山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1150号(百伝050)薬師岳「ミサノ松と高山植物の美女」

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【本文】

★【目次】
・薬師岳とは。
・四つのカール。
・山頂の祠。
・開山伝説。
・岳の薬師の祭り。
・太郎兵衛平。
・太郎兵衛伝説。
・高山植物の妖精伝説。
・長棟(ながと)鉛山。
・伝説類話。
・山ろく有峰村。
・薬師岳データ。
・参考文献。

★【薬師岳とは】
 各地に「薬師岳」いう名の山が見受けられます。山名辞典をひ
くと、薬師の名のつく山・峠は異名も含め42項目もならんでいて、
かつては病気を治してくれる薬師信仰が盛んだったことがうかが
われます。その中でも富士山の頂上にある久須志岳(薬師岳とも
いう)を除き、最も標高の高いのは北アルプス立山連峰の薬師岳
(標高2926m)です。

★【四つのカール】
 ここの薬師岳は容姿が雄大で、壮麗な山として名高い山です。
東側直下に黒部渓谷上ノ廊下があり、それを隔てて雲ノ平、水晶
岳、赤牛岳が望めます。東斜面標高2600〜2700mの位置に大カ
ールが4つもならんでおり圧巻です。

 とくに南側第1カールは素晴らしく、また第2カールの底には
いまでも岩石氷河を残しています。1952年(昭和27)、国の特別
天然記念物に指定されています。

★【山頂の祠】
 この山もかつては信仰の山だったといいます。山頂には屋根に
大石を乗せた立派な祠があり、ガラス戸のなかには絵馬やこの山
の名前でもある薬師如来と、観音像が鎮座しています。

 これは薬師岳のふもとにある有峰湖(ありみねこ)の湖底に沈
んだ有峰村の村人がまつった祠だそうです。有峰村は北アルプス
の最奧の村でしたが、1920年(大正9)、県有地として買い上げら
れ、1961年(昭和36)に有峰ダムの湖底に水没しました。

★【開山伝説】
 薬師岳開山の由来として、昔、この村に駕籠の担架棒(天びん
棒)づくりを生業とする、ミザの松という貧しい職人がいたそう
です。ある日、山中で昼寝をしていると、自分の名を呼ぶ者がい
ます。目を覚ますと、目の前に金色に輝く薬師如来がいました。

 驚いたミザの松が、如来のもとにかけ寄ると、如来はふっと姿
を消し、いつの間にか遠くにおわします。ミザの松がまた近寄る
と、如来はまた遠くにおわしています。こうして如来に導かれ、
気がつくと高い山の上にいるのでした。

 薬師如来は、その後「五ノ目」と呼ばれるところの自然石のお
堂に姿を消したといいます。これをまつったのが薬師岳の開山の
はじめであるということです。これが「岳の薬師」(峰本社)のい
きさつだそうです。

 その後夢のお告げにより前立社壇として、有峰の里に「里の薬
師」を建てたといいます。地元『大山町史』では、里宮(里の薬
師)の建てたのは南北朝時代の明徳元(1390)年としています。

 かつて頂上の祠には、1尺7、8寸(約54、5センチ)の黄金
でできた薬師如来の立像がまつられていたといいます。それはま
ぶしいまでの美しさであったそうです。ですが、百数十年前、何
者かに盗まれてしまい、その後大阪で売りに出され買われていき
ました。

 その時、「有峰に帰りたい」という薬師さまのお告げがあり、驚
いた買い主はあわてて有峰に送り返したそうです。しかし、ふた
たび盗難にあい、いまは行方不明のままだといいます。

★【岳の薬師の祭り】
 この山もかつては女人禁制で、当時女性は、折立地区近くの真
川谷までしか行けなかったそうです。ふもとの有峰村には以前、「岳
の薬師」のお祭り(旧暦6月25日)があったそうです。祭りには
村民の15歳から50歳までの男子が参拝する習わしだったそうで
す。

