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よく槍・穂高といいます。山に登る人があこがれるのはやはり
北アルプス。なかでも槍ヶ岳・穂高岳(ほたかだけ)は圧倒的に
有名です。
穂高とは、最高峰の奥穂高岳(3190m)のほか涸沢岳(3110m)
・北穂高岳(3116m)・前穂高岳(3090m)・明神岳(2931m)・西
穂高岳(2909m)などからなる岩峰群の総称だそうです。
最高峰の奧穂高岳は、富士山、南アルプスの北岳についで日本第
3位の高さ。山頂には祠があり、高さ3mもあるケルンが積まれて
います。このケルンは、上まで測れば標高が3192mになり、南ア
ルプスの北岳を抜いて、富士山についで日本第2位の山となるとい
うもの。しかし、残念ながら認められていないそうです。
ここからの展望はすばらしく、富士山をはじめとする山々が望ま
れ、360度のパノラマが広がります。
▼【山頂のケルン】
山頂のケルンは、穂高岳山荘の前身の穂高小屋を建てた今田重太
郎氏が、昭和16年(1941)ごろに積んだもの。狭い山頂に目印と
して積んだのがはじまりらしい。
しかし、たった3mの差で北岳に順位を取られていのを、今田
氏は北岳を標高第2位にしようとする気が「全くなかったわけで
はない」と、ちょっぴり悔しさをご自分の本に書いています。気
持ちは分かりますね。
▼【高い高いのホ、タカ】
さて山名の「穂高」の「ホ、タカ」は古語で、「高い高い」とい
う意味の重言の言葉だそうです。また、17世紀中ごろ(江戸時代
のはじめ)正保(1644〜1648年)の古い地図にはすでに「保高岳」
という文字があるそうです。このころは「保高」の字を使ってい
たのですね。
▼【嶮山ニシテ登ルコト能ハズ】
「穂高」の名が初めて出てくるのは、『信府統記』(しんぷとう
き)という書物だといいます。これは江戸時代中期の享保9(172
4年)に、鈴木重武・三井弘篤という人が編纂した松本藩内の総合
書で、「藩治便覧」ともいわれる地誌だそうです。
その(第六巻)に「此(の)嶽(穂高嶽)ハ、往古ヨリ穂高大
明神ノ山ト云伝ヘテ此ノ名アリ、嶮山ニシテ登ルコト能ハズ、麓
ニ大明神ノ御手洗トテあら池(ママ)ト云フアリ、広サ三四町四方
程ノ池ニテ深サ測リ難ク、いわなト云フ魚多クアリ、杣人(そま
びと)筏(いかだ)ニ乗テ是ヲ釣ル、此(の)外梓川ヨリ西ノ方
ニ山岳多シト雖モ深山ニテ往来ケレバ山名モ知レズ」(「長野県の
地名」)と、上高地や穂高岳の様子を伝えています。
さらに、(第一七巻)では、「白雉四年、穂高大明神ヲ伊勢国ヨ
リ勧請ス…此嵩(たけ)清浄ニシテ、幣帛(へいはく)ノ如ク、
麓ニ鏡山アリ、宮川、御手洗、河水ナリ、神合地ト云云。穂高嶽
ハ、今上野組、上河地トイヘル所ナリ、此嵩高山岩壁ニシテ、上
ルコト能ハザル大山ナリ…」(「アルパインガイド28・上高地槍穂
高」から)と穂高岳に穂高大明神が鎮座されたいきさつなども記
述しています。
また1849年(嘉永2)に美濃今尾藩・豊田利忠が書いた「善光
寺道名所図会」には、穂高村の医師の高島章貞が、1818年(文政
1)に上高地に遊んだ紀行文「穂高岳記」を収録。その中に「俊
秀独歩の秀高岳」という一節があります。
穂は、秀の仮字のことから、秀のかわりに穂が使われたといわ
れています。山容が幣帛(へいはく)・御幣(ごへい)に似ている
ので御幣岳の名もあったともいいます。いまのように北穂・奥穂
・前穂など個々の山名がつけられたのは大正時代中ごろのことだ
そうですよ。長々と余計?なことを書きました。
▼【物草太郎伝説】
ところで、奥穂高山頂にある祠の神をご存じですか。祠は長野
県穂高町と長野県安曇村上高地にある穂高神社(穂高大明神)の
山宮になっています。まつってある神は綿津見命(わたつみのみ
