【本文】
▼【笠ヶ岳とは】
北アルプス岐阜県高山市上宝町(旧同県吉城郡上宝村)
に笠ヶ岳(2897.5m)という山があります。各地に「笠」
の形をした山は結構多いですが、この笠ヶ岳ほどどこか
ら見ても、同じ形をした山はないそうです。
江戸時代は山頂から少し下にある山小屋あたりが、人
の肩に似ているというので「肩ヶ岳」とか、お釈迦様の
「迦」を意識したのか「迦多ヶ岳」といっていたそうで
す。山岳修行でおなじみの念仏僧・播隆上人がここに登
り東の空に浮かぶ天をつくような槍ヶ岳を見て、初登頂
を決意した話は有名です。
▼【展望】
笠ヶ岳の山頂からの展望は、バツグンで槍・穂高連峰
などが、大パノラマを展開しています。
▼【高山植物】
夏には高山植物も群生し、テント場下の「播隆平」や、
抜戸岳への稜線下の「杓子平」などのカールには、ツガ
ザクラ、ガンコウラン、チングルマ、コイワカガミなど
のお花畑が展開します。
▼【雪形】
この山には駒の雪形が出て、5月下旬には飛騨地方側
のふもとの上宝村地区や神岡町の人々に、苗代や田植の
準備開始の時期を教えてくれました。この雪形は、山頂
すぐ下に正面を向く白馬の形で、ふたつの耳があり、胴
体から尻は、馬の頭の左側に横になって出ます。
雪形は、6月の梅雨のシーズンまで、里から見ること
ができるそうです。雪形の残雪は、日がたつにつれ、次
第に胴体の下に足が見えてくるといいます。
▼【初登山・道泉和尚】
笠ヶ岳の初登山は、遠く鎌倉時代中期の文永年間(12
64〜75)からだというから古い。登頂したのは、地元の
高原郷(いまの高山市上宝村)本覚禅寺の道泉という和
尚との説があります。ただ大昔のこととてどうもはっき
りはしませんが……。
▼【円空の登山】
時は下り、江戸時代の元禄年間、仏像を鉈一丁で刻む
ことで有名な、円空が登ったともいわれています。ご存
知円空は、12万体の仏像を彫ることを発願した江戸初期
の密教布教僧です。1683(天和3)年、飛騨に入り、の
ち1689(元禄3)年、いまの上宝村長倉の桂峰寺で、今
上皇帝像を刻みました。
その時まで、ここ飛騨ですでに1万体、各地のを合わ
せると10万体彫っていたというからスゴイ記録です。笠
ヶ岳に登ったのはこのころで、山頂に大日如来を安置し
たといいます。同村には円空作の仏像がほかに数点残っ
ているそうです。
▼【南裔(なんねい)の登山】
次に登ったのは、高山市宗猷寺町にある宗猷寺(そう
ゆうじ)というお寺の何裔(なんねい)上人。1782(天
明2)年のことだとそうです。寺名が町名になっている
程なんですから、大きなお寺なのでしょうね。南裔上人
は、南裔楚雄(なんねいそゆう)という禅師です。
南裔禅師は、同じ寺の北州禅師や、上宝町本郷の本覚
寺の嶺州禅師、さらに高山の役人などとともに、今見右
衛門という人の案内で笠ヶ岳に登山。山頂に、阿弥陀如
来などの五尊と、鉄札2枚を安置したといいます。
南裔楚雄は、享保15年(1730)旧丹生川村の三ノ瀬
山下喜右エ門という家で生まれました。9歳のとき、叔
父さんにあたる高山宗猷寺の桃瑞和尚に預けられ、やが
て同寺の10世になったそうです。江戸で三井親和(み
ついしんな・
江戸中期の書家で武術家)に、篆書(て
んしょ)や篆刻を学んで、人に知られる文化人になった
ということです。
さて時は過ぎ、江戸も後期になった文政4年(1821)
のころだといいます。のちに槍ヶ岳開山したことで有名
になった播隆という上人が、この近くを修行の旅をして
いました。上人は飛騨高山から恵比寿峠(丹生川村大萱
と折敷地区の間)を越えて、高原郷(いまの高山市上宝
町(旧同県吉城郡上宝村))にやってきました。そして
本郷地区の本覚寺に行き、椿宗(ちんじゅう)和尚和尚
をたずねたのでした。
▼【本覚寺】
ちなみに本覚寺は、高山市上宝村本郷地区にある臨済
宗妙心寺派のお寺で、正式名称は高原山本覚寺といいま
す。ここの郷の領主絵馬氏の二代目の子が出家し、開い
た寺だということです。このお寺は、笠ヶ岳開山の本家
になります。
▼【釈子窟(くつ)】
播隆上人は本覚寺で、岩井戸村に釈子窟(くつ)とい
われる岩屋があることを聞き、その岩屋で念仏修行をは
じめました。そこはかねてから村人たちが集まって、念
仏を唱えるところでもありました。
岩屋は、山肌に杓子(しゃくし)形にえぐられており、
高さ10m、入り口の幅は3mもあるところでした。そ
こで、一心不乱に念仏を唱える上人の姿に村人は尊敬の
念をいだき、次第に集まってきて一緒に念仏を唱えはじ
めるようになりました。
▼【播隆・一回目登山】
さて釈子窟で2年間修行した播隆上人は、文政6年
(1823)年6月、村人の案内でいまの笹島地区から笠谷
をさかのぼり、偵察登山を試みました。しかし、南裔禅
師が登山してから、すでに40年も過ぎていて、道は荒
れ果てています。かすかにうっすらと残る道らしき踏み
跡を探しながら、やっとの思いで頂上へ出ることができ
ました。
播隆上人は、「これは人々が登るのは容易ではない。
民衆がもっと簡単に登れるよう登山道を整備しよう」と、
村人に呼びかけました。こうして山道造りをはじめてか
ら50日もかかって、登山口の笹島から笠ヶ岳山頂まで、
37キロもの登山道が完成したのでした。
▼【播隆・2回目登山】
その年の8月5日、播隆上人は笠ヶ岳再興を祝って、
