山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼山旅1156号(百伝056)常念岳「念仏僧と満願寺」

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【本文】

▼【常念岳とは】
 長野県安曇野から西に、大きく望める前常念岳のうしろに常念
岳(標高点2857m)があります。槍穂高連峰の展望を欲しいまま
に出来る常念山脈(大天井岳山から常念岳・蝶ヶ岳・大滝山)の
主峰です。北側の鞍部に常念小屋があり、テント場もあります。

 常念岳の山頂は、花崗岩の岩塊が積み重なってなり、方向盤と祠
があります。周辺の山々は、表銀座コース、裏銀座コースなども多
くは花崗岩で成り立っています。しかし、それも大天井岳山方面か
ら常念岳までで、山頂より南側に下ったあたりから不変成古生層に
変わり、蝶ヶ岳方面への稜線は急に樹林が増えていきます。

 常念岳は、かつてはまゆみ岳と呼んでいたといいます。また乗
鞍岳とも呼んでいました。それが、江戸時代の享保9(1724)年
の地誌『信府統記』(しんぷとうき)という書物に、常念岳と記載
され、以後常念岳が通称としてほぼ定着したそうです。

▼【雪形と祠】
 ここ常念岳は念仏僧である常念坊伝説が有名です。4月上旬か
ら下旬にかけて前常念岳の東側に常念坊の雪形が黒くあらわれま
す。この雪形はふもとの農作業開始の目安になっていたといいま
す。いまでも常念岳山頂には、常念坊をまつった祠があり、かつ
ては中に常念坊の石仏があったそうです。しかし、たびたび盗難
にあい、いまは何代目かの常念像が常念小屋に保管されているそ
うです。

▼【常念坊伝説】
 常念岳は、もともとふもとの人々からは常念坊と呼ばれていまし
た。常念坊とは僧の名前です。昔、この山に入っていた密猟者が野
営中、山頂あたりから一晩中、鐘の音や読経の声が聞こえて、一睡
もできなかったといいます。

 密猟者は夜が明けるが早いか、一目散にふもとに逃げ帰ったので
した。そんなことがあってから、村人の間で「あの山にはいつもお
経を唱えている坊さんがいる」という噂が広まり、この山をただ常
念坊と呼んだといいます。

 そのほかこんなはなしも伝わっています。時々ふもとに見慣れな
いお坊さんがやってきては、みんなの前で不思議なことを起こすと
いうのです。どんな不思議なことかといいますと、毎年、ふもと
で市(いち)が開かれるころになると、きまって怪しい坊さんが
酒を買いにあらわれるのです。そして五合徳利(とっくり)を差
し出し「五升入れてくれ」といいます。

 酒屋の親父(おやじ)は気味悪がり、仕方なく酒を徳利につい
でみると、不思議なことにこの徳利に五升の酒が入ってしまうの
です。親父はただ呆然としています。人々は、あの坊さんはきっ
と、まゆみ岳の精の化身に違いないということになり、山の名も常
念岳で通用するようになったといいます。

 これらの話を広めたのはW・ウエストンだそうです。ウエスト
ンは、イギリス人宣教師、登山家。日本アルプスを最初に世界へ紹
介したといいます。彼は、明治29(1896)年に常念岳に登り、山
案内人から常念坊の話を聞いたといいます。

 さらに常念坊の名は、常念岳山ろく、いまの安曇野市穂高にあ
る満願寺の常念坊という住職が、この山を開山したため、その和
尚の名をとったといいます。また田尻村(いまの堀金村)の正福
院(明治維新に廃寺)の修験者常念坊が、登るようになったから
という説もあります。

▼【八面大王と田村麻呂】
 こんな話もあります。その昔、信濃富士ともいわれる中房温泉
近くの有明山(2268m)に、八面大王(または魏石鬼・ぎしき)
という鬼賊が住んでいました。大勢の鬼を配下におき、悪行のし
放題でした。朝廷はこの鬼を退治するため、将軍・坂上田村麻呂
(さかのうえのたむらまろ)を差し向けました。

 しかし八面大王もさるものです。大きな岩石を雨や霧のように
ふもとに降らせ、田村将軍も一歩も近づけません。将軍がいくら
矢を放ってもサッパリ当たりません。万策尽きた田村麻呂は、ふ
もとの千手観音(いまの満願寺)に祈願。そのご加護で、鬼賊を
退治できたといいます。そのため、田村麻呂はお礼として、この
寺を創建したと伝えています。

 また一説に、八面大王の強さに困った田村麻呂は、水沢(※群
馬県渋川市伊香保町水沢の五徳山水澤観世音のことか?)の清水
観音に祈願し、大王を退治できれば、お参りする人が一日千人も
来るような繁栄したお寺にしてみせると誓いました。

 満願の夜になり、夢枕に観音さまがあらわれて、「尾羽が33節も
あるような山鳥をさがし、それで矢をつくり八面大王をねらって
射れば退治できる」とのお告げがあったのです(13節という説も)。

