山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1151号-(百伝051)黒部五郎岳「ゴーロ岳とダイヤモンドコース」

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【本文】

▼【目次】
・黒部五郎岳とは
・黒部奥山
・山頂からの展望
・高山植物
・山名
・信州側の名前
・中村清太郎
・西銀座ダイヤモンドコース
・ダイヤモンドコースって?
・桃林と竹林伝説
・奥山の秘密卿伝説
・伐採怪異伝説
・黒部奥山の大蛇と木こり伝説
・黒部奥山伐木のたたり伝説
・黒部五郎岳【データ】
・参考文献

▼【黒部五郎岳とは】
 岐阜県高山市と富山県富山市の境にある北アルプス黒部五郎岳
(くろべごろうだけ・2840m)は、高天原から黒部川源流を隔て
て南側にあり、えぐれた大カールが山の特徴になっています。こ
こは、太郎平、北ノ俣岳、黒部五郎岳、三俣蓮華岳とつづく、北ア
ルプス西銀座ダイヤモンドコース上にあります。

▼【黒部奥山】
 さて越中(富山県)側では、黒部峡谷を囲む山々を「黒部奥山」
というそうです。江戸時代の文化8年(1811)黄?(こうひ)を
主とする薬草の調査・採取を大々的に実施したり、天保9年(183
8)には献上御用材調達のための大伐採をやろうとして果たせなか
ったなど、さまざまな事蹟を秘めている(『角川日本地名大辞典16
・富山県』)そうです。

 江戸前期の元禄13年(1700)の絵地図には、ただ「奥山」とだ
け記載されてあるそうです。下って享和元年(1801)の文書には、
「黒部奥山」と奥山がつくようになりました。昔は、針ノ木峠か
ら南を上奥山、北側を下奥山といったそうですから、その伝でい
けば黒部五郎岳は上奥山の上山になるのでしょうか。

▼【山頂からの展望】
 黒部五郎岳の頂上からは、360度の大展望です。雲ノ平などは指
呼のうち、西方には白山まで見えています。南方から左回りに見て
みれば、御嶽山、乗鞍岳、笠ヶ岳、穂高岳、槍ヶ岳、双六岳、三俣
蓮華岳、鷲羽岳、野口五郎岳、水晶岳、赤牛岳、白馬岳、立山、剱
岳、北方には薬師岳、そして鍬崎山、北ノ俣岳とつづき、その奧に
はナント能登半島を望めます。

▼【高山植物】
 高山植物も多く、キンポウゲ・シナノキンバイ・ミネウスユキソ
ウなどが見られます。

▼【山名】
 この山はかつて岐阜県(飛騨)側では、高原川の支流中ノ俣川
の源頭にあるので、中ノ俣岳(なかのまただけ)、同じ岐阜県でも
双六谷側の人はマル岳と呼ぶ(「旅と伝説」)という。また富山県
(越中)側では、カールを鍋が欠けたような形にみえることから、
鍋山といっていたそうです(1701年=元禄13年(1700)の「奥
山御境見通絵図」など多くの絵図類に鍋岳の名で記載)。

▼【信州側の名前】
 しかし、いま定着している黒部五郎岳という山名は、信州(長
野県)側での呼び方なのだそうです。そもそも黒部五郎岳の「五
郎」とは、岩石がゴロゴロ重なっている意味のゴーロ山のことだ
といいます。北アルプス裏銀座コース上にある野口五郎岳(長野
・富山県境)も同じゴーロ山。そのためふたつの山を区別するた
め、黒部側にある山というので、黒部五郎岳というのだそうです。

 ところで岩石ゴロゴロの山を「五郎山」というのはいいとして、こ
の呼び方をしている信州は、ここ黒部五郎岳の境界に関係あり
ません。それがなぜか、信州側の名前「黒部五郎岳」の名が一般
的な山名になってしまっています。その理由はこうです。

 中村清太郎というと、明治時代の画家で有名な登山家です。あ
る時、この中村清太郎が、後立山連峰(うしろたてやまれんぽう)
の白馬岳(しろうまだけ・2932m)から南方を見ているうちにこの
山に目がとまり、興味を持ちました。そして山のガイドとして有
名な、あの上高地の嘉門次に会ったとき、その山の名前を聞いた
のだそうです。