 祭りには、1週間も前から厳重な物忌みが行われ、家を出ると
きには塩で身を清め、なおも太郎兵衛平や薬師岳の雪氷で、3回
けがれを落としたといいます。さらに、頂上の手前180mくらい
からは素足になって、山頂に着くと、ヒエでつくった白酒の御神
酒をあげて、鉄板を切り抜いた剣を奉納したということです。

 いまでも、祠のまわりにブリキの剣が落ちていますが、かつて
の村人の祭りの盛んだったことを思わせます。登山者は、祠の中
をのぞき込んでは石仏に手を合わせて、登山の無事を祈り、軒に
ぶら下がっている釣り鐘をついています。

★【太郎兵衛平】
 さて、西銀座ダイヤモンドコースと呼ばれる、三俣蓮華岳から
黒部五郎岳、北ノ俣岳の先なだらかな稜線をたどると太郎山(三
等三角点2372.98m)があります。山頂付近の草原や湿原には高山
植物が見られ、南側には黒部五郎岳、さらには笠ヶ岳、乗鞍岳が
北を見れば薬師岳、その奥には立山も望めます。

 北ノ俣岳から太郎山にかけては、登山道が踏み荒らしされ、浸
食や裸地化が問題になり、いまは登山道を木道にしたりして、植
物を回復させる努力がなされています。太郎山から程ないところ、
山小屋のある太郎兵衛平は、北アルプス縦走路の十字路。東から
は奥黒部、雲ノ平、薬師沢方面から、南からは槍ヶ岳、双六岳、
黒部五郎岳方面から、北は遠く剱岳、立山、五色ヶ原、スゴ乗越、
薬師岳方面から、また西側は富山地方鉄道有峰口駅、折立登山口
から登って来るところ。

 太郎兵衛平は江戸時代1815年(文化12)の登拝記「有峰御薬師
参詣」に、「文化十二乙亥(きのとい)八月八日暁寅八刻頃、有峰
村出立也。(……中略……)。池ノ平(ダイラ)ノあけはなし。是迄
村?(より)三里八丁。是?草山三里(リ)の間、此所多分せキ
シャブ(石菖蒲カ・ママ)、長貳寸ニハ不過。長五尺ニハ不過、五葉
シャシ松少々見ル。……

 ……大木とてハ一向なし。所々シヤウライ田(精霊田)とて数万
ノ水タマリ有リ。イン(炎)天ニ而(※しか)も水不干由。右草山
真東エ向、二里真下リ也、〆。此平ニ而南?(より)少し東ニ当
ル、信州鑓ヶ岳見エル。誠ニ鑓先ノ様なる(ママ)嶮山也。此平ヨ
リ南ニ当テ黒部川奥深ク見エル也。此所ニ而晝弁当」と出てきま
す。

 ここに出てくる「池の平のあけはなし」は、このあたりは高原状
で前後左右に見晴らしよく、開けっぱなしの「あけはなし」。そし
て「精霊のつくる水田」があったというわけです。

★【太郎兵衛伝説】
 ここを太郎兵衛平というのには、こんな伝説があります。江戸
時代、いまの富山市の長棟(ながと)鉛山に住む鉱山師(やまし)
の太郎兵衛という人がいました。その鉱山師が、有峰領の太郎兵
衛平あたりで、金や銀が掘れる鉱山を発見したというのです。

 鉱山師太郎兵衛は、大儲けをしたのか鉱夫たちを集めて大宴会を
催しました。その時、この平地に咲いている高山植物の化身の美女
に惑わされたという伝説が地名のもとになっているようです。

 ただ参考書によっては、ここと有峰の鉱山、さらには有峰西方の
長棟鉱山の話、また太郎兵衛といたずら酔っ払い鉱夫などの伝説が
入り乱れて、混乱してしまっているため、どれが本当かは分かって
いません。このように有峰・太郎兵衛平の鉱山は栄えていたこと
になっています。

 そんななかで、この鉱山が「栄えた」とはいえないという説も
あります。有峰領であったここ黒部源流太郎兵衛平での鉱山は、
あまり採掘できなかったというのです。それは有峰鉱山と、栄えた
長棟鉱山を間違えて伝わっているらしいのです。以下はその話のひ
とつです。