こと)とその子・穂高見命、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)になっ
ています。しかし、ちまたではもっぱら、あの物草太郎(ものく
さたろう)をまつっていることになっているそうです。
物草太郎は、室町時代の物語『御伽草子』(おとぎぞうし)に、
こんなふうに書かれています。「東山道陸奥(とうせんどうみちの
く)の末、信濃国十郡のその内に、筑摩郡(つかまのこほり)あ
たらしの郷といふ所に、不思議の男一人侍りける、その名をものく
さ(物草)太郎ひぢかすと申し候ふ」だそうです。
この男が尋常でない「不精ったれ」だったのです。不精者の太郎
は、朝から晩までただ寝ているばかり。人が餅を恵んでくれますが、
ろくな反応もなし、餅を取り損ねてしまい、転がり落ちました。し
かし、それを拾いにいくのも面倒がる始末。
誰か人が来たら、拾ってくれるだろうと3日も待ち、やっと餅を
食べられたというありさまです。こうなれば一種の「ずば抜けた才
能?」ですよね。ちょうど通りかかった地頭(じとう・地方役人)
が妙に感心し、村人に太郎を養うように命令します。
ある時、京から村に長夫(ながぶ・公用での労役)を出せとのお
達しがありました。村人はみな京へ行くのを嫌がり、物草太郎に押
しつけました。無理やり京へ上らせられた太郎は、それでもまめま
めしく働き、長い夫役(ぶやく・労働課役)も終えたのでした。
そんな時、物草太郎はそろそろ身を固めようとも思ったのでしょ
うか、自分にふさわしい女性を探すため、清水寺に行きました。ち
ょうどそこにいた貴族の美女を見初め、連歌のかけ合いをします。
貴族の美女も、へんな男に言い寄られ、ビックリはしました。が、
連歌のかけ合いをしているうちに、「この男見かけによらず、和歌
の道に通じているゾ」と、ついに心を許してしまい、結婚すること
になってしまいました。
やがて時間が経つうちに、この太郎がやんごとない身分だったこ
とが分かりました。つまり、第54代仁明天皇(にんみょうてんの
う・平安時代はじめ)の第2皇子の深草天皇(ふかくさてんのう・
※この天皇は実在しないという)の子で、「二位の中将」という人
の子であり、仁明天皇の3代の孫であることが分かったのでした。
この二位の中将が、かつて信濃に流された時、善光寺の如来から
授かった申し子が太郎だったのです。帝(みかど)は、太郎を「信
濃の中将」に任命し、甲斐の国と信濃の国を与えたのでした。なん
ともすごいことになりました。こうして帰国した物草太郎は、故郷
で安楽に暮らし120歳まで生きたといいます。
例の『信府統記』(しんぷとうき)にも、穂高神社は、「文徳天皇
ノ御宇、信濃中将ト云ヒシ人(物草太郎のこと)ニ勅シテ、当社ヲ
造営セシメラル。…此(の)中将ハ仁明天皇ノ三代ノ孫ナリ。俗ニ
物苦(※モノクサ)太郎ト称ス。今当社ノ内ニ若宮大明神ノ宮アリ、
此中将ヲ祝ヒシトナリ、中将ハ其比当国ノ国司ニヤ」とあります。
そして太郎の死後は、『信府統記』にあるとおり、おたがの大明
神、妻はあさひ(あさい・朝日)の権現となってあらわれ、長生き
の神としてまつられています(『御伽草子』ものくさ太郎の項)。お
たがの大明神の「おたが」とは、愛宕(あたご)とか御多賀(おた
が)のことだといわれてきました。
松本市出川町に、長生きにご利益のある多賀神社というのがあっ
て、大明神はここのこという説もあります。しかしそうではなく、
普通は「おたが」は穂高の訛りだというのが一般的な説だという人
もいるそうですが。それはともかく、地元の人は、いまでも穂高神
社を「物くさ太郎の宮」といっており、そこには実際に太郎の塚も
あります。
▼【人首蛇体の女神が落とた石】
穂高神社にまつられている穂高見命(ほたかみのみこと)につ
