山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1149号(百伝049)立山「雄山のお花畑伝説とミクリガ池」

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【本文】

▼【立山とは】
 ♪「越中立山、加賀には白山、駿河の富士山日本一だよ…」な
どとも歌われる立山は、歌の通り、富士山や白山とならんで「日
本三大霊山」とか「日本三名山」とか呼ばれるほどの有名な山岳霊
場です。北アルプスの北部(富山県)にあり、周辺の雄山(おや
ま)、大汝山(おおなんじやま)、富士の折立(おりたて)の「立
山三山」といっています。

 また狭義では雄山神社のある雄山(3,003m)、あるいは最高峰の
大汝山を指す場合もあるそうです。さらに立山連峰という場合は、
北方の別山乗越から南へ浄土山までを指しているようです。

 この山は、昔から僧たちにとって特別な山です。民衆でも朝日の
昇る立山の方に向かって汚れた腰巻きなど干さないようになどと戒
められたといいます。民衆にとっても、夏シーズンにはファミリー
登山でにぎわう行楽の山になっています。

▼【雄山の奥宮】
 その立山の中心である雄山には、りっぱな社殿が建っており、
その奥(山頂)に、小石をいっぱい屋根にのせた雄山神社の奥宮
(本殿)がのぞめます。雄山神社は、立山連峰の山岳信仰がもと
になった神社で、雄山権現、立山権現ともいうそうです。

 雄山神社の社殿は、ここ雄山山頂の本殿(奥社・峰の本社)のほ
か、ふもとの立山町芦峅寺(あしくらじ)池元尻地区に祈願殿と、
佐伯有若(さえきありわか)公をまつる太宮、その子有頼(あり
より)をまつる若宮、そして岩峅寺(いわくらじ)の前立社壇(ま
えだてしゃだん)と三つに分かれています。

▼【鬼の牙、天狗の爪などの宝物】
 信仰の対象の雄山神社は、立山の山ろくの富山県立山町岩峅寺
(いわくらじ)に雄山神社前立社壇(まえだちしゃだん)と、同じ
く立山町芦峅寺(あしくらじ)に中宮祈願殿があります。それに対
して、雄山頂上にある社殿を、峰本社と称して本社としています。

 その雄山神社本社の什物(じゅうもつ=秘蔵の宝物)として奉
納されているものに、立山開山の時の伝説に出てくる「有頼」の
刀、またその時、有頼が熊に放ったとされる矢の根(蟇股の鏃・
かりまたのやじり)、行基菩薩が奉納したといわれる錫杖(しゃく
じょう・行者が持っている杖)があるそうです。

 そのほか、鬼の牙が一つ(北山石蔵の口牙)、角が二つ(若狭老
尼の額角)、駒の角?(藤義丞が馬になったとき生えた角)、牛に
なった天狗の爪(光蔵坊天狗の手爪)があるといいます。どれも
立山雄山、剱岳の周辺に伝わる伝説に登場するもので、いまでも
宝物として奉納されているそうです。

▼【まつられている神さま】
 この雄山神社に祭られている神は、天の岩戸開きで活躍の力持
ち、おなじみの手力男命(たぢからおのみこと・『日本書紀』では
天手力雄神)と、それに伊邪那岐命(いざなぎのみこと『日本書
紀』では伊弉諾尊)と表記。それと刀尾(たちお)天神という神さ
まだそうです。

▼【有頼開山伝説】
 立山の開山は、神社に伝わる話では大宝元年(701)年というか
ら飛鳥時代、あの大宝律令の年だといいます。越中に、国司(く
にのつかさ)である佐伯有若(さえきありわか)の子の有頼(あ
りより)という人がいました。

 ある時有頼は狩猟中に、狩猟に必要な父が大切にしている白鷹
を逃がしてしまいました。慌てた有頼は白鷹を探すため、あとを
追いかけて山中をさまよっていました。

 その時、彼の前に熊があらわれました。有頼が熊に向かって矢
を射ると、ナンとそこには阿弥陀如来が立っているではありませ
んか。有頼はビックリ仰天。この不思議な現象に霊異を感じた有
頼は決心して出家したといいます。

 そして慈興(じこう・滋興とも)と名のって立山を開き、山ろ
くに社殿を建てたという伝説が残っています。このようにして立
山は山岳信仰の山になっていったということです。

▼【一合目、二合目、三の越】
 さて、立山室堂(むろどう)から雄山(おやま)に登る人たち
がまず向かうのは、「祓堂」(はらいどう)の祠の前を通って、一
ノ越(いちのこし)というところにとりつきます。ふつう山に登
る時、まず一合目から二合目、三合目と登り、十合目で頂上につ
きます。

