【本文】
槍・穂高といえば
北アルプスを象徴する言葉になっています。
文字どおり、天を突くような北アルプスの槍ヶ岳はあまりにも有
名で、いつも登山者の人気の的です。山の名前はやはり穂先の形
が鋭く、槍のようだというところからきています。
毎年、夏山シーズンになると、山好きの人たちの槍ヶ岳登山の
行列が続き、きまって山頂にある祠をバックにカメラにおさまり
ます。そのため祠の前はいつも満員、順番待ちをする状態です。
槍ヶ岳は、長野県と岐阜県の境にあるように思いがちですが、
よく見ると、両県の境を通っているのは小屋のある山頂の肩で、
三角点のある穂先は、長野県に出っ張っているのでございます。
▼【播隆上人】
槍ヶ岳への初登頂は、播隆(ばんりゅう)上人という江戸後期
の偉い念仏僧だといいます。播隆はその前に、笠ヶ岳再興に挑ん
でいました。江戸後期の1823(文政6)年に、播隆上人の努力で
岐阜県高山市にある笠ヶ岳の再興が達成しました。それを祝って
上人は、村人18人を連れて笠ヶ岳に登頂したときのこと。
笠ヶ岳の山頂に立ってまわりの山を見渡すと、東の空に荒々し
い穂高連峰の岩峰群が浮かんでいます。その中にひときわ、天を
突くようにそびえる槍ヶ岳が、上人の目に入ってきたのでした。「う
ん!あの山こそ、絶好の修行の場所だ」。
播隆上人はそう確信し、あの槍ヶ岳に登ることを強く決意した
のでした。そしてついに、1828年(文政11)、いまの三郷村(いま
の長野県安曇野市)の中田又重郎という人を案内人に頼んで、大
阪で鋳造した銅製の阿弥陀如来、観世音菩薩、木造の文殊菩薩の
3体の仏像を背負って、槍ヶ岳に登ったといいます。
その記録です。「此の頂上は往昔より、踏み登りたる人なしと。
ここに於いて余発願して、去る文政十一年戌子の秋、はじめて頂
上にのぼり、銅製の阿弥陀如来、同じく観世音菩薩、木造の文殊
大士の三尊を安置し奉る……」。その苦しみは背中の尊仏たちも汗
を流すほどだったと、播隆上人がつづった『信州鎗嶽畧縁起』(『山
岳宗教史研究叢書17』)に出ています。
▼【山頂の祠】
播隆上人たちは、槍ヶ岳の山頂を平らにし、北側の高いところ
に小祠を造り安置。のち、みんなが登れるようにと「善の綱」と
名づけた綱を岩壁につけました。そして、その山頂に木の祠をつ
くり、新たに運んだ銅製の釈迦像を加え4体にして山の寿命神と
してまつったといいます。
こうして播隆上人は、槍ヶ岳の山頂に2仏2菩薩を安置、長年の
願いが成就できたのでした。しかし世は明治維新の混乱期に入り、
いつか山頂の2仏2菩薩のことは忘れられてしまったのでした。
いまあるのは、その後何度か再建された祠。厳しい風雪に耐える
祠の中はからっぽです。
▼【山名・鎗と槍】
この槍ヶ岳の山名も、播隆上人がつづった『信州鎗嶽畧縁起』
にあるように、江戸時代から明治、大正にかけては金偏の「鎗」
の字が大分使われたそうです。漢和辞典を引くとなるほど、「鑓」
も「槍」も「鎗」もみんな「やり」だとあります。
しかし、明治から大正時代の教育学者であり、植物学者・信濃
山岳会副会長だった河野齢蔵という人が、「鎗の字には武器のヤリ
という意義はない。鎗は全然別の意義なので、この山には槍の字
を使うべきだ」と主張。それからは「槍」の字だけが使われるよ
うになったということです(『信州山岳百科・1』)。
▼【槍ヶ岳の仲間】
さて、山頂が槍のようにとがっている山は各地にあります。そ
んな山々を、鹿島槍ヶ岳、白馬鑓(槍)ヶ岳、蝶槍などと、その
地方の地名をつけて呼んでいます。みんな槍ヶ岳にちなんだ名前
です。たしかに槍ヶ岳の天を突く独特な形は印象的です。どんな
遠くの山から見てもひと目で分かります。よく各地の山で「あ、
槍だ」と指をさす登山者の姿を見かけます。
▼【槍家族】
ところで、この槍ヶ岳は、大家族なのだそうです。大きな穂先
は大槍と呼ばれています。その北西にある突起は小槍です。歌に
も「小槍のうーえでアルペンおどりをさァおどりましょ…」と「ア
ルプス一万尺」で歌われるところ。そのほか孫槍・曾孫槍の尖峰
もありますから愉快ですね。
▼【アルプス一万尺】
その「アルプス一万尺」は、原曲をヤンキードゥードゥル(Yankee
Doodle)といい、アメリカ独立戦争時の愛国歌だったといいます。
ドゥードゥルはまぬけというような意味で、もともとはイギリス軍
が植民地軍を馬鹿にした歌だったといいます。それが逆に植民地軍
