山の【ひとり画ってん】
『日本百名山の伝説と神話』
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▼1158(百伝058)焼岳のはなし
「爆発と三木秀綱」
(長文です。ご興味ある部分を拾
い読みしてください)
▼【目次】
・焼岳とは。
・高山植物。
・爆発。
・三木秀綱の中尾峠越え。
・噴煙伝説。
・移転した河童橋。
▼【本文】
★【焼岳とは】
長野県上高地の西南にそびえる
焼岳は、その名のように、噴火活
動によって山肌が焼けただれてい
るような、赤褐色をしている山で
す。山頂直下には、中尾峠と焼岳
小屋のある新中尾峠があります。
焼岳というだけあって、いまもそ
こかしこから湯気が立っていま
す。
山頂近くの噴気孔には硫黄がべ
ったりとついているのも見られま
す。硫黄の臭いで鼻もひん曲がり
そうな感じです。焼岳の山頂は南
峰と北峰とがありますが、南峰は
入山禁止になっていて登れるのは
北峰だけです。
★【高山植物】
焼岳小屋の上の「展望台」周辺
には高山植物が咲き、コイチョウ
ラン、タケシマラン、ゴゼンタチ
バナ、イワカガミ、マイヅルソウ
などが見られます。いまも火山活
動がつづく山なので、生えている
植物も限られているようで、ほと
んどが酸性の強いものばかりだそ
うです。
★【爆発】
焼岳の歴史は爆発の歴史。その
爆発は周辺の環境をガラリと変え
てしまいます。かつて梓川は岐阜
県側へ流れていたといいます。そ
れがいまのように、長野県側に流
れを変えたのは焼岳の爆発のせい
だそうです。
爆発の記録が初めて見られるの
は、安土桃山時代の天正13年(15
85)です。以来その活動は100回
を超すといいます。そんな爆発つ
づきで、昔から噴火のにおいが強
い山なのか、飛騨側では「硫黄岳」
と呼んでいたそうです(江戸中期
の『信府統記』)。
それ以来、安政5年(1858)、
明治45年(1912)、大正4年(191
5)、昭和37年(1962)と、数十回
もの爆発を起こしています。なか
でも大正4年(1915)には2月、
6月と爆発、その直前には地震が
群発。
山頂の東側、標高1900mの台
地から山頂東側壁に達する、長さ
1キロもの大亀裂、その底には数
十個の火口ができての大爆発。そ
して爆風によっての倒木、泥流で
梓川のせき止められ、また決壊や
洪水が発生、大正池ができました。
その後、昭和37年(1962)にな
るとさらなる大爆発が起こり、火
山弾や火山灰が、中尾峠の肩の小
屋を押しつぶし、小屋の管理人が
重傷を負ったそうです。そしてい
ま、中尾峠は北東500mのところ
に移され、新中尾峠と呼ばれ焼岳
小屋もあります。この時の爆発で
大正池が泥流で埋まり、幅の広い
川のように小さくなってしまった
のです。
この噴火のあとが中尾峠から山
頂にかけていまも残っています。
この後、しばらく登山が禁止され
ていましたが、いまでは2393m地
点の北峰まで登れるようになりま
した。しかし、いまでも所々に登
山者に注意を呼びかける看板が建
てられています。
★【三木秀綱の中尾峠越え】
この中尾峠を越えていった人た
ちの話です。日本武尊(やまとた
けるのみこと)が、この中尾峠を
越えて信濃に入ったと記紀にある
ようですが、それは遠い昔のこと、
いまでは濃い霧の中で不明です。
突然ですが、安土桃山時代の天
正13(1585)年、飛騨高山の城主
・三木秀綱(みつきひでつな)は、
豊臣秀吉の将・金森長近の猛攻
で、大野郡の松倉城が落とされ、
城を捨てて信州に逃れました。そ
の時焼岳の中尾峠を通り、上高地
へ出たと伝えられています。
大勢でゾロゾロと歩いていては
追っ手に見つけられやすい。秀綱
一行はこの上高地で奥方と別れ
て、別々に逃れることになりまし
た。落ち合う先は、日ごろから親
しくしている信州・波田城主のと
ころです。秀綱は上高地から中の
湯方面の坂巻温泉(松本市安曇)
へ下り、奥方は徳本峠をへて島々
谷を下って行ったのでした。
