▼【本文】
★【鷲羽岳とは】
北アルプスに鷲羽岳(わしばだけ・2924.2m)という山がありま
す。黒部川源流にある山で、西側下には「黒部川源流の碑」もあ
ります。鷲羽岳は、尾根が三方に張り出しているので、長野県側
に降った雨は、高瀬川から信濃川に入り、岐阜県側に降った雨は
金木戸川・高原川・神通川へ注ぎ、富山県川に落ちた水は黒部川
へ流れ、それぞれが日本海に注いでいきます。
鷲羽岳という山の名前は、その姿がまるで大鷲が羽ばたいてい
るように見えるからだからとか、山腹の残雪と岩のおりなす模様
が鷲の羽のように見える(西側の黒部川の対岸にある太郎兵衛平
や薬師岳の方角から眺めた時)からだといいいます。
★【山名】
「北アルプス裏銀座通り」を烏帽子岳方面から縦走します。野
口五郎岳から水晶小屋、さらに雲ノ平方面への岩苔乗越を通り、
岩肌をへつる狭い道、ちょっと緊張しながらワリモ岳に取りつき
ます。
眼前にそびえる鷲羽岳がまるで大鷲が羽を広げたようです。い
ままさに羽ばたかんとす鷲羽岳。槍ヶ岳を右に見ながら、ねらいは
燕岳か、有明山か。それとも中房温泉で一風呂としゃれ込むつもり
か。やがて360度展望の鷲羽岳山頂です。この壮大な眺めもひとり
じめです。
山頂からの展望は、南に槍穂高連峰、笠ヶ岳、西に三俣蓮華岳、
黒部五郎岳、雲ノ平、北に水晶岳、野口五郎岳、東に餓鬼岳、燕
岳と360度の展望が広がっています。なるほどいわれてみれば、た
しかに辻村伊助という人が、その山行記で書いているように、山
々の渦巻きの中心にいるような感じです。
★【辻村伊助と鷲羽岳】
辻村伊助とは大正期の登山家・植物学者です。彼が1909年(明
治42)7月、山案内人として有名な上條嘉門次(かみじょうかも
んじ)を案内人にして、槍ヶ岳から烏帽子岳への縦走しました。
その記録「飛騨山脈の縦走」の第4日紀行に「午前9時、鷲羽の
嶺頭は我らを迎えた。山と呼ぶ山はことごとく四方に、此処はそ
の渦巻の中心に位して、眼を遮るものは少しも無い、…
…しかも方尺を超える山のうねりの間に、独り鷲羽は他を見下
ろす程に威張って居ないから、あらゆる山岳は威厳を疵つけられ
ずに、此の周りを取り囲んでいる。今来た路をはるばるとふり返
れば…」と雄大な周囲の展望を長々と綴り、「一時間は山嶺に経っ
てしまった」と述べているのが先述の山行記です。
★【山名の混乱】
さて、この鷲羽岳の名は、最初は鷲羽岳ではなかったというの
です。そもそも越中側でいう鷲羽岳とはこの山の南東にそびえる、
いまの三俣蓮華岳を中心にしたまわりの山々の総称だったという
のです。
江戸時代、越中富山藩主が、自分の領内である黒部川源流の山
々を調査させて作った奥山廻りの記録には、いまの三俣蓮華岳に
「鷲ノ羽ヶ岳」と書かれてあり、これが鷲羽岳の文字の最初の記
録だそうです。
江戸時代後期の1808年(文化5)ごろから、当時鷲羽岳と呼ん
でいた山々の東側にそびえる壮大な峰(いまの鷲羽岳)をとくに
「東鷲羽岳」と呼んで独立させます。そしてまた、その南側にあ
る鷲羽池を龍池ということから、いまの鷲羽岳を「東鷲羽岳」と
いわずに、龍池ヶ岳とする地図も出はじめます。
なかには東鷲羽岳・西鷲羽岳と分けるなど、さまざまな地図が
出たりして、さらに混乱してしまいました。また明治以後、信州
側の案内人の説明から、登山者の間に誤解に誤解を生んで、ます
ます混乱していきました。
当時の役所制作の地図、すなわち1915年(大正4)の国の機関、
陸地測量部の地図や、1932年(昭和7)の富山県公刊の地図にも、
富山、長野、岐阜の3県堺の山(いまの三俣蓮華岳)を「鷲羽山」
の名で記載しています。これに抗議したのが日本で最初の山岳会
の「日本山岳会」です。役所制作の地図に「鷲羽山」とあるのは、
「三俣蓮華岳」と称すべきだと頑強に主張、一大山名論争を巻き
起こしたといいます。
困った陸地測量部は、東を「鷲羽岳」のみ、西を「鷲羽岳(三
俣蓮華岳)」とかっこ付きにしたのです。これは、なおまぎらわし
い地図になってしまいました。そんなことから、山岳史研究家の
中島正文という人が、1941年(昭和16)、この問題を整理し「二
つの鷲羽岳」という一文を発表したこともあったそうです。いま
のように三俣蓮華岳・鷲羽岳に統一されるまでずいぶん混乱した