★【高山植物の妖精伝説】
 その昔、薬師岳太郎山のふもとの有峰に鉛の出る鉱山がありまし
た。鉱山の中には大勢の鉱夫がおり、何十頭という牛が鉛を積んで、
富山まで運んでいました。ある年の春、特別のたくさんの鉛が採れ
ました。満足した鉱山の頭領は、「きょうはお祝いだ」といい、あ
ちこちの町や村から人夫たちを集めました。酒盛りがたけなわにな
ると、それぞれのお国自慢の歌が出はじめ、それに合わせて踊りも
はじまりました。

 盛り上がったその時です。白、淡紅、薄紫の衣装をまとった3人
の美しい女性が、フイとあらわれました。そしてすきとおる声で歌
い優雅に踊りはじめたのです。その上なんともいえないいい香りが
あたりにただよいはじめました。「まるで天女のようだ」。頭領はじ
め、鉱夫たちもうっとり見ほれてしまいました。みんな喜び、痛い
ほど手をたたきました。

 「白い衣に、白のかんざしの娘。薄紫の衣に、薄紫のかんざしの
娘。薄紅の衣に、薄紅のかんざしの娘……」。突然、荒くれ男が立
ち上がりました。ふらついた足取りで娘たちに近寄り、紅の衣の娘
の手を握ろうとしました。思わず棟梁が「あっ、何をするっ」。

 すると3人の娘の姿がフッと消えてしまったのです。人夫たちは
狐につままれたようにポカンとしています。……白い衣の娘は、ミ
ズバショウの花の精。薄紫の衣の娘は、ヤナギランの花の精。薄紅
の衣の娘は、クガイソウの花の精。……。そんなことがあってから、
鉱山からは鉛がとれなくなってしまいました。

 さびれ行く鉱山。鉱夫たちは山から下りることになり、やがて鉱
山は閉山になってしまったといいます。いまでも、「あの3人の花
の精たちは、有峰の守り神だったのだ。人夫に悪ふざけされたから、
罰があたり鉛鉱山もつぶれてしまったのだ」と、いい伝えられてい
るということです。

★【長棟(ながと)鉛山】
 さて、この長棟(ながと)鉛山は、江戸時代、寛永3(1626)年
に大山左兵衛という人が発見したと鉱山だといいます。場所は富山
市長棟(旧富山市奥山)で、瀬戸谷の西方金山谷近くにありました。
採掘の最盛期は、開坑してから正保(1645〜1648)ころまでの約20
年間でした。このころは家数が300軒、山小屋800軒もあったとい
いますからまさに栄えた鉱山です。

 こんな鉱山も鉛の価格暴落もあって、生産の減少がつづきます。
鉱夫たちは、次第に生活にも困まるようになり、多くが離散してし
まいました。文政4年(1821)になり、藩は鉛山を直営として援助
したこともあったそうですが、再興はできなかったということです。

★【伝説類話】
 なお、伝説の類話にこんなのもあります。安土桃山時代の天正年
間(1573〜1598)、有峰の近く亀谷(かめがい)に銀山が発見され
ました。銀山の最盛期である江戸時代の初頭、慶長から元和年間に
は、人夫の家々数千軒が密集し、遊女数千人が住むという栄えよう
でした。

 そんなある日、山師・大山左平次たちの宴席に、見たこともない
美女3人があらわれました。鉱夫たちは遊女だと思い、戯れようと
したところ急に姿が消えたという。その後鉱山は廃れ、その跡にい
ままで見ないような美しい3つの高山植物、ミズバショウ・クガイ
ソウ・ヤナギランの花が咲くようになったということです。

★【山ろく有峰村】
 ついでながら有峰村は、薬師岳の山ろく、常願寺川の支流和田
川の水源地で、標高1000mの盆地。当時、山奥のこの村に入るに
は、山の尾根道を利用、安蔵(あんぞう)村、水須(みずす)口
留番所、東笠(ひがしかさ)山、西笠山の間を通り、いまの祐延
(すけのべ)ダムのルートをとったといいます。村に入るだけで
この厳しさ。また飛騨(岐阜県側)へ行くには、大多和(おおたわ)
峠や、唐尾(からお)峠など道がありました。

