▼【本文】
▼【山名】
もともと日本で使っていた暦は、中国から輸入した月の満ち欠け
だけを基準にする純太陰暦というものを採用していました。しかし、
この暦は1年が354日といまの暦にくらべ、11日も短かったため、
毎年の月々が次第に季節との間にずれがでてきます。そのままにし
ておくと次第にずれが大きくなり、正月が真夏になってしまうこと
もあります。そこで中国では、適当に閏月を置いて太陽の動きの1
年の長さに近づけようと改良しました。それを太陰太陽暦(単に太
陰暦とも)というそうです。
日本では1873年(明治6)までは、中国流の太陰暦(太陰太陽
暦)を採用、さらに日本の風土に合うよう、雑節や五節供を取り入
れ、工夫をして使ってきました。この暦は太陽年に近くするために、
19年に7回閏月(閏月のある年は、1年を13ヶ月とした)を置い
ていたといいます。したがって正月が2ヶ月続く年もできました。
こんな複雑な暦の上、当時は字を読めない人も多く、農作業をする
上で、いつ種まきをしていいものやら、いつ田植えをはじめていい
のかもはっきりしません。
そこで昔の人は、夏の初めに山にできる雪どけの形(雪形)で季
節を判断しました。雪形はだいたい同じ季節に出てくるのです。農
民はその雪形が出るのを見て農作業をはじめました。ここ白馬岳の
雪形もその一つです。村人は、この山に馬の雪形のでるころを水田
のなわ代(しろ)かき作業開始の目安とし、農作業をすすめたとい
うことです。そのため、この山をなわ代かき馬の山・代(しろ)馬
岳と呼んでいました。
▼【シロウマとハクバ】
ところが明治時代、陸軍参謀本部陸地測量部という、すごい名前
のところが地図をつくる時、ろくに村人の意見も聞かずに白馬(し
ろうま)とあて字してしまいました。その後、山ろくの村々が合併、
お役所がつくった地図通りの山の名前をとって白馬村と命名、つづ
いて駅も白馬駅と改名しました。
そしてどちらもハクバと音読みさせました。しかし、山にあらわ
れる雪形は、山の地肌が出た黒馬です。での若者には「ハクバ」の
呼び方が「カッコイイ」というので流行、いまでは「シロウマ」は
次第に忘れかけられています。
▼【シロウマ植物】
そんな中にあって観光営利のために「ハクバ」との呼び方を懸念
した人がいます。博物学者の矢沢米三郎という人です。彼は、自著
『白馬岳』(昭和5年)の中で、「さすがに植物学者は白馬岳に関係
ある植物にシロウマをつけたのは、山の正しい名前をそのまま残そ
うとする態度が伺われる」、というような意味のことを書いていま
す。
なるほど、800種にものぼるといわれる白馬岳に生える高山植物、
その中で、「シロウマなんとか」の名のつくものだけでも、15種と
も20種以上もあるともいうのです。そこで、シロウマとつく植物
名はどのくらいあるのでしょうか。
あちこちの図鑑の寄せ集めながら調べてみました。シロウマアカ
バナ・シロウマアサツキ・シロウマイタチシダ・シロウマイノデ・
シロウマウスユキソウ・シロウマエビラフジ・シロウマオウギ・シ
ロウマスゲ・シロウマゼキショウ・シロウマタンポポ・シロウマチ
ドリ・シロウマツガザクラ・シロウマナズナ・シロウマノガリヤス
・シロウマヒメスゲ・シロウマミゾゴケ・シロウマヤリカツギ・シ
ロウマリンドウの18種が見つかりました。しかしほかのものは、
どうしても見つかりません。(全部列記した図鑑を探しています)。
その白馬岳には、この白馬山名由来とは別に「白馬伝説」もあり
ます。その昔、白馬岳のふもとの村にある農家がありました。母は、
何年も前に亡くなっていて、いまは父と娘がふたりで住んでいまし
た。この農家には一頭の白い馬が飼われていました。白馬の世話は
娘の役目でした。
こまめに世話をする娘と白馬は、いつしか恋仲になってしまいま