いては次のような話も残っています。大昔、?氏(かし)という
女神が、雲の上で五色の石を練っていました。ある時、そのひと
つを誤って信濃国に落としてしまいました。
この石が、信濃国の大地に数十里もの大穴をあけました。そこ
へ大雨水が溜まりに溜まり、その穴は、安曇・筑摩の地方にわた
って湖水になりました。さらに石は、高い山が連なる北アルプス
になったというデッカイはなしです。
ちなみに?氏(かし)という女神(女?)は、中国の古代神話
上の女神で人首蛇体の姿をしているそうです。彼女は、泥をこねて
人間をつくり、天が崩れかかってくると、五色の石を練って天を補
修したといいます。
▼【穂高見命と美女神話】
さて、穂高見命は安曇連(むらじ・首長、村主)の祖先にあた
ります。この穂高見命が、神の国から信濃(いまの松本平)に天
降りました。当時はまだここ松本平は湖の底でしたが、穂高見命
はその湖底にすむことにしました。
湖底にすんだ穂高見命は、なんとか水を落として、あたり一帯
を平野にしたいと考えていました。しかし周りは高山が壁のよう
になっていて、平らにするのはとても無理です。
さて一方、この湖の主に犀竜(さいりゅう)という美女がいま
した。犀竜は天下ってきた穂高見命を見染め、恋仲になりました。
そして男の子をもうけたのです。男の子の名を白竜太郎(または
泉太郎)とつけました。
妻の犀竜は、夫穂高見命がこの湖を干して、大地を拓くことを
願っていることを知り、ある決心をしました。ある日、妻は蛇体
に化身し、おのれの背に息子の白竜太郎と乗せました。そして風
を起こし雲にのり、山々に向かっていき、その一角を蹴破ったの
です。
大湖の水は、ドッと川に流れはじめました。その川は犀川とな
りました。こうして松本・安曇野の広大な平野が出現したのでし
た。人々はいま、白竜太郎を背に乗せた地を「犀乗り沢」といっ
ているそうです。
▼【美女お玉の小祠】
穂高岳山ろく安曇野市穂高と同市豊科南穂高の境、犀川べりの
田んぼの中に、「お玉柳」と呼ばれるヤナギの木が風にゆられてい
ます。そばに古ぼけた祠がひとつ建っています。これには美女お
玉にまつわる伝説があるそうです。
昔、この近くにお玉という美しい乙女が住んでいたそうです。こ
のあたりは一面のヤナギ林で、南穂高村(いまの安曇野市豊科南穂
高)には「重柳」(しげやなぎ)という区名まで残っているほどで
した。
ある年の春、村の衆は冬のうち伐採したヤナギの根株を掘り返し、
共同で開墾していました。お玉もその中に混じり作業していました。
ひなびた作業姿ながら、どこか気品がある彼女に引かれ、村の若者
たちは心に張り合いを持って仕事をしていました。
ある日、昼食をすまし午後の仕事に取りかかる時になってもお玉
が姿をあらわしません。いつもは真っ先に仕事にかかる彼女です。
しかし、ふた時(ふたとき・米4時間)たってもあらわれません。
これは何かあるぞ。と、村人は彼女がいつも昼休みにいるヤナギ
の木の下に行ってみると、何ということか、長さ4,5尺(1m51.5
センチ)もある蛇に見込まれて、すでにこの世の人ではなくなっ
ていたのでした。美しい彼女を失ってしまった村の若人たちの悲
しみと、助けてやれなかった絶えきれない悩みは計り知れないも
のでした。
それから何十年、あたり一帯はすっかり開墾されて田んぼとし
て開けました。しかし、お玉と蛇の心中したヤナギの木だけはそ
のまま残されました。そしてそのかたわらには小さな祠も建立さ
れたということです。
▼【公安さまのお堂】
ある年の晩春の午後、所々つぎはぎの衣をまとった年老いた僧が、
杖をたよりに穂高の山から穂高村(いまの長野県安曇野市穂高)
に下りてきました。
長い間山中に籠もって修行したらしく、老僧の姿には犯すことの
できない気品がそなわっています。日焼けしたその厚い唇からは