 嘉門次は信州の人間ですから、当然、「黒部五郎岳」だと教えま
す。中村清太郎は、1910年(明治43)、薬師岳方面から縦走して
きてこの山に登りました。岐阜県側や富山県側など地元の呼び方
を知らない中村清太郎は、そのまま自分が所属している山の会の
会報に「越中アルプス縦断記」と題して、「黒部五郎岳」と記して
世の中に発表しました。

 それからというもの黒部五郎岳がこの山の名前として定着して
しまったということです。山の名前というのはこんな偶然で決ま
ってしまうこともあるのですね。なお、別の説もあり、『日本山名
事典』徳久球雄ほか(三省堂)によると、黒部五郎岳の五郎とは、
富山側の山村の方言で、山中の岩のガラガラしたところを「ゴーロ」
と呼ぶことによるとする説もあります。

▼【中村清太郎】
 先述の中村清太郎らがこの山に登頂した時には、山頂に柱のよ
うな自然石がふたつあって、そのひとつに「中之俣白山神社」と、
うすれた墨で書いてあったとか(中村清太郎『越中アルプス縦断
記』)。かつてはこの山にも神社がまつられていたようです。

 白山神社とは富士山、立山とならんで「日本三名山」のひとつ
である北陸の名山の神社。白山の神の白山比盗_社(しらやまひ
めじんじゃ)が総本社です。祭ってある神さまは、ふつう菊理媛
神(くくりひめのかみ・白山比盗_)と、伊邪那岐(いざなぎ)
神、伊邪那美(いざなぎ)神の三柱だといいます。白山神社とい
う神社は、全国にありますが、とくに石川県、岐阜県に多く、黒
部五郎岳のふもとの神岡町、上宝村(いまは高山市)にもたくさ
んある神社です。

▼【西銀座ダイヤモンドコース】
 ちなみに先述した西銀座ダイヤモンドコースとは、各方面から槍
ヶ岳をめざす各コースのニックネームのひとつ。このコースは、太
郎山山ろくの折立登山口を起点に、太郎山、黒部五郎岳、三俣蓮華
岳、双六岳から西鎌尾根を経て、槍ヶ岳へ至る登山道の名称。

 ここの場合、次の三俣蓮華岳で鷲羽岳方面からきた、裏銀座縦走
コースと出会い双六岳に向かいます。広義には日本海側の剱岳、立
山からはじまる説もありますが、一般的には折立登山口を起点のコ
ースを指しているそうです。

▼【ダイヤモンドコースの概要】
 このダイヤモンドコースは、尾根の急登や鎖場・ガレ場などの難
所がほとんどなく、大半が広い稜線歩きのコース。道迷いにさえ気
をつければ、一般登山者でも安心して山歩きが楽しめて人気があり
ます。ところでコースには、西銀座があれば、表銀座コースや裏銀
座コースもあります。

 表銀座コースは、長野県安曇野市穂高の中房温泉を基点とし、燕
岳、大天井岳、西岳、東鎌尾根を経て、槍ヶ岳へ至るコースです。
燕岳から槍ヶ岳までの山稜は、安曇野から見て、里に近い山々なの
で表なのだそうです。

 一方、長野県大町市の高瀬ダム横のブナ立尾根登り、烏帽子岳、
野口五郎岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳(ここで西銀座コースと一緒にな
る)から、双六岳、西鎌尾根を経て、槍ヶ岳へ向かって歩くコース
です。このコースは、表銀座コースの山々を越えて黒部川側にあり、
安曇野方面から見れば裏コースなのだそうです。

 昭和の20年代は、この裏銀座コースが、槍ヶ岳へ歩くメインル
ートだったそうです。いまの表銀座ほどの登山者を集めていたそう
ですから賑やかだったのでしょう。静かに歩くことができるコース
です。

▼【黒部奥山の伝説】
 さて黒部峡谷を囲む山々を「黒部奥山」(江戸時代の享和元年
(1801)の文書)というそうです。さらに針ノ木峠以南を上奥山、
以北を下奥山といいます。ここ黒部五郎岳は「黒部奥山」の最奥
に当たります。

 「黒部奥山」は、昔はホントに未知の世界だったらしく、以下の
ようなさまざまな言いつたえがあります。私には赤牛岳、水晶岳以
外特定できませんが、皆さん如何でしょうか。