坂巻温泉方面へ下っていった三
木秀綱は、奈川村門ヶ平(いまの
松本市奈川地区門ヶ平)まで行き
ました。しかし、ついにあらわれ
た暴徒に襲いかかられました。突
然のことで秀綱はあえなく殺され
てしまいました。それは金銭が目
当ての地元の農民でした。いまも
「祠峠」周辺、梓湖畔にはその時
の名残の秀綱祠や、秀綱社があり
ます。
一方、奥方は侍女をともなって、
徳本峠を越えて、島々に下る道を
急ぎます。しかし、この道は女性
の足ではきつすぎる道です。途中、
食糧もなくなりふたりは次第に衰
弱し、ついに侍女が倒れてしまい
ました。ひとり残った奥方は、悲
しさと心細さに耐えながら山道を
下って行きました。
しばらくすると、奥方の目の前
に木こりが数人あらわれました。
木こりたちは、こんな山奥に高価
な衣装を着た、高貴な女性がひと
りでいたのですからビックリ。
「??これは狐に違いない。なに
か悪さなどせぬうち、引っ捕らえ
て化けの皮をはがせ」と、奥方を
あろうことか真っ裸にして木に吊
してしまいました。
翌日、村人は狐が気になり様子
を見にやってきました。木に吊さ
れた奥方は、木こりたちを睨みな
がら息を引き取りました。村人は
さては狐ではなかったか。大変な
ことをしてしまったと大騒ぎ。そ
れ以来、村に不思議なことがつづ
きました。きょうはこっち、明日
はあっちと変死者相次ぐのです。
これはあの奥方のタタリに違いね
え。
あとで聞いたところでは、あの
奥方は三木秀綱という殿さまの奥
方だといいます。その殿さまは、
隣村の奈川村の農民に殺されたと
聞きます。そんな高貴な奥方を殺
してしまった。恐れをなしたた島
々集落の村人は、村の中に社を建
て、主人と奥方の2人を一緒に社
にまつったということです。
江戸時代になると秀綱は「蚕の
神」として庶民にまつられるよう
になったということです。なぜ蚕
の神さまになったかというと、こ
んなわけがあります。三木秀綱は
松倉城落城の前夜、夜陰に乗じて
城を抜け出し、信州に向かってい
ました。しかし高原郷今見地区で、
秀吉勢の追っ手に見つかってしま
いました。
秀綱はとっさに農家に飛び込
み、蚕に食わせる桑のかごに隠れ
て逃げることができました。その
せいか数年後、秀綱をかくまった
家は蚕が大豊作。見る見る豊かに
なっていきました。このうわさが、
いつしか中尾峠を越え、秀綱が殺
された信州の奈川村門ヶ平地区に
も伝わってきました。
「この殿さまは蚕の神にちげえ
ねえ」。門ヶ平の村人たちは、三
木秀綱の霊を慰めると同時に、蚕
の神さまとして敬うようになった
ということです。そして城主夫妻
をいっしょにまつった社は、いま
縁結びの神さまとして信仰されて
いるそうです。
また、中尾峠の旧道を割谷山へ
道を分け、岐阜県側新穂高温泉方
面へ下ったところにも鳥居があ
り、その奧に岩室があって、「秀
綱神社」と刻んだ石碑と木碑がな
らんでいます。
★【噴煙伝説】
さて焼岳の噴火にまつわる伝説
です。ふもとの村に、太一とお文
という夫婦が住んでいました。夫
婦は、貧しいながらも仲むつまじ
く暮らしていました。何年かして
ふたりの間に、双子が生まれまし
た。しかし一ヶ月を待たず子供た
ちは、ふたりとも死んでしまいま
した。ガックリ気を落としてしま
った夫の太一。しばらくすると夫
の態度がガラリと変わり、妻のお
文に対して暴力をふるうようにな
りました。
妻をぶったり蹴ったりの仕打ち
は、日を追って激しくなっていき
ます。夫はついに自分に愛人がい
ることを告げ、妻に離別をせまり
ました。しいたげられ、居場所の
なくなった妻はとうとう死を覚悟
しました。彼女は焼岳の山頂をめ
ざし、夫太一へ憎悪と呪いながら
噴煙あがる火口めがけて、23歳
の若い身を投げたのでした。
すると間もなく風向きが変わ
り、火口の噴煙は妙にキラキラと
輝きながら夫太一の家の方角に流
れていきます。そして太一の家の
前を通り過ぎて行きました。それ
からしばらくして、太一の家から
愛人と差し向かいで濁酒(どぶろ