のですね。
★【鷲羽池の伝説】
南ろくの三俣蓮華岳との鞍部、鷲羽乗越方面からの急なジグザ
グ道を登りきると、稜線の右手下方にスリバチ形をした池・鷲羽
池が見えます。昔は「龍池」といったそうで、なるほど竜でもす
んでいそうな紺色の青澄みきった水をたたえています。爆裂火口
湖だといいます。
昔の人々は、この鷲羽池を畏敬し、山の名まで「龍池ヶ岳」と
呼んだほど。また、先述の辻村伊助は、「山の八合目とも思われる
右の直下に、小さな池が表れて、融けそめた積雪の間に、ひたひ
たと冷水をたたえている。疑もなく、花崗岩なる鷲羽の側面を破
壊した小火山」と書いています。
また1907年(明治40)、鷲羽岳に登った長野中学校教諭だった
志村烏嶺という人は、鷲羽岳の登ったとき、「南峰眼下に、一小湖
水を発見す、ここは全く一噴火口なり、……鷲羽の噴火口、恐ら
く何人に耳にも新しき事実なるべし」と、鷲羽池のことを記して
います。いまの登山者のなかにも鷲羽池に興味を持つ人がいるら
しく、登山道から池のほとりまで、踏みあとが湖面へ続いていま
す。
この池の水面には槍ヶ岳が姿を映します。深田久弥も『日本百
名山』のなかで「……その遙かな岩の穂(槍ヶ岳)がこの池まで
影を落としに来る」とその景観を褒めちぎっています。ここも最
高の槍ヶ岳展望場所になっています。
★【黒部の山賊】
ところで鷲羽岳の南ろく、三俣蓮華岳との鞍部の鷲羽乗越にあ
る山小屋は、黒部川の源流にある山小屋です。この話は昔、山荘
のご主人伊藤正一氏ご本人から聞いたものです。戦時中、三俣蓮
華の小屋の持ち主が戦死してしまい小屋は荒れ放題だったといい
ます。
ある時縁あって、伊藤正一氏が小屋の権利の持ち主になりまし
た。ところが、その小屋は拳銃で武装した、前科30何犯の山賊一
味のすみ家になっているとがうわさ。そこでご主人は、友人2人
と偵察に行きました。途中、命カラガラ逃げてきた猟師に会うよ
うなしまつ。不安に駆られながら2人は、おそるおそる山小屋に
入ります。
小屋の主人になりすました山賊は、客の登山者にせっせともて
なしています。そして「親の代から真面目にやっているので信用
ができた」などと応対。あげくの果ては「山では助け合わなくて
は…」と宿料をまけてくれるしまつ?大ボラを吹く荒くれ者では
あるが、あながち話のわからぬ男でもなさそうです。
よく話してみると、里のウワサも誤解らしく、先の猟師も勘ち
がいと分かりました。氏は山賊を更生させようと、身元保証人に
なり、警察や営林署をままわり、記者会見などして名誉回復に努
めます。以後一味と暮らし、協力を得て小屋の再建をはかったと
いうことです。昔はおおらかだったのですね。
▼鷲羽岳【データ】
★【所在地】
・長野県大町市と富山県富山市旧大山町各地区名(旧上新川郡大
山町)との境。JR大糸線信濃大町駅からタクシー・高瀬ダムか
ら歩いて延べ12時間で鷲羽岳。三等三角点(2924.2m)がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・三角点:北緯36度24分10.92秒、東経137度36分18.88秒
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『角川日本地名大辞典20・長野県」市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『信州山岳百科1」(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『富山県山名録」橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山岳風土記1・北アルプス」(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本百名山」深田久弥(新潮文庫・新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名」(平凡社)1994年(平成
6)
・『飛騨山脈の縦走」辻村伊助(「日本山岳風土記1」(宝文館)1960
年(昭和35)
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