 ところが立山では、一ノ越、二ノ越、三ノ越と登っていくのだ
そうです。これは、山を仏さまの姿に見立て、膝が一ノ越で、腰
が二ノ越、肩が三ノ越、首が四ノ越、頭が五ノ越(または膝・腰
・腹・胸・肩をいい、山頂を頭とする)なのだそうです。

 そしてそれぞれの越(こし)に小祠(こぼこら)を置いたとい
います。「なんとか越」というこの呼び方は古くからあり、平安末
期の国語辞書の『伊呂波字類抄』(いろはじるいしょう)(編者・
橘忠兼)にも「躰厳石之山、膝名一輿(こし)、腰号二輿、肩字三
輿、頸名四輿、申頭烏瑟(うしつ)五輿」とあるそうです。そし
てさらに山頂を烏瑟の峰(うしつのみね)といっているそうです。

▼【室堂はお籠もり堂】
 さて、立山の西側直下には室堂があります。室堂の室は洞窟の
「窟」で、行者などが籠もる場所です。「堂」はお堂などというよ
うに神や仏をまつる建物です。要するにお籠もり堂の意味だそう
です(北陸白山にも室堂があります)。

 北アルプス立山の中継基地室堂平(富山県)はバスターミナル、
休憩所やホテル、電報や電話などが完備され、夏山立山銀座の表
玄関になっています。ここは立山雄山直下にあり弥陀ヶ原の東端
にある台地。灼熱の地獄谷、深く沈んだミクリヶ池、血の池とい
われたミドリヶ池などが近くにあります。

 また修験道の修行場だったところで、近くを歩くと石仏や石塔
がたくさん見られます。崖下の玉殿の岩屋は、霊感を得て立山を
開山した滋興上人が修行したところ。その昔、立山信仰で訪れた
越中の人たちが泊まった玉堂岩屋や、ほかからきた人たちが泊ま
った虚空蔵岩屋などの遺跡も残っています。

 室堂の名は江戸時代のはじめ、加賀藩が修験行者のために室を
建てたのに由来するそうで、いまの室堂小屋は江戸時代中期の171
5(正徳5)年に、加賀藩が立山禅定者(ぜんじょうしゃ)のため
の宿泊所として設置したものといいます。

 1752(宝暦2)年、奥山廻りの山小屋として再興したものだそ
うです。江戸時代の唯一の泊まり場所だったわけですね。明治以
後は訪れる人が増えるにしがたい室堂小屋は増築、いまの形にな
っていきました。

 室堂平は、1971(昭和46)年立山黒部アルペンルートが開通し
てからは、美女平からの高原バスの終点になっています。ほとん
ど観光地になっていて、シーズンになると郵便局や交番まで設置
されます。

 また立山連峰の雪が溶け、地面にしみ込み、2千年以上もの時
代を経てこの高地にわき出す「立山殿の湧水」は、1968年(昭和4
3)、立山トンネル貫通工事の時発見したもの。それを室堂バスタ
ーミナルに水飲み場として設置、訪れる人ののどを潤す名所にな
っているとのことです。

▼【神の使いのライチョウ】
 立山には人気者の山の鳥ライチョウがおり、国の特別天然記念
物に指定されています。ライチョウは普段はハイマツの中にいて、
雷がなるような時や、霧がかかってきた時などに親子づれで出て
きてイネ科の植物の実をついばんでいます。

 ライチョウは、氷河時代の生き残りといわれ、北アルプス・南
アルプス、中央アルプスなどにすんでいます。北アルプス立山で
はライチョウを立山の神のお使いとして大事にしていたそうです。
加賀藩代々の藩主はとくにライチョウを大切にしていたといいま
す。

 「御制札(せいさつ)旧記」という文書によれば、江戸時代初
期の1648年(慶安元)、加賀藩三代藩主前田利常は、立山一帯の「来
鳥(ママ)花松硫黄」のなどを盗むものがないよう見回ることを命
じています。これはいまでいう高山植物・高山動物保護を命じた
もので、たぶん日本最初の行為だろうとされています。

 五代藩主の前田綱紀も、本草学を好んで珍しい鳥を集めさせた
そうですが、ライチョウだけは捕まえず、絵師にスケッチさせて
います。また立山や白山で実際にライチョウを見た町人を集めて、
形態や生態を聞いているといいます(「国事雑抄」、「温故集録」)。