く)に酔っていたふたりが、焼死
しているのが発見されたというこ
とです。これは悲しい最後とげた
元妻の怨念のせいでしょうか。
★【移転した河童橋】
さて焼岳から上高地に下れば、
行きつくところが河童橋です。上
高地の名物・河童橋は、いまの場
所よりもっと上流の飛騨新道にか
かっていた与九郎橋という橋だっ
たといいます。1891(明治24)〜
92年ころ、この新道を大改修した
ときに、現在の場所に移設したそ
うです。
元河童橋があったその場所に
は、いまにも吸い込まれそうな深
い淵があり、まるで河童でも住ん
でいそうな感じだったそうです。
そのため、河童橋という名前がつ
いたといいます。当時の河童橋の
形も、1922(大正11)年までは、
山梨県大月市にある「猿橋」のよ
うなはね橋だったそうです。
「……時刻はもう一時二十分過
ぎです。が、何か気味の悪い顔が
一つ、円(まる)い腕時計の硝子
(ガラス)の上へちらりと影を落
としたことです。僕は驚いてふり
返りました。すると……。僕が河
童(かっぱ)というものを見たの
は実にこの時がはじめてだったの
です。……
……僕の後ろにある岩の上には
画(え)にあるとおりの河童が一
匹、片手は白樺の幹を抱(かか)
え、片手は目の上にかざしたなり、
珍しそうに僕を見おろしていまし
た……」。芥川龍之介が小説「河
童」を書くに当たり、ヒントを得
た河童橋は観光客で賑わっていま
す。
▼焼岳【データ】
★【所在地】
・長野県松本市(旧南安曇郡安曇
村)と岐阜県高山市上宝町(旧岐
阜県吉城郡上宝村)との境。篠ノ
井線松本駅の西34キロ。松本電鉄
新島々駅からバス、上高地から歩
いて4時間40分で焼岳北峰(南峰
は登山禁止)。北峰に写真測量に
よる標高点(2393m・標石はない)
がある。南峰に二等三角点(2455.
37m)がある。
★【位置】(国土地理院「電子国土
ポータルWebシステム」から検索)
・南峰三角点(立ち入り禁止)緯度
36度13分36.7123秒、経度137度
35分13.432秒)
・北峰標高点:北緯36度13分47.01
秒、東経137度35分16.39秒)
★【地図】
・2万5千分の1地形図「焼岳(高
山)」
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野
県の地名」市川健夫ほか編(角川
書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典21・岐阜
県」野村忠夫ほか編(角川書店)
1980年(昭和55)
・『北アルプス物語』朝日新聞松
本支局編(郷土出版社)1982年(昭
和57)
・『信州山岳百科・1」(信濃毎日
新聞社編)1983年(昭和58)
・『信州百峠』井出孫六・市川健
夫監修(郷土出版社)1995年(平
成7)
・『信州百名山」清水栄一著(桐
原書店)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナ
カニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか
(三省堂)2004年(平成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典」村石
利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山」毎日新聞社編
1997年(平成9)
・『日本歴史地名大系20・長野県
の地名」(平凡社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系21・岐阜県
の地名』(平凡社)1989年(平成
元)
・『山の伝説・日本アルプス編』
青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)
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