【本文】
▼【焼岳とは】
長野県上高地の西南にそびえる焼岳は、その名のよう
に、噴火活動によって山肌が焼けただれているような、
赤褐色をしている山です。山頂直下には、中尾峠と焼岳
小屋のある新中尾峠があります。焼岳というだけあって、
いまもそこかしこから湯気が立っています。
山頂近くの噴気孔には硫黄がべったりとついているの
も見られます。硫黄の臭いで鼻もひん曲がりそうな感じ
です。焼岳の山頂は南峰と北峰とがありますが、南峰は
入山禁止になっていて登れるのは北峰だけです。
▼【高山植物】
焼岳小屋の上の「展望台」周辺には高山植物が咲き、
コイチョウラン、タケシマラン、ゴゼンタチバナ、イワ
カガミ、マイヅルソウなどが見られます。いまも火山活
動がつづく山なので、生えている植物も限られているよ
うで、ほとんどが酸性の強いものばかりだそうです。
▼【爆発】
焼岳の歴史は爆発の歴史。その爆発は周辺の環境をガ
ラリと変えてしまいます。かつて梓川は岐阜県側へ流れ
ていたといいます。それがいまのように、長野県側に流
れを変えたのは焼岳の爆発のせいだそうです。
爆発の記録が初めて見られるのは、安土桃山時代の天
正13年(1585)です。以来その活動は100回を超すとい
います。そんな爆発つづきで、昔から噴火のにおいが強
い山なのか、飛騨側では「硫黄岳」と呼んでいたそうで
す(江戸中期の『信府統記』)。
それ以来、安政5年(1858)、明治45年(1912)、大
正4年(1915)、昭和37年(1962)と、数十回もの爆発
を起こしています。なかでも大正4年(1915)には2月、
6月と爆発、その直前には地震が群発。
山頂の東側、標高1900mの台地から山頂東側壁に達
する、長さ1キロもの大亀裂、その底には数十個の火口
ができての大爆発。そして爆風によっての倒木、泥流で
梓川のせき止められ、また決壊や洪水が発生、大正池が
できました。
その後、昭和37年(1962)になるとさらなる大爆発が
起こり、火山弾や火山灰が、中尾峠の肩の小屋を押しつ
ぶし、小屋の管理人が重傷を負ったそうです。そしてい
ま、中尾峠は北東500mのところに移され、新中尾峠と
呼ばれ焼岳小屋もあります。この時の爆発で大正池が泥
流で埋まり、幅の広い川のように小さくなってしまった
のです。
この噴火のあとが中尾峠から山頂にかけていまも残っ
ています。この後、しばらく登山が禁止されていました
が、いまでは2393m地点の北峰まで登れるようになりま
した。しかし、いまでも所々に登山者に注意を呼びかけ
る看板が建てられています。
▼【三木秀綱の中尾峠越え】
この中尾峠を越えていった人たちの話です。日本武尊
(やまとたけるのみこと)が、この中尾峠を越えて信濃
に入ったと記紀にあるようですが、それは遠い昔のこと、
いまでは濃い霧の中で不明です。
突然ですが、安土桃山時代の天正13(1585)年、飛騨
高山の城主・三木秀綱(みつきひでつな)は、豊臣秀吉
の将・金森長近の猛攻で、大野郡の松倉城が落とされ、
城を捨てて信州に逃れました。その時焼岳の中尾峠を通
り、上高地へ出たと伝えられています。
大勢でゾロゾロと歩いていては追っ手に見つけられや
すい。秀綱一行はこの上高地で奥方と別れて、別々に逃
れることになりました。落ち合う先は、日ごろから親し
くしている信州・波田城主のところです。秀綱は上高地
から中の湯方面の坂巻温泉(松本市安曇)へ下り、奥方
は徳本峠をへて島々谷を下って行ったのでした。
坂巻温泉方面へ下っていった三木秀綱は、奈川村門ヶ
平(いまの松本市奈川地区門ヶ平)まで行きました。し
かし、ついにあらわれた暴徒に襲いかかられました。突
然のことで秀綱はあえなく殺されてしまいました。それ
は金銭が目当ての地元の農民でした。いまも「祠峠」周
辺、梓湖畔にはその時の名残の秀綱祠や、秀綱社があり
ます。
一方、奥方は侍女をともなって、徳本峠を越えて、島
々に下る道を急ぎます。しかし、この道は女性の足では
きつすぎる道です。途中、食糧もなくなりふたりは次第
に衰弱し、ついに侍女が倒れてしまいました。ひとり残
った奥方は、悲しさと心細さに耐えながら山道を下って
行きました。
しばらくすると、奥方の目の前に木こりが数人あらわ
れました。木こりたちは、こんな山奥に高価な衣装を着
た、高貴な女性がひとりでいたのですからビックリ。
「??これは狐に違いない。なにか悪さなどせぬうち、
引っ捕らえて化けの皮をはがせ」と、奥方をあろうこと
か真っ裸にして木に吊してしまいました。
翌日、村人は狐が気になり様子を見にやってきました。
木に吊された奥方は、木こりたちを睨みながら息を引き
取りました。村人はさては狐ではなかったか。大変なこ
とをしてしまったと大騒ぎ。それ以来、村に不思議なこ
とがつづきました。きょうはこっち、明日はあっちと変
死者相次ぐのです。これはあの奥方のタタリに違いねえ。
あとで聞いたところでは、あの奥方は三木秀綱という
殿さまの奥方だといいます。その殿さまは、隣村の奈川
村の農民に殺されたと聞きます。そんな高貴な奥方を殺
してしまった。恐れをなしたた島々集落の村人は、村の
中に社を建て、主人と奥方の2人を一緒に社にまつった
ということです。
江戸時代になると秀綱は「蚕の神」として庶民にまつ
られるようになったということです。なぜ蚕の神さまに
なったかというと、こんなわけがあります。三木秀綱は
松倉城落城の前夜、夜陰に乗じて城を抜け出し、信州に
向かっていました。しかし高原郷今見地区で、秀吉勢の
追っ手に見つかってしまいました。
秀綱はとっさに農家に飛び込み、蚕に食わせる桑のか