 このように大事にしたのは、ライチョウを山ノ神のお使いだと
したこともありますが、下界に連れてきてもすぐ死んでしまうこ
とを知っていたのかも知れません。

 ところが明治時代になり、「越中遊覧志」(1885年(明治18)竹
中邦香)などのようにライチョウを捕まえて食べてしまう文献が
あらわれます。当時、小島烏水(日本山岳会創立発起人で初代会
長)は高山植物の保護を訴えていたそうです。


 しかし、一方ではライチョウやカモシカは捕まえて食べていた
そうですからビックリ。でも当時、山に登るとき雇ったのは決ま
って猟師たち。鉄砲撃ちが案内人では、そんなこともあったかの
も知れませんね(『日本歴史地名大系・富山』平凡社)。

▼【お花畑と立山権現伝説】
 この雄山の山頂付近に咲き乱れる高山植物のお花畑があり、登
山者の目を楽しませてくれます。ここにはもと千蛇ヶ池という池
があり、恐ろしい大蛇がたくさんすんでいたそうです。

 これらの大蛇は夜になると、人里に降りてきては人を殺したり、
家畜を盗んだりのし放題だったといいます。見かねた立山権現
(神)は、大蛇たちを神殿に集めて諭(さと)しました。

 「いまのようなことをしていると、この世には人間がいなくな
ってしまう。お前たちだって食べるものがなくなって困るだろう。
ここにある草花の種をやるから池のほとりにまいて、芽が出るま
で池に潜って待っておれ。そのうちに人間も増えるだろう」。

 なるほどいわれてみればもっともな話です。大蛇たちは、花の
種をまいて池に潜りました。立山権現はそれを見すますと、池の
上に毎日大雪を降らせて、大蛇たちを雪の下に永久に封じ込めて
しまいました。雪は大雪渓になり、やがて溶けはじめると大蛇た
ちがまいた高山植物の花が咲きはじめ、いまのお花畑になったと
いうことです。その後大蛇たちはどうなったのでしょうか。

▼【ミクリガ池伝説】
 バスターミナルのある室堂から500mくらいのところに「ミクリ
ヶ池」という池があります。ここは神秘な池として、また見る角
度によって立山の影がハート形に写り、登山者の人気の的になっ
ています。テレビにも放映されたこともありました。その名は8
月に行われる地獄供養という行事の際、読経しながら池のまわり
を巡るのに由来しているといいます。

 江戸時代初期の元和3年(1617年)夏、越前(いまの福井県北
部)から山伏の小山法師という人が、室堂にやってきました。ち
ょうど室堂に籠もっていた、延命坊という行者が小山法師を連れ
て地獄谷などを案内しました。そして、ミクリヶ池にさしかかり
「八寒地獄」の恐ろしさを説明をしました。

 すると、小山法師はカラカラとあざ笑い、「八寒地獄、八寒地獄
というから、どんな凄いところかと思ってきたが、笑止千万。何
ともつまらぬ池よ。まるで種漬け池だ」と、小馬鹿にしました。
そして「こんな池なら、泳ぎまわって見せよう」。小山法師は裸に
なって、懐剣を口にくわえて、ざんぶと池に飛び込みました。そ
して抜き手をきって一周し、得意げに池からあがってきました。

 「見事でござる。しかし、ご坊は口に懐剣をくわえておられる。
やはり魔を恐れているためでござろう」と延命坊はいいました。
小山法師は「なにっ剣、よろしい、それではもう度…」といって、
剣を預けてそのまま飛び込みました。池の中を一めぐり、二めぐ
り、三めぐりしたときのことです。

 突然、大波が立ったかと思う間に、池のそこから大蛇があらわ
れ、法師の体を水中に引きずり込んでしまいました。案内しなが
ら説明していた延命坊は驚きました。が、また哀れにも思い大蛇
にいいました。

 「八寒地獄の主よ、小山法師の振る舞いは、業死も仕方ない罰
なれど、人の世の別れにいま一度だけ法師の顔を見せ給え」と叫
びました。すると、湖面はふたたび波立って、小山法師の姿がポ
ッカリと浮いてきました。

 そして寂しい姿に、心なしか顔にかすかな笑みをふくめ、ふた
たび湖水深く沈んでいきました。以来、この池を「三繰りヶ池」
と呼ぶようになったといわれています。ミクリヶ池がどんな静か
な日でも水面が波立っているのはここにすむ主(ヌシ)のためだ
そうです。

 ……ミクリガ池の水面は、もともの静寂に帰りましたが、案内
をしていた延命坊の心は穏やかではありません。「悪いことをして
しまった」と悔いました。悔やみつづけた延命坊は、小山法師の
菩提を弔おうと考えました。そして下山し、4月10日の日に深い
洞窟を探しあて、中に入り鉦(かね)をたたきつづけました。