した。それに気づいた父親は仰天、そして怒りました。父親はある
日、娘を街に使いに出し、その留守の間に白馬を殺してしまいまし
た。娘が街から帰ってみると、白馬の死体はすでに、鳥や獣に食べ
られ皮ばかり。娘はなげき悲しみ何日も泣きつづけました。
さんざんに嘆き悲しんだ末、突然娘は父親に向かい、「おとっつ
ぁん、私はこれでお別れします。でも、毎年苗代をつくるころには
きっと姿を見せるようにしますからね」といって殺された白馬の皮
を頭からかぶり、天にのぼっていきました。それからというもの、
毎年春、村々の田んぼに春が訪れ、苗代をつくるころになると、白
馬岳には馬の雪形があらわれるようになったといいます。
そしてよく見ると、白馬岳には雄馬の雪形があらわれ、峰続きの
北東の三国境(みくにざかい:長野、富山、新潟県の境)に雌馬、
そしてさらに先の小蓮華山の右肩には、子馬があらわれるようにな
ったのでした(「アルプスの伝説」)。娘と白馬との間には子どもが
できたのでしょうか。
こうして、白馬一家連れだって、毎年山ろくの田植えを見守って
くれているということです。このような娘と馬が恋をするという話
は、東北地方のオシラ様や、長野県蓼科山東ろくに広がる「望月の
牧」の伝説があります。
▼【白馬大雪渓】
さて白馬岳登山で、一般的なのが大雪渓を登るコースです。山頂
を目指す大方の登山者はここを利用するといいます。白馬大雪渓は、
剱岳の「剱沢」と、後立山連峰針ノ木峠の「針ノ木雪渓」とともに
「日本三大雪渓」にも選ばれているところです。このあたりは日
本海に近い豪雪地帯。北西からの季節風で稜線の東側に雪が吹き
飛ばされ、氷河ができやすい条件がそろっているといいます。
このため、約3万年前の最終氷河期には氷河が大雪渓を流れく
だり、谷の壁をU字形に削りながら標高900m付近(二股発電所近
く)まで氷河がのびていたと考えられるというのです。いまも白
馬沢や大雪渓には1年中雪が融けない場所があるということです。
この大雪渓はすでに江戸時代以前から猟師や採薬者たちがすで
に登っていたらしい。記録としての最初は明治14、5年ころの内務
省の測量班の登山したという。その直後に北安曇郡長らが登った
とき、山頂に先の測量隊の小屋がったという記録はあるのですが
どうも資料不足。
北安曇郡長らが登った明治16(1883)年、8月21日に白馬岳の
登ったのは、北安曇郡長の窪田畔夫(くろお・45歳)、仁科学校(い
まの大町小学校)の校長渡部敏(さとし・36歳)、北城学校(いま
の北城小学校)校長豊島三男人、同校教員加納直貫(42歳)、案内
の猟師と山林巡視員を依嘱されている地元の細野の人たち9人だ
ったそうです。
一行は途中強雨に見舞われ、やむなく大雪渓の下で2泊野宿し
たという苦労話もあります。明治31(1898)年夏には、大町小学
校長の河野齢蔵が、教員の岡田邦松、松川小学校長吉沢秀吉と登
山。生物学者の河野はこの登山で何種類かの高山植物を発見して
博物学雑誌や雑誌「信濃教育」に発表。葱平のお花畑や氷河遺跡
を世に紹介しました。これをきっかけに高山植物の宝庫として、
すっかり有名になりました。
▼【大雪渓の鉱脈】
その白馬岳の白馬大雪渓で鉱脈が発見され、採掘が行われた時代
があったそうです。『北アルプス白馬連峰
その歴史と民俗』によれ
ば、そもそもこの山は江戸中期あたりから金山(かなやま)として
知られていたそうです。延享(えんきょう)3年(1746)、松
川の北股、南股の奥山で、銀の鉱山が発見されました。
掘り返したいと願書を提出し、お上から大町組の大庄屋に許可が
おりましたが、あまり大規模に発掘は行われませんでした。明治30
(1897)年ころになると、新たに銅の鉱脈が発見されました。東京
麹町の菅原某という人がスポンサーになり、明治34(1901)年か