▼【桃林と竹林伝説】
 「黒部川の両岸は、一面桃の林が生えており、その奧は、無尽蔵
に竹林が続いている。たまに川上の竹林の竹が流れてくることがあ
る。その竹を切ると、直径1尺5寸(約45.5センチ)もあって、
そのまま井戸のガワに使えるということだ(『譚海』)」。『譚海』(た
んかい)は、江戸後期の随筆。津村正恭(淙庵)著。1795年(寛
政7)の自序があります。

▼【奥山の秘密卿伝説】
 またこんなのもあります。「黒部奥山には、赤牛岳といって朱の
ように赤い山がある。また、半里四方も明礬(みょうばん・硫酸塩
鉱物のひとつ)のある山がある。さらに半里(約2キロ)あまりも
ネギの生えているところがある。そのネギは長さ6尺ぐらい(約182
センチ)もあって、一面茅(かや)原のようである」……

 ……「水晶の生ずる山もある(水晶岳・黒岳)。周囲2尺(約60.6
センチ)もある大きな竹の生い茂っているところが1里(約4キロ)
も続いている。」と『肯構泉達録』(こうこうせんたつろく)という
古書にあります。『肯構泉達録』は、文化12年(1815)、越中の地
誌です。

▼【伐採怪異伝説】
 さらに、「黒部奥山で、木を切ろうとして斧を打ちこむと、にわ
かに山谷鳴動して、風雲がおこり、雨風が猛烈に吹きつけて、仕事
ができなくなってしまう。これは山の霊気や天狗の仕業だという。
また獣(けもの)の仕業だともいわれる。しかし、斧をそろえて切
っていくと風雲がやむ……

 ……しかし、魔力の強いものがいる谷では、人を空中に放り投げ
たり、伐採のため木に登っている人をつかんで、大地へたたきつけ
たりして恐れさせ、人を谷へ入らさないという。」と『加越能三州
奇談』や、『肯構泉達録』に記載されています。

▼【黒部奥山の大蛇と木こり伝説】
 「黒部奥山へ入る木こりは、必ず背に山刀をかついで行くという
ことだ。山中にはウワバミがすんでいて、人を飲み込むという。山
刀があれば飲まれないが、刀を持っていないと、ウワバミにやられ
るのか、必ず行方不明になってしまうという。」と、『加越能三州奇
談』や、『肯構泉達録』などにあります。

▼【黒部奥山伐木のたたり伝説】
 この木材の伐採に関する伝説は多くあります。「ある時、木こり
が大勢、谷の木を伐採するため小屋がけした。その夜のこと、一人
の木こりの夢に、異形のものがあらわれた。そして、この谷の木を
切るなと告げた……

 ……その木こりは、みんなにこのことを話したが、誰もこの話を
相手にせずに、とうとう谷の木を切り尽くしてしまった。その夜、
木こりが皆寝入ってしまった時、例の異形のものがあらわれて、寝
ている木こりのひとりひとりのそばに寄っては、口を嗅ぐような仕
草をしていった。……

 ……そして夜が明けてみると、木こりは皆、死んでいたという。
ただ夢を見た木こりだけは、木を切らなかったので殺されなかった
という。」と『肯構泉達録』にあります。これらは『山岳宗教史研
究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著出版)「黒部奥山
の伝承」広瀬誠氏筆を参考しました。


▼黒部五郎岳【データ】
★【所在地】
・富山県富山市旧大山町各地区名(旧上新川郡大山町)と岐阜県
高山市上宝町(旧同県吉城郡上宝村)との境 富山地方鉄道有峰
口からバス、折立から歩いてのべ11時間で黒部五郎岳。三等三角
点(標高2839.6m)がある。地形図に黒部五郎岳(中ノ俣岳)の
文字と三角点の標高のみ記載。

★【地図】
・2万5千分の1地形図「三俣蓮華岳(高山)」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『角川日本地名大辞典21・岐阜県』野村忠夫ほか編(角川書店)1
980年(昭和55)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『旅と伝説』三元社(1942年(昭和17)1月号)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成6)