 3年経った同じ4月10日、鉦の音はやみました。延命坊が亡く
なったのです。延命坊の塚は以前は常願寺にあったようですが、
1872年(明治5)の常願寺川の大地震による山崩れ、大洪水のた
め、塚が押し流されてしまいました。

 その時、基標だけが発見され拾われて、いまは延命坊の後裔に
あたる岩峅寺佐伯治重(はるしげ)氏方の累代の墳墓となってい
るそうです(『山の伝説』昭和5年)。

▼【大物天狗伝説】
 ここ立山にも、天狗がすんでいることになっています。ここに
は数千もの天狗がおり、それを首領の縄乗坊(しじょうぼう)大
天狗が仕切っているといいます。この天狗は山伏が唱える「天狗
経」の中の四十八狗にも名を連ねています。

 江戸時代、備前(佐賀県)平戸藩主松浦靜山が書いた『甲子夜
話』巻之七十三「六・天狗界の噺」にはこんな話が出ています。「上
総の国(千葉県)夷?郡(いしみごおり:夷隅郡)。蓋この処の農
夫源左衛門、酉の五十二歳が在り。この男嘗天狗に連往れたと云。
……

 ……その話せる大略は、七歳のとき祝に馬の模様染たる着物に
て氏神八幡宮に詣たるに、(……中略……)十八歳のとき、嚮(さ
き)の山伏又来たり云ふ。迎に来れり。伴ひ行くべしとて、背に
負ひ目を瞑りゐよ迚、帯の如きものにて肩にかくると覚へしが、
風声の如く聞へて行つゝ、越中の立山に至れり……」とつづきま
す……

 ……つまり、ある時千葉県上総(夷隅)の農夫の源左衛門とい
う人が天狗にさらわれました。そして富山県立山にある大きな洞
くつに連れこまれました。その源左衛門の話をまとめてみると次
のようです。大きな洞窟は、加賀(石川県)の白山まで通じてい
るといいます。なかには20畳もの広さのある居所があって僧や山
伏が11人もならんで座っています。

 僧たちは源左衛門をさらってきた天狗を上座へ座らせ「権現」
と敬って呼び、乾菓子を食べはじめます(天狗は、ふだんはほと
んど飲んだり食べたりしないのが普通です)。やがて笙(しょう)、
ひちりきに合わせて舞いをはじめたというのです。この11人の坊
さんたちは天狗に間違いなく、権現と呼ばれている天狗こそ、立
山の天狗の首領縄乗坊の傘下のなかでも、幅利きの天狗であろう
と研究者はみています。

 この洞くつは室堂近くの天狗平周辺にあり、縄乗坊のすみかに
なっていたのではないかとされています。いまシーズンは室堂を
中心にツアーの観光客が押し寄せ大にぎわい。土産物屋から喫茶
店までならびます。五月の連休から雪を削っての道路づくり。壁
の中をバスが行き交い、それを見にまたツアーを組む。うすれゆ
く天狗伝説に、天狗の姿もかすむ一方です。


▼【牛になった天狗伝説】
 ここには天狗が牛になったという伝説もあります。先に書きまし
たが、雄山神社本社の宝物のなかの牛になった天狗の爪(光蔵坊
天狗の手爪)にまつわる話です。

 江戸時代中期に編纂された百科事典の『和漢三才図会』(寺島良
安)に、「森尻地区(いまの富山県上市町森尻)に智明坊というも
のがいた。この坊さんは生まれつきおごりたかぶった人間で、に
わかに牛の吼(ほ)えるような声を出した。……

 ……そしてついに天狗と化し、自ら光蔵坊と名のって市の谷に
棲んでいた。剱岳の刀尾天神(たちおてんじん)は光蔵坊を追い
出したが、光蔵坊は逃げるとき一つの爪を落としていった」と記
しています。それが雄山神社本社の宝物の天狗の爪というわけで
す。

 また別の資料では、「智妙房(智明坊)なる者、僧坊にありなが
ら強欲非道慢心虚栄の悪心の持ち主であったが、ある年に多くの檀
那衆の先達として立山案内をしたとき、一同ようように一ノ谷の鎖
につかまって這い上がり、やれやれと見渡すと、案内先達の智妙房
が不思議や突然に牛の姿に変身し、袈裟(けさ)を掛けたまま谷を
越えて笹原に迷い迷い行った。

 一同打ち驚き口々に智妙房の名を大声に呼べど、牛の鳴き声を残
しながら見えなくなってしまった。一同せん方なく恐る恐る参詣を
済まし、一ノ谷の上から原に向かって智妙房の名を大声で呼ぶと、
一頭の牛が此方へ向いて来るやに見えたが、そのまま遠吠えだけに
終わったという。

