▼【本文】
【目次】
・【剣岳とは】
・【剣か釼か剱か劔か劒の文字か】
・【不入の山】
・【登山者の不審な死】
・【平安時代から登山】
・【タブーを無視した女性】
・【池平山】
・【モリブデン鉱山】
・【仙人だらけ】
・【冠松次郎が発見した仙人池】
▼【剣岳とは】
かつて映画「劔岳 点の記」(原作・新田次郎)で話題なった剱
岳。映画では「劔岳」となっていますが、いまは「剱岳」に統一
されているようです。剱岳は『万葉集』巻十七などに多知夜麻(た
ちやま・立山連峰の総称)として、また大伴池主(生没年未詳。
没年はおそらく757(天平宝字1)年)の「こごしかも 巌の神さび」
などと歌われてはきました。
しかしツルギの名があらわれるのは安土桃山時代になってから
という。天正13年(1585)、羽柴秀吉が佐々成政を討つため越中に
きたとき、京都に宛てた書状「東は立山うは堂・つるぎの山麓迄
(焼いて打ち従えたとする)」とあるのが最古の文献だろうといわ
れています。しかし「焼いて打ち従えたとする」とは乱暴です。
▼【剣か釼か剱か劔か劒の文字か】
剱岳の「ツルギ」の字は、江戸時代の文献では「劔ヶ岳」が一
番多いそうですが、劔山、劔峰、劔ノ御嶽、劔御前といろいろで
す。文字も「劔」やその異体字(劔の偏に刃)が多いですが、「剣」
や「劒」も使われているらしい。なかには山廻役がつくった古地
図のように金偏にして「釼」を使う例まであります。
剱岳(2999m)は北アルプス黒部渓谷西側富山県立山連峰の中
心をなす岩山。山頂から南へ派生させる別山尾根は、前剱、一服
剱、剱御前をへて別山乗越に至ります。これに対して北へ延びる
北陵は、小窓ノ王、池の平山、大窓ノ頭から白兀(しらはげ)、赤
兀(あかはげ)方面へ。東側には八ツ峰、源治郎尾根を突き出し
ています。
▼【不入の山】
西側にはあの長大な早月尾根が馬場島まで派生しています。剱
岳は立山連峰中最も険しく、山名は「針の山」ともたとえられる
ように、岩峰が剣のように突き立っていることに由来するといい
ます。かつて弘法大師がワラジ6千足を使っても登れなかったと
いわれています。「立山曼陀羅」では奥の方に白い針の山の形でそ
の急峻さが描かれています。
立山の信仰ではここは登る山ではなく、遠くからあがめる礼拝
の山。長い間、「不入の山」として登山はタブー視され、その周囲
にも立ち入ってもならぬとされていました。「山の姿峨々(がが)
として険阻(けんそ)画(え)のごとくなるは越中立山の剱峯(け
んぽう)に勝れるものなし…最も高く聳え、たがひに相争ふ程な
る峯五ツあり、剱峯も其一也」。江戸後記の医者で文人の橘南谿の
「名山論」(「東遊記」巻末)の剱岳に関する一節にあるほどです。
▼【登山者の不審な死】
ここも伝説の山で、江戸時代の中期初頭の1712(正徳2)年に大
阪の医師・寺島良安が著わした『和漢三才図会』(わかんさんさい
ずえ)には、剱岳の地主神は刀尾天神(たちおてんじん)として
います。また信州側の言いつたえでは、「長野県戸隠村の戸隠明神
の本体は九頭竜で、その尾は、ここ剱岳を七巻き半している」と
あります。
江戸時代、このあたりは加賀前田藩の所領でした。1838(天保
9)年、江戸城西の丸が消失。その再建にあたり、幕府は前田藩
に課役の命を下します。それを受けて加賀藩は黒部奥山の木の伐
採を試みます。その時、伐木担当の役人・増(松)崎藤左衛門が
調査のついでに?単身で入ってはならぬ剱岳に登ったという。
しかし、帰途急死したとしています。これは彼の行為が、藩命
違反と判定され、秘密裡に処分されたといううわさが広がったこ
とがありました。これに前後して快天という行者が、こっそり釼
登山を試みて成功しました。ところがこの行者、それを自慢して
歩いたため村人の反感を買い、反逆者として縛られ、山中の岩場
に放置されたため餓死してしまったという伝説も残っています。
▼【平安時代から登山】
その後、明治40(1907)年7月、三角測量点設置のため、参謀