沢ノ頭を除き、東側へ、西峰、中峰、東峰と記載されています。

西峰というのは太礼ノ頭、中峰がエンザンギの頭、東峰にあたる

のが本間ノ頭。なるほどがん首がならんでいます。その丹沢山か

ら丹沢三ッ峰の尾根を宮ヶ瀬に向かって行くと、太礼ノ頭というピ

ークのあたり、地図を見ると左手早戸川支流の大滝沢に「早戸大滝」

という滝があります。この滝は日本の滝百選に入っている「まぼろ

しの滝」。



 滝の高さはおよそ50m。途中2段になっており、上段が40m、

下段が10m。上段の中間に大岩が突きだしていて、流れがその岩

にかくれて、全体が見えないため、「まぼろしの滝」というのだそ

うです。



 早戸川に沿った林道終点「伝道」にこんな看板があります。「早

戸大滝までは厳しい道のりです。危険な箇所も多く細心の注意が必

要です。早戸大滝への登山に関する注意点。・県営早戸川林道終点

(伝道)より雷平までは、主に林業者等の作業用に使われている険

しい山道になります。



 ・老朽した木橋、路肩が崩れた場所、岩場のロープなど危険な箇

所があります。・川に架けた丸木橋も、増水等で流されて利用でき

ない場合もあります。・雷平からは、大滝沢を進みまさす。河原を

歩き、渡渉を繰り返すことになりますが、丸木橋などはありません。

・降雨等による増水時には登山を中止することをお勧めします」と

の注意書き。



 この滝は、丹沢の三滝(中川川支流西沢の本棚、玄倉川支流同角

沢の遺言棚・ゆいごんだな)のひとつに数えられているほどの名瀑。

古くは鳥屋方面の人たちが、丹沢山と不動ノ峰の鞍部(つるべ落と

し)経由で、丹沢山に登るコースとして道をつくったそうです。



 これは丹沢山、蛭ヶ岳への信仰登山のためであり、1940年(昭

和15)ころまでは、大滝沢上部から尾根に取りつくあたり、毎年

初夏には刈り払いまでしたのであったそうです。不動ノ峰に、不動

さまが勧請されていたころ、参詣者はこの大滝で垢離をしてから登

ったという。



 ここはは丹沢に残された唯一の未登の滝といわれていましたが、

1961年(昭和36)11月、18本のボルトを打ち込み、26時間をか

けて完登されたと、奥野幸道氏(『丹沢』ブルーガイドブック)は

述べています。ここ早戸大滝は、津久井(いまの相模原市鳥屋村)

集落の農民が、干ばつの時に雨乞いをしたところ。2011年(平成23)

ころには、先の伝道にあった看板に雨乞いについてこんなことが書

いてありました。



 「ある年の夏、日照りが続き農作物がほとんど枯れてしまい、困

った村人は集まって話し合いました。そのうち、一人の老人が「大

滝にわらじと馬の骨を投げ込めば雨が降ると聞いたことがある。滝

へ行ってみよう。」といい、翌朝、村人はわらじと馬の骨をかつい

で大滝に出かけていきました。



 そして、それらを滝に投げ込みました。すると、急に雨雲がわい

てきて大粒の雨が降り、農作物もどうにか助かり村人は大変喜びま

した。昔からこの滝は「雨乞いの滝」といわれています。(津久井

町郷土誌より)」あります。



 雨乞いの方法はどこでも似通っていて、滝壷に馬の死がいや、不

浄なものを投げ込んだり、棒でかき回して滝壷におわす竜神・水神

を怒らせて雨を降らせようとします。ここも同じ方法ですが、ここ

はそれだけでは効果がなく、修験者を頼み雨乞いの行法を行うとい

う。



 雨乞いは昭和34年(1959)ころまで行われ、最後の雨乞いは地

元鳥屋の修験者、山崎梅吉翁によって行われたと聞いていると、「さ

がみの会」の栗原祥氏は「尊仏2号」の中で書いています。



▼早戸大滝【データ】
【所在地】
・神奈川県相模原市津久井町の早戸川上流。
【位置】
・標高点:北緯35度29分16.86秒、東経139度9度38.62秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山」(確認済み)
▼【参考文献】
・『尊仏2号』栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
元)
・『丹沢』(アルパインガイド23)羽賀正太郎(山と渓谷社)昭和38
年(1963)
・『丹沢』(ブルーガイドブック)奥野幸道(実業之日本社)昭和45
年(1970)
・『丹沢』(アルパインガイド37)羽賀正太郎(山と渓谷社)昭和55
年(1980)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)

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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室