インド浄土教の論書(願生偈・がんしょうげ)を唱える低い声も
聞こえます。
老僧は、村の辻堂に一夜の宿を求めました。それが縁となって、
辻堂の僧と旅の僧は、「念仏の話」に幾夜もあかしました。旅の僧
は滞在をすすめられるまま、月日を過ごしていきました。村人と
も心通わせる陽になりました。こうして、いつか夏も過ぎ、さわ
やかな初秋になりました。
旅の僧は悩んでいました。いままで浮き世を捨てて、山に籠も
って修行を重ねてきたが、どうしても本当の悟りを得ることがで
きない。老僧は悲しみました。そしてついには、生きながら墓に
入りたいと願うようになりました。
それを聞いて辻堂の僧が慰め、村人も止めましたが、老僧の決
心はくつがえりませんでした。旅の僧の決心は堅かったのです。「そ
れほどのお望みならかなえてあげましょう。その前にご自身の訳
を語られよ」と辻堂の僧。
しかし老僧は、自分が「京の高貴な者」以外、「浮き世のことは
聞いてくださるな」一点張り。それ以上のことは話しませんでし
た。このどうにも止めることのできない老僧の決心は、村人によ
ってかなえられました。
人々は墓を掘りました。そして老僧は棺に入り、別れを惜しむ
村人に思いを残して、地面に埋められました。香を捧げた墓の地
中からは、読経の声がかすかに漏れてきました。そして7日目の
夕方、読経の声もついに途絶えました。
このありし日の旅僧の徳をたたえて、墓のかたわらにお堂が建
てられることになりました。それがいまも穂高町常盤町付近の墓
の中にある「公安(こうあん)さま」だということです。しかし、
いまだに老僧の身分、名前、どこの山で籠もって修行したのか謎
なのです。
▼奥穂高岳【データ】
★【所在地】
・長野県松本市安曇(旧南安曇郡安曇村)と岐阜県高山市上宝町
(旧岐阜県吉城郡上宝村)との境。篠ノ井線松本駅の北東29キロ。
松本電鉄新島々からバス上高地下車、重太郎新道経由歩いて8時
間30で奧穂高岳。写真測量による標高点(3190m)と穂高神社の山
宮の祠がある。地形図上には山名と標高点とその標高のみ記載。標
高点より北方向直線約480mに穂高岳山荘がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・標高点:北緯36度17分21.18秒、東経137度38分52.74秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「穂高岳(高山)」
★【山行】
・某年5月5日(月曜日・晴れ)
▼【参考文献】
・「アルプスの伝説」山田野裡天(ナカザワ)
・『御伽草子』市古貞次(岩波書店)(日本古典文学大系38)1958
年(昭和33)
・『角川日本地名大辞典20・長野県の地名』市川健夫ほか編(角川
書店)1990年(平成2)
・『山名の不思議』谷有二(平凡社)2003年(平成15)
・『信州山岳百科1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『信府統記』鈴木重武/三井弘篤編述・小松芳郎/解題(国書刊行
会)1966年(昭和41)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本の民俗20・長野』向山雅重(第一法規)1975年(昭和50)
・『日本の民話10』(信州・越中編)(未来社)1974年(昭和49)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)
・『穂高嶽記』(高島章貞)・1818年(文政1)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)
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