本部陸地測量官柴崎芳太郎一行が苦労の末、やっと山頂に立ちま
した。その時、山頂で修験者が持っている錫杖(しゃくじょう・
修験者が持っている杖)の頭と鉄刀を見つけたのです。さらに山
頂わきの石窟でたき火の跡の木炭も発見しました。
さあ大変、だれも登っていないはずの剱岳山頂でそんなものが
見つかったのです。早速、錫杖を鑑定しました。その結果、平安
時代初期のものと分かって大騒ぎになりました。その錫杖は、い
まは国の重要文化財に指定されています。自分たちが初登頂だと
思っていたにもかかわらず、すでに平安初期に山伏が登頂してい
たのを知ってガクゼンとした話はあまりにも有名です。
また南北朝時代に、裏剱の仙人谷洞窟に籠もって修行したらし
い、修験者の木炭などの遺跡も見つかっています。木炭のあった
石窟は、山頂の斜め下のところにあります。そこは山頂の祠を見
上げる位置で、高さ約2m、底幅2mくらい。奥行き3mくらい。
奥壁の上部がせり出しているとあります(『古代山岳信仰遺跡の研
究』)。
かなり以前の夏に登ったとき、山頂の祠の下方に石窟があり、
その底をのぞいてみたことがあります。そこが本当の石窟か、看
板も立て札もありません。中は空き缶やゴミで埋まっています。
その中で一夜を過ごしてみたいと興味をもちましたが、さすがに
泊まる気にはなりませんでした。
柴崎測量官たちが見つけた錫杖の頭は模造品となって、いま、
早月尾根登山口・馬場島の馬場島荘で売っているらしいのです。
かつて馬場島から登ったのですが、早朝のため手に入らなかった
ことをいまでも悔やんでいます。
民間登山者としてはじめて剱岳に登ったのは、1909年(明治42)、
富山県高岡市の吉田孫四郎と同県西礪波郡福光町の石崎光瑶ら。
これらの登頂には宮本金作、宇治長次郎らの名ガイドが案内した
といいます。このときのガイドの名をとり登路の雪渓を長次郎谷
と命名しました。
1913年(大正2)には小暮理太郎、田部重治が別山尾根からガ
イドなしで発登頂。さらに2人は2年後、北陵から登頂、西側早
月尾根からは、1917年(大正6)冠松次郎がはじめて登頂したと
いいます。
▼【タブーを無視した女性】
このような「人間登る能わず、人間登るべからず」という神聖
不可踏の山でも時代にはかなわず、大正9(1920)年、竹内イサ
という女性が、夫とともに長治郎谷・剱岳・小窓、馬場島(ばん
ばじま・いまの富山県中新川郡上市町)のコースを踏破したとい
います。なんとも度胸のすわった女性ではあります。
また翌年、大正10年(1921)には小倉貞という女性が塚本繁松
とともに小黒部谷(こくろべだに)を遡行して剱岳に登頂してい
るそうです。ちなみに剱岳の山頂には、三等三角点(2997.1m)
と標高点(2999m)、須佐之男神(すさのおのかみ)をまつった剱
岳神社の木の祠があります。いま剱岳山頂にある三角点を設置し
たのは2004年(平成16)8月24日だったそうです。
▼【池平山】
さて、北アルプス剱岳から北にのびる稜線ルートには、池ノ谷
乗越(いけのたんのっこし)、三ノ窓(さんのまど)、小窓ノ王、
小窓の頭、小窓(こまど)、池平山(いけのだいらやま・池ノ平山
とも書く)などの難所があります。窓(まど)というのは、稜線
上でV字形に深く切れ込んだキレットのこと(『山の用語なんでも
事典』)。
大窓の手前の池平山(池ノ平山)は、古くは「西仙人山」と呼
ばれていました。明治時代、陸地測量部という役所が地図を作成す
る時、この山の東面の「池ノ平」の名前をとって「池平山」として
しまったのだそうです。その証拠に、この山の西側(富山県上市町
馬場島方面)から小窓へ突き上げる白萩沢の一源流に西仙人谷して
その名がいまも残っています。
▼【モリブデン鉱山】
しかしすぐそばに中仙人谷、東仙人谷もあるので、それぞれの文
字のつく山があったのかも知れません。池平山の東面直下の「池の
平」は大正時代の初期にモリブデンという鉱石が採掘された時期が
ありました。これは特殊合金の原材料になるシロモノ。