 その後智妙房は、一心懺悔して懺悔改心して泰澄大師の手によっ
て救済され、光蔵坊と申す天狗に生まれ変わり、長く立山の天狗山
に棲んだと伝えられ、その爪が社石としていまに残っている」とあ
ります(「立山をめぐる伝承説話」佐伯幸長『山岳宗教史研究叢書10』
に収納)。このような宝物は一般公開しないのでしょうね。

▼【蜘蛛の子を産んだ嫁さま伝説】
 立山には蜘蛛の子を産んだ嫁の話もあります。昔、立山のふも
との村に住む若者がかわいい嫁さまをもらいました。ある日、山
へたきぎを取りに行った嫁さまが、青い顔をして帰ってきました。
やがて嫁さまはみごもり子を生みました。

 ところが、産まれたのは奇妙な三つの卵でした。「これはエライ
こっちゃ」。腰をぬかさんばかりに驚いたのは若者と両親。その卵
を割ってみると、中から何千という小さなクモの子が出てきまし
た。わけを聞いてみると、嫁さまは泣きながら話しました。

 「ある時、山へ行ったらりっぱな男の人が出てきて、ひとりで
たきぎ取りを手伝ってくれたんだァ。それからは、山へ行くたん
びにその人が出てきて草やたきぎをとってくれて、それで、おら
……」。聞いていた若者はゾッとして「そ、それは立山のクモ男に
違いねエ」。

 「えッ」嫁さまは声をふるわせました。「恐ろしいことじゃ、恐
ろしいことじゃ」。それからというもの、どうしたことか嫁さまが
仕事をしようとすると、目の前にクモの糸がびっしり張るように
なりました。「クモの糸が、クモの糸が…」しかし他の人には見え
ません。

 夫の若者も「夢でも見ているのけ」と取り合ってくれません。
嫁さまはいつも目の前がクモの巣だらけで、仕事もままならず。
クモ男にとりつかれた嫁さまは、それがもとで病気になり、とう
とう死んでしまったということです。立山に昔から伝わる伝説で
す。


▼立山雄山(おやま)【データ】
★【所在地】
・富山県中新川郡立山町。富山地方鉄道立山駅の東22キロ。富山
地方鉄道立山駅からケーブル、美女平からバス、室堂から2時間3
0分で雄山。一等三角点(標高2991.6m)と写真測量による標高点
(3003m)と雄山神社(2992m)がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・雄山標高点:北緯36度34分23.49秒、東経137度37分04.38秒
・雄山一等三角点:北緯36度34分21.23秒、東経137度37分2.85秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「立山(高山)」or「黒部湖(高山) 」(2
図葉名と重なる)。

★【山行】
・某年09月23日(月曜日・天気:晴れ)


▼【参考文献】
・『甲子夜話』松浦靜山著。江戸後期文政4年起稿(未完)。:『甲
子夜話5』(巻七十三・六項)(東洋文庫)(松浦靜山著・肥前平戸
の殿様)校訂・中村幸彦ほか(平凡社)1989年(昭和64)
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『今昔物語集1』馬淵和夫ほか校注・訳(小学館・古典文学全集)
1993年(平成5)
・『今昔物語集2』馬淵和夫ほか校注・訳(小学館・古典文学全集)
1990年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書10』「白山・立山と北陸修験道」高瀬重雄
編(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書・16』(修験道の伝承文化)五木重編著(名
著出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書・17」(修験道史料集1・東日本編)五来
重編(名著出版)1983年(昭和58)
・『山岳霊場御利益旅』久保田展弘著(小学館)1996年(平成8)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『修験の山々」柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『植物と伝説」松田修編(明文堂) 1935年(昭和10)
・新稿『日本登山史』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・『神社辞典』白井永治ほか編(東京堂出版)1986年(昭和61)
・『神道集』:『神道大系文学編1』「神道集」(財団法人神道大系編
纂会)1988年(昭和63)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本編」知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『立山の昔話」立山黒部貫光(株)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本伝説大系6・北陸』(富山・石川・福井)福田晃ほか(み
ずうみ書房)1987年(昭和62)
・『日本の民話7・妖怪と人間』松谷みよ子ほか編(角川書店)1973
年(昭和48)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成
6)
・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930年(昭
和5)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)昭和56年(1981)
・『龍胆(りんどう)と撫子』(未完)泉鏡花:『鏡花全集巻・21』
(岩波書店)1988年(昭和63)
・『和漢三才図会」寺島良安(江戸時代1712年(正徳2)の図入り
百科事典)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室