 初めての「越中の通史」といわれる「肯搆泉達録」(こうこうせ
んたつろく)には、「平家の落人多く隠るといへり、今なほ武具を
傳ふ」とあります。平家の落人伝説といっても倶利加羅峠の合戦の
平家ではなく、平家出身とされる江馬氏の武将・河上中務丞富信と
いう人が、中地山城(なかちやまじょう)で敗れ、元亀3年(1572)
ごろ、有峰にやってきて住みついたことによるらしい。

 有峰村という名前は、もともとは宇連村(うれむら)でしたが、
のち有嶺村(うれいむら)になりました。さらに元禄年間(1688
〜1704)ごろに加賀藩が、難読の村名を改める時、有嶺(うれい)
が「憂い」に通ずるというので、訓読して「アリミネ」とし、元禄
8年(1695)以降の史料には「有峰」という文字を使っているとい
うことです。


▼薬師岳【データ】
★【所在地】
・富山県富山市旧大山町各地区名(旧上新川郡大山町)。富山地方
鉄道立山線有峰口駅の南東19キロ。富山地方鉄道立山線有峰口駅
からバス・折立から歩いて8時間で北ア薬師岳。二等三角点
(2926.01m)がある。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
検索)
・薬師岳:北緯36度28分7.88秒、東経137度32分41.2秒

★【山行】
・某年7月31日(水・快晴)。


▼【参考文献】
・『石川・富山ふるさとの民話』(北国新聞社出版局)2011年(平
成23)
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書10』(白山・立山と北陸修験道)高瀬重雄
編(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書16』(修験道の伝承文化)五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集1)五木重編(名著出
版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』高瀬重雄ほか(平凡社)
1994年(平成6)
・『日本百名山』深田久弥(新潮社)1970年(昭和45)
・『日本の民俗16・富山』太田栄太郎(第一法規出版)1974年(昭
和49)
・新編「山と溪谷』田部重治(岩波書店)1997年(平成9)

 燧ヶ岳は尾瀬の北にそびえる山。約一万年前、この山の噴火活
動で、只見川の上流がせき止められ、南西斜面に尾瀬沼・尾瀬ヶ原
ができたといわれています。燧ヶ岳の山頂部分は、俎ー(まないた
ぐら・2346.2m)、柴安ー(2356m)、みのぶち岳、赤なぐれ山と
四つに分かれています。それらが、火口丘の御池岳を囲むように、
半円の形になってならんでいます。かつては、これらの四峰を総称
して燧ヶ岳といっていたらしいですが、いまは俎ーを指しているの
だとか。

 俎ーの山頂は岩が積み重なり、ここ四峰の最高峰柴安ーが迫って
見えます。俎ーからの展望はもう360度が開け、眼下の尾瀬はもち
ろん、越後の山々、日光連山、南西に至仏山、上州武尊(ほたか)、
平ヶ岳、会津駒ヶ岳など思いのまま、天気が良ければ富士山まで見
えるかも知れません。

 ここにも雪形が出るらしく、山名のもとにもなっています。雪形
は俎ーの雪渓に出る、鍛冶屋さんが使う鍛冶ばさみ(火打ち鋏)
の形です。「燧の山名の由来は燧岳俎ー東北面の下方に鍛冶鋏(ば
さみ)の雪渓が現はれることに由り、このことは村では誰一人知ら
ぬ者もない。

 沼田街道の七入橋を渡って左に実川(みかわ)を臨み神夜泣子(か
みよなご)の部落に近づく頃来し方を振り返れば……俎の下方に実
に良い形をした鍛冶鋏形の雪渓が現はれているのに讃嘆するであろ
う」(川崎隆章編『是と檜枝岐』)。以上は『山の紋章・雪形』田淵
行男著(学習研究社)から転載しました。また「燧」の字は、「火
打」とも「燹」(のろし・のび・せん)の字も使われていたようで
す。