時は1902年(明治35)、陸地測量部が白ハゲ山(大窓北方側ピ
ーク)に三角点を設置しようとした時のこと。三角標をたてるため
作業員が登山。その中の一人が地面に鉛のようなものが散らばって
いるのを見つけ、持ち帰りました。それがたまたま横浜に住んでい
たドイツ人が手に入れました。この人はそれをモリブデンを含む輝
水鉛鉱だと判定する知識があったのか、薬の原料だとうそをついて
買い取り、地元の鉱夫たちを雇って採掘させたということです。
そして年間約3トンものモンブデンを母国へ送り、耐久性のある
大砲を製造していたのだそうです。やがて日本もこれが重要な金属
であることを知り、鉱夫たちでにぎわうようになります。モリブデ
ンの産出量のピークは1917年(大正6)あたり、日本の生産量の
76%を占めたというからすごい。
そして突然の閉山。「五棟の飯場は皆傾き、帳簿や伝票類が乱雑
に散らばっている……」、1922年(大正11)にここを訪れた冠松次
郎(山岳紀行文、とくに黒部峡谷の地域研究で知られる登山者)は、
なぜかあわただしく短期間に閉山した様子を著書に記しています。
その後、第二次大戦下の1941年(昭和16)には、海軍の支援によ
って、本格的に採掘しましたが、1945年(昭和20)終戦と同時に
閉山しました。
また戦後に再び開鉱しましたが、短い期間で閉山してしまいまし
た。いまも池ノ平小屋の近くには鉱石を洗鉱していたあともあって、
キラキラ光るモリブデン鉱が落ちているといいますが、気がつきま
せんでした。モリブデンの採掘場所は、小黒部谷と大窓雪渓の出合
い付近。事務所と飯場は、池平山東方直下の鞍部(いまの池ノ平)
に置きました。建物は建て替えられ、いまの池ノ平小屋になってい
ます。
1915年(大正4)、ここを訪れた小暮理太郎と田部重治が宿泊し
たといいます。採掘された鉱石は、索道で上市町馬場島方面へ搬出
していました。その経路は池ノ平から大窓に運び、大窓からは索道
で白萩川におろし、白萩川沿いにブナグラ谷出合へ。さらに早月川
沿いにいまの滑川市へと運ばれていたらしい。
史跡としては大窓に955年(昭和30)ごろまで、大きな櫓が建
っていたといい、白萩川の河原にもワイヤー類が散乱していたとい
います。いまでも大窓から白萩川に下る途中に、3ヶ所石積みの架
台(かだい)がかかっているというから、大規模な索道をつくって
いたようです。
▼【仙人だらけ】
さて、池平山の東側下方には仙人の名のつく地名がならんでいま
す。池平山をかつては西仙人山といい、その東に仙人山、南仙人山、
北仙人山(地形図では坊主山)、仙人峠、仙人池、仙人湯、仙人谷
などなど。このあたりはかつて、剱岳を崇拝する修験者が修業しな
がら回峰していたかららしい。そのせいか仙人湯の近くには、仙人
窟があって、南北朝時代の石仏も鎮座するといいます。
ただ池ノ平山山頂、赤谷山、大窓にも石仏がありますが、これは
のちに建てられたもので、昔の山岳信仰の石仏たちではないそうで
す。(こういう、近年になって新興宗教団体が石仏を建てるには国
の認可は必要なのでしょうね)。
仙人山は、北東面にある仙人谷からきた名前で、人の住むどこの
里からも見えないほど奥深い山だとか。仙人山の北東にある坊主山
(2199.2m)。国土地理院の地形図では「坊主山」とありますが、
かつては北仙人山といっていたそうです。昭和のはじめ、このあた
りがよく登られていた時代の文献をみると、坊主山はこの山の北約
3キロの1668.1mの名無し峰を指していたのだそうです。
仙人山の東、約1.5キロには南仙人山もあります。南仙人山は仙
人峠、仙人池から東へつづくガンドウ尾根の上にあり、標高は2173.1
mです。尾根の末端は黒部峡谷のS字峡になります。ちなみに「ガ
ンドウ」とは、大きな鋸のことで、尾根の形がギザギザになってい
るさまといいます。ここは登山道がないので登山者はいません。た
だ冬季、鹿島槍ヶ岳から黒部峡谷を横断して剱岳をめざす際の一コ
ースとなっているそうです。
▼【冠松次郎が発見した仙人池】