 大願成就した田村麻呂は約束を守るにあたり、寺を都に移し建
てたのが東山の清水観音(京都の音羽山清水寺か?)だという話
もあります。八面大王が退治されたのは806(大同元)年のことだ
ともいい、鬼賊の剣は3つに折れその1つはいまでも満願寺にあ
るそうです。

▼【満願寺】
 その満願寺は、真言宗豊山派のお寺です。江戸時代は松本藩主
の祈願所だったところだといいます。明治時代になり、政府は天
皇中心の親政政治を目指して、いままで神仏習合の制度から、神
は神、仏は仏と切り離し制度にする法令「神仏分離令」を制定を
発布しました。

 これにより一部の暴徒は、政府におもんぱかって、政府が仏教
より神道を重んじたのであるから、仏教はつぶしてもよいと勘違
いしてしまいます。お寺を襲撃し、焼き払い、伽藍や仏塔、仏像
をぶちこわすような「廃仏棄釈」の嵐が吹き荒れます。

▼【廃仏棄釈】
 ここ松本藩でも「廃仏棄釈」を率先してすすめました。これに
は松本藩の事情があったともいいます。かつて松本藩は明治維新
の時、勤王派・佐幕側どちらにつくか迷い、戊辰戦争への参加が
出遅れ、政府に負い目があったのです。そのため政府に忖度して、
名誉を挽回しようと積極的に廃仏毀釈に取り組んだのでした。

 当然、満願寺も当然やり玉にあがります。1871年(明治4)、松
本藩戸田光則公の命で廃寺にすることにしました。しかしこの寺
はあまりにも山奥にありました。見まわりに入るのも大変で一筋
縄ではいきません。

 なかなか出かけて行く者もなく、建物はそのまま残され、なん
とか破壊から免れたのでした。その後1909年(明治42)、地元檀家
の強い要望により、元の満願寺として再興されたということです。

 この「神仏分離令」は公布された時、政府の思惑通り、仏教か
ら神道に切り替えた人もいましたが、一般民衆は、満願寺への信
仰が厚いため、表面上は神道を装いながら、かたくなに仏教儀式
を守り通したといいます。その証拠に、いまでも葬儀は神道で、
法要は仏式で行い、お盆には塔婆と、「神仏混交」の儀式を行う人
が多いそうです。

 満願寺の参道入口・微妙橋下を流れる川は「三途の河」だとさ
れ、その左右の山を死出山と呼んでいます。この橋は立山の無明
橋、高野山の無妙橋とならんで日本三霊橋に数えられているとい
います。近くの立て札には、坂上田村麻呂が有明山の八面大王を
退治した伝説や、お小僧火伝説の寺でもあると、由緒を簡単にふ
れています。信州三十三番札所・第二十六番、川西三十三番札所
・第一番になっています。

▼【常念岳からの展望】
 さて常念岳から西を眺めると、槍ヶ岳を人間の鼻に、大喰岳を
胸に見たてると、大男が仰向けに寝ているように見えます。ちゃ
んと左手(大喰岳からの尾根)を持ち、ちょっと出っ張ったへそ、
または男性自身?になっている中岳もあるのが愉快です。(常念小
屋・山田恒男氏に聞いた話)。

▼【観天望気】
 ちなみに「常念岳の山が、峰の部分だけ雲の上に出て、雲が帯
のようにひくと雨になる」とか、「常念に朝日が当たるとその日は
晴れ」などの言い伝えがあるそうです。



▼常念岳【データ】
★【所在地】
・ヒエ平から:長野県松本市安曇と長野県安曇野市堀金との境。大
糸線豊科駅の北西16キロ。JR大糸線穂高駅からタクシーでヒエ平
下車、歩いて4時間半で常念岳。
・三股から:長野県松本市安曇と長野県安曇野市堀金との境。大糸
線豊科駅の北西16キロ。JR大糸線穂高駅からタクシーで三股手前
のゲート。7時間で常念岳。
・中房温泉から:長野県松本市安曇と長野県安曇野市堀金との境。
大糸線豊科駅の北西16キロ。JR大糸線穂高駅からバス、中房温
泉から歩いて11時間で常念岳。
・写真測量による標高点(2857m・標石はない)がある。常念坊
の祠がある。地形図に山名と標高点の標高の記載あり。標高点よ
り北方向882mに常念乗越・常念小屋がある。

★【位置】電子国土ポータル
・標高点:北緯36度19分31.88秒,東経137度43分39.32秒(国土地
理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)

★【地図】
・2万5千分の1地形図「穂高岳(高山)」

★【山行】
・某年8月25日(金・快晴)



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県の地名』市川健夫ほか編(角川
書店)1990年(平成2)
・『北アルプス物語・秘録』朝日新聞松本支局(郷土出版)1982年
(昭和57)
・『信州山岳百科1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『信州百名山』清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『信府統記』鈴木重武/三井弘篤編述・小松芳郎/解題(国書刊行
会)1966年(昭和41)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本伝説大系7・中部』(長野・静岡・愛知・岐阜)岡部由文ほ
か(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)
・満願寺パンフレット
・『南安曇郡誌』南安曇郡教育会1923年(大正12)
・『山の傳説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)

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 (主に画文著作で活動)
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