 この山も昔は噴火していたようで、洪積世(こうせきせい)と
いうから、はじめて人類が出現したころの大昔、燧岳が火山活動
を起こし、流れをせき止めて古尾瀬ヶ原湖が出現、尾瀬ヶ原もで
きたとされています。そしていま、尾瀬沼の水を関東地方の水不
足を補うため、群馬県側に流す案があるとか。しかし尾瀬の自然
環境保全のため、福島県側が反対しているということです。

 この山にも神さまがまつられています。爼ーの山頂にある石祠
は、燧ヶ岳の祭神「燧大権現」で、葛城一言主(かつらぎひとこと
ぬし)の神のことだそうです。檜枝岐村に伝わる『家寶記』とい
う文書の巻十三に、「燧大権現 有会津郡檜枝岐山 是ハ燧嶽ノ頂
ニ天長九年壬子(みずのえね)葛木一言主命ヲ祭村民為鎮守」と
あるのがそのあかしだといいます。それを明治時代、檜枝岐村の
平野長蔵(尾瀬の開発者)が、石の祠を建立しました。平野長蔵
は神官の資格まで取って、自分で神事をつかさどったそうですか
ら熱心なことであります。

 また平安時代末期に、源氏に平氏打倒の挙兵を令旨を下したこ
とで有名な、高倉宮以仁王(もちひとおう)が実は生きていて、
わずかな共を連れて尾瀬を通り、檜枝岐方面に落ちていったとい
う伝説があります。その以仁王の家来の尾瀬中納言源頼実卿が、
長旅のため尾瀬で亡くなり、長沼(鷺沼)近くの丘に葬られ、以
来この地を「尾瀬」というようになったといいます。その後村人
が燧ヶ岳山頂に尾瀬大明神をまつったともいいます。いまもその
石の祠があります。

 さらにこんな伝説もあります。昔々、村の人々が火種を絶やし
てしまい、襲ってくる寒さに苦しんでいました。するとそこへひ
とりの白髪の老人が現れ、一晩泊めてくれといいます。村人は、
火がなくて寒いけれどそれで良かったらどうぞと、老人を家の中
に入れました。すると老人は赤い石を取りだし、これを打ちつけ
ると火が出ることを教えました。

 お陰で村人の囲炉裏(いろり)に火がもどり、暖かさが広がり
ました。喜んだ人々が気がつくと白髪の老人の姿は消えていまし
た。それ以来、この赤い石を燧石(ひうちいし・火打石)という
ようになったといいます。

 村人たちは、燧石をくれたあの白髪の老人は、ここの一番高い
山にすむ神さまだろうと、山名を燧ヶ岳とつけて、山頂に燧大権
現の小祠を建てたということです。檜枝岐川(寒川)の上流には、
赤法華沢とか赤倉沢や赤安沢などの「赤」の字のついた支流があり
ます。いまでも大水のあとなどは、真っ赤な石が流れてくることが
あるといいます(『檜枝岐村史』)。

 また鎌倉時代末期、「元弘の変」(げんこう)で後醍醐天皇が敗
れ、隠岐に流されたころのお話しです。燧ヶ岳のふもとの高原の
ヒノキの皮ぶきの小屋に若者が住んでいました。ある時ひとりの
公卿(くぎょう)が、大勢の鎌倉武士に連れられてきて、打ち首
にされる事件がありました。その公卿は京都で捕らえられて、会
津に流される途中、鎌倉からの命令でここで人知れず斬首された
ということでした。公卿の首は、武士たちが鎌倉に持ち帰ってし
まいました。残った遺体は若者が近くの丘に葬りました。

 月日は過ぎ次の年の秋のこと、若者が狩りに出たとき、突然ク
マの吠える声と女性の叫び声を聞きました。若者が急いで岩の上
に登ってみると、二人の旅人が熊の襲われていました。若者は得
意の弓を引きしぼり矢を射て、襲われている美しいお姫さまと家
来を助けてやりました。しかし、家来はクマの一撃ですでに死ん
でいました。あわれに思った若者は、公卿を葬った場所の近くに
手厚く葬りました。