ある年の9月、大勢の登山者で賑わう剱岳山頂から、東北へのび
る尾根に入り、池ノ谷乗越(いけのたんのっこし)へ向かいました。
そびえたつ岩陰で薄暗く、砂地の急坂を大石と一緒になって滑り
ながら下ります。三ノ窓の先は、鼻がつかえるように「小窓ノ王」
がそびえたっています。小窓ノ王とはその北側にある2650m峰の
小窓ノ頭よりもっと高い所にあるため、「頭」よりも上位の地位だ
として「王」の字がつけられたとのことです。
「小窓ノ王」の名がはじめて使われたのは『登高記』で著者の
吉沢一郎氏の命名らしい。これに対して、小窓の西側にある小さな
ピークを小窓妃(ひ)と呼んでいるとのことです(『富山県山名録』)。
小窓を通過し、草つきをあえぎながら池ノ平山へ。山頂からは剱岳
がみごとです。ここからは大窓方面を右に見ながら東方へ下ります。
途中、かつてモリブデン鉱山の小屋だった池ノ平小屋を見送り、
仙人池ヒュッテへ。水面にうつる剱岳から続く八ツ峰、三ノ窓、あ
の小窓ノ王、小窓雪渓……、なるほどこれが仙人池か、などと感心
します。のちに資料を調べると仙人池は、1926年(昭和元)に冠
松次郎が発見した池で、氷河がつくった圏谷と、氷河末端の堆石提
で囲まれた場所に、水が溜まって池になったものとありました(『角
川日本地名大辞典・富山』)。またヒュッテでは、こんなに山の奥深
い所にかかわらずお風呂も「ご馳走」になり、翌朝は仙人峠から仙
人新道、剱沢、内蔵助谷経由で黒部ダムに向かったのでありました。
▼剱岳(つるぎだけ)【データ】
★【所在地】
・富山県中新川郡上市町と富山県中新川郡立山町との境。富山地方
鉄道立山線立山駅の北東19キロ。富山地方鉄道立山駅からケーブル
美女平からバス・室堂から歩いて6時間30分で剱岳。三等三角点
(2997.07m)と写真測量による標高点(2999m・標石はない)と、
須佐之男神をまつった剱岳神社の小祠がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・標高点:北緯36度37分23.69秒、東経137度37分00.68秒
・三角点:北緯36度37分24.06秒、東経137度37分01.68秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「剱岳(高山)」or「十字峡(高山)」(2図
葉名と重なる)。
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典16・富山県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書10・白山・立山と北陸修験道』高瀬重雄編
(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書15』「修験道の美術・芸能・文学」(U)五
木重編(名著出版)1981年(昭和56)
・『新稿日本登山史』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「立山の昔話」立山黒部貫光(株)
・『東遊記』橘南谿(「東西遊記・1」所収)(東洋文庫・宗政五十
緒校注)(平凡社)1986年(昭和61)
・『日本山岳風土記1』(宝文堂)1960年(昭和35)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成
6)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)
・『名山論』橘南谿:東洋文庫248「東西遊記1』宗政五十緒校注
(平凡社)1986年(昭和61)
・『和漢三才図会』寺島良安(江戸時代1712年(正徳2):東洋文
庫「和漢三才図会10』(巻第66〜巻第68)島田勇雄ほか訳注(平凡
社)1988年(昭和63)
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