の愛国歌になったのだそうです。この「アルプス一万尺」の歌詞は
全部で29番まであるというからすごいです。
歌詞は、槍ヶ岳から西穂高岳、奥穂高岳など穂高の山々をひとめ
ぐり、上高地へまで「縦走」しています。それ以外にもさまざまな
替え歌があります。2,3紹介しますと「槍はムコ殿、穂高はヨメ
ご、中でリンキの焼が岳」。「槍と穂高を、番兵において、お花畑で
花を摘む」とか、「槍と穂高を、番兵に立てて、鹿島めがけてキジ
を撃つ」などというものまであります。「花摘み」とか「キジを撃
つ」というのは、つまりその……、生理現象のことです。
後ろの方になると「ナンダカナ?」というものまでありますが。
ちなみに「アルペン踊り」というのは、手を振り上げる、ジャンプ
する、またスイスアルプス地方の民族舞踊などという説がいろいろ
あるようです。さらに自分自身で振りを創作し、小槍の上で本当に
踊った人もいるといいます。ホントカイナ。
しかも孫槍、曾孫槍とつづいているのはあまり知られていませ
ん。さらにほかの地名のついた○○槍ヶ岳の名がある山も多い。
これらの叔父さん叔母さんまで入れたら親族の数はどのくらいに
なるのでしょうか。
▼【喜作新道・表銀座コース】
一方、中房温泉から燕岳、大天井岳、西岳から東鎌尾根経由で
槍ヶ岳へ真っ直ぐ登山道が延びている登山道が喜作新道です。「ア
ルプス表銀座コース」として大勢の登山者が訪れます。その名のよ
うに喜作という人が造った道です。喜作とは安曇野市穂高牧集落出
身の猟師小林喜作のことで、1922年(大正11)にこの道を開拓、
殺生小屋や西岳小屋を建てたという(『信州山岳百科1』)。
一説に、西岳小屋で小林喜作が登山客に夕食を出してから、中
房経由でふもとの自分の家まで下山し、用事を終わらせてから、
宿泊客が目を覚ます前に小屋に戻って朝食の準備したという逸話
があります。その時の姿が、当時銀座ではやっていた草履(ぞう
り)履(ば)きに提灯(ちょうちん)をぶら下げるという、独特
「銀ぶらの格好」だったので、だれいうとなく銀座通りの名が定
着したといいます。
喜作は1923年(大正12)3月、息子と一緒に後立山連峰に猟に
出かけ、爺ヶ岳裏の棒小屋沢で雪崩で死んだということです。この
喜作新道を記念して、大天井岳の周辺にレリーフがいくつか掲げて
あり、毎年秋には「喜作祭り」の記念山行も行われているそうです。
▼【裏銀座コース】
表銀座があれば裏銀座・西銀座もあります。それぞれ槍ヶ岳をめ
ざすコースです。裏銀座コースは同じく長野県大町市の高瀬ダム
横のブナ立尾根登り口を基点とし、烏帽子岳・野口五郎岳・鷲羽
岳・双六岳から西鎌尾根を経て槍ヶ岳へ至るコースだといいます。
表銀座コースに比べ行程が長く登山者も少なく静かに歩けるとこ
ろ。
▼【西銀座コース】
また西銀座ダイヤモンドコースは、広義には、日本海側の剱岳
・立山からはじまり、越中中沢岳・薬師岳・太郎山・黒部五郎岳
・三俣蓮華岳から裏銀座コースに合流、双六岳経由で槍ヶ岳へ向
かうコースですが、一般的には折立登山口から登り、太郎山で合
流するコースをいうようです。
▼【銀座コースの表裏】
「表」とは長野県側安曇野から見て、里に近い山なので表だそ
うです。「裏」は、表銀座コースの山々を越えて、安曇野方面から
見れば裏コースなのだそうです。「西」も同じ理由です。
ところで、昭和20年代は裏銀座コースは、こちらのコースの方
が槍ヶ岳へ至るメインルートになっていて、いまの表銀座コース
くらいの登山者を集めていたそうです。そのほか「ゴールデンコ
ース」などとの呼び方もあったそうですが、かなり混乱ぎみです。
つまるところ、あこがれの槍ヶ岳へ向かう人気コースで、東京銀
座通りのように登山者の多い通りということなのかも知れません。
ちなみに喜作新道ができる前の明治から大正初期にかけては、
槍ヶ岳を目指すには常念小屋のある常念乗越から東天井岳を経て
二ノ俣谷沿いに槍沢に下ったといいます。そしていまの吊り橋の
ある付近から槍沢を登りつめて、槍ヶ岳に至るのが一般的だった
そうですから、随分と遠回りをしていたようです。
▼【槍ヶ岳の槍で大蛇退治】
槍ヶ岳の槍はただの槍ではなく、大蛇退治もできるというこんな
話もあります。昔々、那須国造(なすのこくっこ)が、茨城県と福
島県境にある八溝山(やみぞさん)にすむ八峡大蛇(やまたのおろ
ち)を退治するよう命を受けました。
このやっかいな怪物を退治するには、どうしても駒ヶ岳(※木