ごに隠れて逃げることができました。そのせいか数年後、
秀綱をかくまった家は蚕が大豊作。見る見る豊かになっ
ていきました。このうわさが、いつしか中尾峠を越え、
秀綱が殺された信州の奈川村門ヶ平地区にも伝わってき
ました。
「この殿さまは蚕の神にちげえねえ」。門ヶ平の村人
たちは、三木秀綱の霊を慰めると同時に、蚕の神さまと
して敬うようになったということです。そして城主夫妻
をいっしょにまつった社は、いま縁結びの神さまとして
信仰されているそうです。
また、中尾峠の旧道を割谷山へ道を分け、岐阜県側新
穂高温泉方面へ下ったところにも鳥居があり、その奧に
岩室があって、「秀綱神社」と刻んだ石碑と木碑がならん
でいます。
▼【噴煙伝説】
さて焼岳の噴火にまつわる伝説です。ふもとの村に、
太一とお文という夫婦が住んでいました。夫婦は、貧し
いながらも仲むつまじく暮らしていました。何年かして
ふたりの間に、双子が生まれました。
しかし一ヶ月を待たず子供たちは、ふたりとも死んで
しまいました。ガックリ気を落としてしまった夫の太一。
しばらくすると夫の態度がガラリと変わり、妻のお文に
対して暴力をふるうようになりました。
妻をぶったり蹴ったりの仕打ちは、日を追って激しく
なっていきます。夫はついに自分に愛人がいることを告
げ、妻に離別をせまりました。しいたげられ、居場所の
なくなった妻はとうとう死を覚悟しました。彼女は焼岳
の山頂をめざし、夫太一へ憎悪と呪いながら噴煙あがる
火口めがけて、23歳の若い身を投げたのでした。
すると間もなく風向きが変わり、火口の噴煙は妙にキ
ラキラと輝きながら夫太一の家の方角に流れていきま
す。そして太一の家の前を通り過ぎて行きました。それ
からしばらくして、太一の家から愛人と差し向かいで濁
酒(どぶろく)に酔っていたふたりが、焼死しているの
が発見されたということです。これは悲しい最後とげた
元妻の怨念のせいでしょうか。
▼【移転した河童橋】
さて焼岳から上高地に下れば、行きつくところが河童
橋です。上高地の名物・河童橋は、いまの場所よりもっ
と上流の飛騨新道にかかっていた与九郎橋という橋だっ
たといいます。1891(明治24)〜92年ころ、この新道を
大改修したときに、現在の場所に移設したそうです。
元河童橋があったその場所には、いまにも吸い込まれ
そうな深い淵があり、まるで河童でも住んでいそうな感
じだったそうです。そのため、河童橋という名前がつい
たといいます。当時の河童橋の形も、1922(大正11)年
までは、山梨県大月市にある「猿橋」のようなはね橋だ
ったそうです。
「……時刻はもう一時二十分過ぎです。が、何か気味
の悪い顔が一つ、円(まる)い腕時計の硝子(ガラス)
の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり
返りました。すると……。僕が河童(かっぱ)というも
のを見たのは実にこの時がはじめてだったのです。……
……僕の後ろにある岩の上には画(え)にあるとおり
の河童が一匹、片手は白樺の幹を抱(かか)え、片手は
目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていま
した……」。芥川龍之介が小説「河童」を書くに当たり、
ヒントを得た河童橋は観光客で賑わっています。
▼焼岳【データ】
★【所在地】
・長野県松本市(旧南安曇郡安曇村)と岐阜県高山市上
宝町(旧岐阜県吉城郡上宝村)との境。篠ノ井線松本駅
の西34キロ。松本電鉄新島々駅からバス、上高地から歩
いて4時間40分で焼岳北峰(南峰は登山禁止)。北峰に
写真測量による標高点(2393m・標石はない)がある。
南峰に二等三角点(2455.37m)がある。
★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステ
ム」から検索)
・南峰三角点(立ち入り禁止)標高2455.37m:(緯度3
6度13分36.7123秒、経度137度35分13.432秒)
・北峰標高点:北緯36度13分47.01秒、東経137度35分16.
39秒)
★【地図】
・2万5千分の1地形図「焼岳(高山)」
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県の地名」市川健夫ほ
か編(角川書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典21・岐阜県」野村忠夫ほか編(角
川書店)1980年(昭和55)
・『北アルプス物語』朝日新聞松本支局編(郷土出版社)
1982年(昭和57)
・『信州山岳百科・1」(信濃毎日新聞社編)1983年(昭
和58)
・『信州百峠』井出孫六・市川健夫監修(郷土出版社)1995
年(平成7)
・『信州百名山』清水栄一著(桐原書店)1990年(平成
2)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編1997年(平成9)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979
年(昭和54)
・『日本歴史地名大系21・岐阜県の地名』(平凡社)1989
年(平成元)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930
年(昭和5)
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