 残った姫は、どんなに聞いても、身の上をあかしませんでした。
ただ訪ねる人があり、会津に行くためはるばる都から来たという
ばかりです。ひとりぼっちになった姫、これ以上旅をつづけるの
は無理だと、若者は自分の家に部屋を建て増して住まわせること
にしました。しかし姫は若者に指一本触れさせはしませんでした。

 短い尾瀬の秋、一夜にして白銀の衣をまとう冬、やがてミズバ
ショウの咲く春がやってきました。やがて若者は姫から文字を習
い読めるようになりました。そして沼のほとりで死んでいった公
卿が書いた辞世の句を読み、それを姫に見せました。それには「燧
山 石に切る火のそれよりも儚(はかな)く消ゆる 世とは知ら
ずや今ははやもの岩代の尾瀬沼のまこもとなりて人を待たなむ」
とありました。

 姫はハッと顔色を変え、「おなつかしや父上さま……」と泣きく
ずれます。この姫こそ、公卿の万里小路藤原季房(までママのこう
じふじわらすえふさ)卿の娘の万里姫(まりひめ)で、お供とと
もに父を訪ねて都からやって来たのでした。

 月日の過ぎるに従い、姫の心も落ち着き、尾瀬の四季にとけ込
み、安らかに暮らすようになりました。ふたりはすっかり親しく
なり、高山植物のお花畑に仲むつまじい姿も見られるようになり
ました。夢のような日々、……しかし若者は考えました。美しい
公卿の娘万里姫、それに比べ貧しい木こりのわが身。あまりにも
違いすぎる身分……。やがてなにやら心に決めた若者は、小屋に
戻り砂に上に字を書きだしました。

 「お姫さま、おいらは美しいあなたに思いをかけてしもうた。
到底かなわぬこと、いっそ、ひと思いに……」。それを読んだ姫は、
若者を追いかけました。「あなたには深い恩を受けました。なんで
このままにできましょう。一生あなたのおそばにおいてください」。
こうしてふたりは結ばれました。檜枝岐の村民にみやびやかな血
が流れているというのは、こんな歴史があったのです。

 この伝説について、『太平記』(巻第四)にこんな部分がありま
す。後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕計画が、事前
に発覚してしまい、「元弘の変」で六波羅(ろくはら)の軍勢に捕
らえられました。そして後醍醐天皇の側近で、計画にかかわった
万里小路藤原季房(までのこうじすえふさ)と、兄の中納言藤房
は、ともに常陸(ひたち)の国方面へ流されました。さらにそれ
ぞれに、長沼駿河守(するがのかみ)、小田民部大輔(たゆう)と
に預けられたという記述…。これが先述の万里姫の伝説につなが
るものだとしています。

▼燧ヶ岳【データ】
【所在地】
・福島県南会津郡檜枝岐村。上越新幹線上毛高原駅からバス、沼
田駅乗り換え大清水停留所下車、さらに歩いて6時間で燧ヶ岳。
俎ー(2等三角点・2346.0m)と、柴安ー(写真測量による標高
点・2356m)と、赤ナグレ岳(写真測量による標高点・2249m)
とミノブチ岳、御池岳がある。燧大権現の石祠がある。

【地図】
・2万5千分の1地形図「燧ヶ岳(日光)」

▼【参考文献】
・「尾瀬むかしむかし・第1集」(株・ナグモ)(発行年不明)
・『尾瀬むかしむかし・第2集』(株・ナグモ)(発行年不明)
・『角川日本地名大辞典7・福島県』小林清治ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『上州の伝説』都丸十九一ほか(角川書店)1978年(昭和53)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『太平記』(新潮社版)(巻第四):新潮日本古典集成『太平記1』
山下宏明校注(新潮社)1991年(平成3)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本歴史地名大系7・福島県の地名』(平凡社)1993年(平成
5)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室