曽駒とも甲斐駒ともされる)の「天津速駒」(あまつはやごま)と
いう神馬に乗らねばなりません。そして北アルプスの乗鞍岳の鞍
と、同じく槍ヶ岳の槍、同じく立山の盾(たて)を借りて挑まな
ければなりません。
この馬は、武甕槌神(たけみかづちのかみ・雷神で剣神で武神)
の魂から生まれた葦毛(白馬)だそうです。肩には銀色の翼があ
り、天空を駆け回って、夜は駒ヶ岳の山頂で眠るといわれる不老
不死の神馬。ひとたびこの駒に出会えば、いくら弱った人でも、
総身に活気がみなぎるとされる駒です。
しかし、天津速駒(あまつはやごま)を捕まえるのは難儀です。
駒ヶ岳の雪解けが進み、夏も近くなると神馬は水を求めて姫ヶ泉
(ひめがいずみ・秘めが泉)に出て来るという話です。ここは千古
に秘められた飲みなれた雪解けの泉。
那須の国造(こくっこ)は、毎日、姫ヶ泉のあたりをぶらついて
神馬の来るのを待ちました。ある日、この泉に葦毛の神馬があらわ
れました。が、ただ近づいたのではとても捕らえられるものではあ
りません。
彼は雪の色と同じ綿の衣を着て這って葦毛の神馬に近づきまし
た。神馬はそれを雪だと思い、油断しているところを不意に襲って、
速駒の魔(ま)の手綱(たづな)を引いて、首尾よく捕まえること
ができました
それからというもの、神馬につけた乗鞍岳の天安鞍(あまのやす
くら)にうち跨り、槍ヶ岳の天日矛(あまのひぼこ)と立山の天広
盾(あまのひろたて)を持って、八溝山に攻め入りました。
そして、めでたく八狹大蛇(やまたのおろち)を退治したといい
ます。このようにして勇敢に戦った天津速駒は、その後、駒ヶ岳に
舞い戻り、いまでも雪の峰々や谷々を歩き回っているということで
す。
▼槍ヶ岳【データ】
★【所在地】
・長野県大町市、長野県松本市安曇(旧南安曇郡安曇村)と岐阜
県高山市上宝町(旧同県吉城郡上宝村)との境(ただし標高点は
長野県)。篠ノ井線松本駅の北西35キロ。松本電鉄新島々駅からバ
ス、上高地から歩いて延べ10時間半で槍ヶ岳。写真測量による標
高点(3180m)。(二等三角点は亡失・地形図には記載なし)。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・標高点:北緯36度20分31.08秒、東経137度38分51.4秒
・三角点:二等三角点は亡失・地形図に記載なし。
★【地図】
・2万5千分の1地形図「槍ヶ岳(高山)」
★【山行】
・某年8月15日(金・くもり)。
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書10・白山・立山と北陸修験道』高瀬重雄編
(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集1・東日本編)五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新稿日本登山史』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・『信州山岳百科1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・「信州鎗嶽畧縁起」(「鎗嶽畧縁起」)
播隆上人著 (祐泉寺本):『山
岳宗教史研究叢書・17』(修験道史料集1・東日本編)五来重編(名
著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「世界の植物6」(朝日新聞社)1975年(昭和50)
・「旅と伝説」(第1巻・通巻1号〜6号)(岩崎美術社)1928年(昭
和3)
・『日本山岳風土記1』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』一志茂樹ほか(平凡社)
1990年(平成2)
・「播隆上人と槍ヶ岳、笠ヶ岳」前田英雄:『山岳宗教史研究叢書10
・白山・立山と北陸修験道』高瀬重雄編(名著出版)1977年(昭和
52)
・『秘録・北アルプス物語』朝日新聞松本支局(郷土出版)1982年
(昭和57)
・『山の伝説』日本アルプス編(青木純二)(丁未出版)1930年(昭
和5)
・『鎗嶽畧縁起』:代田晒子:『日本山岳風土記1』(宝文館)1960
年(昭和35)
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