ)なりと」と、長野県北佐久郡
(きたさくぐん)の郷土史誌「北佐久郡志」(大正4(1
915)年編纂)にあります。いま、諏訪湖が凍ってでき
る御神渡り(おみわたり)は、甲賀三郎が本妻のもとに
1年、そして愛妾のもとにも1年と通う道だともいいま
す(「南佐久郡口碑伝説集」)。

▼【甲賀三郎伝説の類話】
 なお、この話には類話が多く、別の話もあります。甲
賀太郎、二郎、三郎という3兄弟が同時にそれぞれ妻を
迎えました。そのなかの甲賀三郎の妻は美しく、優しい
ので兄たちはうらやみ、ねたみました。兄たちはそんな
弟の妻を自分のものにしようと策略、三郎を狩りに誘い
出し、蓼科山の底なし穴に突き落としたというものもあ
ります(「北佐久郡口碑伝説集」)。

 あちこちの資料を調べているうちに、筆者はあるとき
こんな文書を見つけました。「(山頂の)中程に八子王
権現の社有り……右社之前石之間に水有り(少量だった
がうがいしたりお茶などに使った)……社の後戌亥の方
出先ニ甲賀ノ三郎這入候由石之間ニ穴有り、七五三縄は
り有之」。江戸時代宝暦4(1754)年の「立科山見聞留
書」という文書です。

 「ン!山頂の権現の前の石の間には水があり、お茶な
どに使った?……。」もしかしたら、いまでも土地の人
がしめ縄を張ってまつっているかも知れない。そんなこ
とから物好きにもわざわざ行って探してみました。山頂
は大岩が積んだようになっており確かにたて穴がありそ
うです。

 祠のまわりやあっちの岩の下、こっちの岩陰を調べま
くりましたが、たて穴はおろか水も見つかりませんでし
た。いまでは地元の人もしめ縄を張らなくなってしまっ
たのでしょうか。それともやはり物好きは物好きに終わ
ったのでしょうか。

▼【兄妹山とデエラン坊伝説】
 蓼科山は八ヶ岳の連峰からちょっと離れて孤独を愛す
る山、いろいろな伝説があります。かつて八ヶ岳と蓼科
山は、兄妹山だったといいます。この兄妹山は、兄の八
ヶ岳の北に妹の蓼科山がそびえています。さて当時この
あたりには、伝説の大男デエラン坊が住んでいたそうで
す。

 大男は近くの浅間山が、大岩を吹き上げながら噴火し
ているのを見て、この大岩を八ヶ岳に積み上げて、富士
山より高くしてやろうと考えました。大男は岩を「もっ
こ」で運んで行き、八ヶ岳の上にぶちまけはじめました。
驚いたのは八ヶ岳です。頭の上に土や岩が降ってくるの
で頭が重くてやりきれません。「重いよう!」。ギャー
ギャーと泣き叫ぶ八ヶ岳。そのうるさいこと、うるさい
こと。

 「それなら軽くしてやるッ」。デエラン坊は、兄山を
八つに砕いてしまったのでした。それを見た妹の蓼科山
が兄の八ヶ岳以上に大騒ぎ。怒った大男は、それなら諏
訪湖に放り込んでやるとばかり、蓼科山を抱きかかえ引
っこ抜こうとしました。いくらデエラン坊でもそうこん
な大きな山を簡単には引き抜けません。

 「う〜ん」と踏ん張った時、両足が地面にめり込んで、
ふたつの大きな穴ができました。やがて雨が降り、そこ
に水がたまって池になったのです。それが、いまある「双
子池」だという話です。「双子池」は、いまはサンショ
ウオがゆったりと浮かんでいます。


▼蓼科山【データ】
★【所在地】
・長野県北佐久郡立科町と同県茅野市との境。JR中央
線茅野駅からバス・親湯入口から歩いて4時間30分で蓼
科山。一等三角点(2530.3m)と蓼科神社の奥宮がある。
地形図に山名と三角点の標高、蓼科山頂ヒュッテの記載
あり。三角点より北東方78mに蓼科山頂ヒュッテがある。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステ
ム」)
・三角点:北緯36度06分13.42秒、東経138度17分42.23


★【地図】
・2万5千分の1地形図「蓼科山(長野)」

★【山行】
・某年9月10日(木・晴れ)


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・「北佐久郡口碑伝説集」北佐久教育会編(長野信濃毎
日)1934年(昭和9):『日本伝説大系7』長野担当・
岡部由文ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・「北佐久郡志」(長野県北佐久郡役所)大正4年(1915)
:『日本伝説大系7』(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『信州山岳百科・2』(信濃毎日新聞社)1983年(昭
和58)
・『神道集』安居院作(東洋文庫・94)貴志正造・訳(平
凡社)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『遠山奇談』(寛政10年(1798)刊)(後篇)「巻之四」
:『日本庶民生活史料集成16・奇談奇聞』編集委員代表
・谷川健一(三一書房)1989年(平成元)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992
年(平成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本伝説大系7』長野担当・岡部由文(みずうみ書
房)1982年(昭和57)
・『日本の民話1・動物の世界』(角川書店)1973年(昭
和48)
・『日本の民話2・自然の精霊』(角川書店)1974年(昭
和49)
・『日本の民話10』(信濃篇・越中篇)(未来社)1974年
(昭和49)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)197
9年(昭和54)
・『南佐久郡伝説集』南佐久郡教育会(信濃毎日新聞)1939
年(昭和14)
・『日本未確認生物事典』笠間良彦(柏美術出版)1994
年(平成6)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新
社)2004年(平成16)
・『和訓栞』(一〜三)谷川士清(ことすが)著(岐阜成
美堂蔵版)明治31(1898)年

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