村人18人を連れて再び登頂します。一行が霧がかかっ
た笠ヶ岳山頂で念仏を唱えていた午後4時ごろ、雲の中
から七色にかがやくご来光があらわれました。その中心
に如来像がくっきりと浮かんでいます。「仏さまの出現
だ」と、山頂にいた全員が感きわまって、その場にひれ
伏しました。いまでいうブロッケン現象です。
▼【槍への登頂決意】
この時、山頂から四方を眺めた播隆上人は、東の空に
浮かぶ荒々しい穂高連峰の岩峰の中に、ひときわ天を突
くようにそびえる槍ヶ岳が見えました。感激した上人は
「あの山こそ、絶好の修行の場所だ」。上人はそう確信
し、槍ヶ岳に登ることを決意したといいます。ただ、こ
の決意をしたのは初登頂の時だとの説(『山岳宗教史研
究叢書10』)もあります。
▼【一里ごとの石仏】
ま、それはさておいて、播隆上人は翌年、笠ヶ岳への
登山道の1里(4キロ)ごとに、8体の石仏を路傍の碑
を建てたのです。さらにまた笠ヶ岳山頂には、阿弥陀仏
像をまつったといいます。
この時のことを書いた播隆上人の『迦多賀岳再興記』
や『迦多賀岳の記』が本覚寺にいまもあるそうです。そ
して現在でも、笹島地区の観音堂から笠ヶ岳まで、旧登
拝道のふみあとがあり、一里塚は村の文化財になってい
るといいます。山頂にはなごりの祠も残っています。
▼【播隆祭】
この播隆上人の偉業をたたえ、毎年5月の11日に地
元観光協会が、登山者や観光客の安全を祈り、北アルプ
ス飛騨側の開山式「播隆祭」を行っています。
▼【笠新道】
いまもっともふつうに利用されているのは「笠新道」
という登山道。新穂高温泉から、左俣林道のワサビ平手
前から左に道を分け、登りはじめる笠ヶ岳への近道です。
この登山道は、1965年(昭和40)、国民体育大会山岳競
技が、笠ヶ岳、双六岳、槍ヶ岳、穂高岳で行われたとき
造られたものだそうです。
▼【三奇石伝説】
さて、飛騨山脈ジオパーク構想と銘打ったエリア内に
は、数々の伝説が残されています。その中に高原川の「三
奇石」と呼ばれるものがあります。笠石、蓑石、杖石の
三つです。「三奇石」伝説は、どれも弘法大師の置き忘
れの伝説だそうです。ちなみに、飛騨山脈ジオパーク構
想とは、飛騨山脈の高山市エリア(丹生川町・上宝町・
奥飛騨温泉郷)の見どころのことだそうです。
▼【杖石伝説】
弘法大師にちなんだ「三奇石」伝説のなかでも「杖石」
は、高原川沿いの細越地区にそびえる巨大な岩で、その
姿は柱のようにそびえた岩。この岩柱は、高さ
70m、
周囲 250mもあり、頂上には弁天さまがまつられてい
ます。下流側からは頂上まで登れるようになっており、
弁天さまに参拝すると参拝すると良縁が授かるといわれ
ています。
▼【弘法大師伝説】
弘法大師の伝説です。その昔、弘法大師さまが越中の
国から、仏の道を説き人々に安らぎを与えるため、高原
川をさかのぼり細越地区にやってきました。その日は雨
でもあり、大師さまはアップダウンの山道に苦労してい
ました。が、細越地区まで来ると道は平らになり、あた
りも美しい景色になっていました。
弘法大師は景色に見とれ、しばらく立ちすくんでいま
したが、やがて持っている杖をしみじみ眺め、「長い間
世話になったが、わしには、もうこの杖はいらなくなっ
た。あとから来る困った人にあげよう」と、杖を地面に
突き立てて立ち去りました。すると地面に突き刺さった
杖が、見る見る大きくなって、次第にいま高原川沿いに
ある「杖石」のような大岩になっていったということで
す。
▼笠ヶ岳【データ】
★【所在地】
・岐阜県高山市上宝町(旧岐阜県吉城郡上宝村)。高
山本線高山駅の北東34キロ。JR高山本線高山駅から
バス、新穂高温泉から歩いて7時間で笠ヶ岳(標高2897.5
m)二等三角点がある。地形図に山名と三角点の標高あ
り。三角点より北方294mに笠ヶ岳山荘がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
・三角点:北緯36度18分55.72秒、東経137度33分01.43秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「笠ヶ岳(高山)」
★【山行】
・某年年8月7日(日・快晴)
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典21・岐阜県』野村忠夫ほか編(角
川書店)1980年(昭和55)
・『山岳宗教史研究叢書10・白山・立山と北陸修験道』
高瀬重雄(たかせしげお)編(名著出版)1977年(昭和52)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・「旅と伝説」(全193号)三元社:『旅と伝説・民俗学
資料集成』(岩崎美術社)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本百名山』深田久弥(新潮社)1970年(昭和45)
・『秘録・北アルプス物語』朝日新聞松本支局(郷土出
版)1982年(昭和57)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年
(昭和56)
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