ら試掘に着手。
白馬尻、葱平に小屋掛けして採鉱につとめ、明治36(1903)年
には採掘にこぎつけたそうです。銅の鉱脈が出たのは、雪渓尻の下
流から上部は小雪渓の近くまでという広範囲でした。しかし、おり
からの銅価暴落で、これでは採掘しても採算に合わないということ
でオジャン。いまでも馬尻小屋から雪渓末端への登山道の路傍と、
対岸の丘に草木が育たない吹きかすの残痕や、「3号(3番目の舗
鉱)の雪渓」と呼ばれる舗鉱のあとがあります。
その後第二次世界大戦が勃発。兵器や砲弾をつくる金属として採
掘が見直され、「軍」の後押しで試掘しましたが、思わしくないと
いうことでまたまた中止。戦争も終わり、またまた白馬大雪渓の鉱
脈に目をつけた業者があらわれました。
▼【鉱脈採掘】
1952年(昭和27)2月、松本市に住む探鉱業者の松本幸治郎と
いう人。通産省に「試掘願」を提出したのでした。それは九州大学
の吉村博士の調査に基づいたもので、黄銅鉱の含有比が高く、特別
良質だというのです。埋蔵量は推定2、3百万トンはあるという話
でした。当時の通産省は、試掘場所が国立公園のなかであり、その
上登山道わきでもあり、すぐ脇を登山者が歩くところであることか
ら、当時の厚生省とその可否について協議。
その結果、「坑口は登山路から見えない位置とする」、「廃鉱捨て
場は登山路から見えない場所とする」、「索道の運転は毎年6月25
日から8月25日の間は使用をやめ、撤収または登山者の目にふれ
ないようにする」、さらに「地元の同意を得る」ことを条件に、1954
年(昭和29)4月に「試掘認可」を出しました。
しかし地元からの「この採掘は白馬岳の観光価値を害するものだ」
と強い反対の声。結局中止になったということです。しかし、これ
らの試掘や発掘のため、登山道が整備されたといういきさつがあり
ます。
▼【軍馬登山】
時代は大正になり、軍国主義の時代特有の「事件」があり、世
間を驚かせたました。『北アルプス白馬連峰
その歴史と民俗』に
よれば、軍馬に乗った軍人たちの一行が、白馬大雪渓を駆けあが
り白馬岳へ登ったといいます。この大雪渓で氷上蹄鉄試験を行っ
たというのです。1919年(大正8)8月10日の朝日新聞は、「空前
の軍馬登山」との見出しで次のように報じています。
「輜重兵(しちょうへい:軍隊で兵糧、武具など必要品の運搬
を監視する兵)第十三大隊長金森中佐以下兵卒二十一名は、馬諸
共に白馬登山の壮挙を敢行して八日午後六時帰着せり」と記載し
ています。
同記事によると同年8月6日、白馬尻の小屋を5時に出発、大
雪渓も氷上蹄鉄の効果著しく、少しの故障もなく登はん、葱平(ね
ぶかっぴら)の急坂も、氷上蹄鉄の効果にて大危険を冒しつつも、
なんなく登はん、午前11時に山頂をきわめたとしています。
このため当時、白馬岳という山は馬でも登れる…という印象を
世間に広めてしまいました。この登山を記念して蹄鉄の一部を北
城小学校に贈ったということです。馬の蹄鉄はいまでも「白馬村
歴史民俗資料館」に木箱に入れられて展示されているそうです。
いくら軍国主義の時代とはいえ、21人もが馬もろともゾロゾロと
大事な大雪渓を駆け上がるとは許せないですよね。
▼【伝説・魔神大婆王】
高山植物のハクサンコザクラは、昔は純白だったといいます。そ
の昔、いまの小谷村の長者の娘・手巻(たまき)は、美人で評判で
した。手巻を嫁に欲しいと、あちこちから引く手あまたでしたが、
長者は「相手に不足」と取り合いませんでした。しかし、手巻には
人知れず、逢瀬を重ねる若者がいました。
この若者は、手巻にもどこの誰かもわからず、わかることはいつ
も白馬岳の方からやって来ることだけでした。ふたりはいつものよ
うに逢瀬を重ねていました。が、ここは狭い山里のこと、いつかこ
のことが父親に知れ、別れることを約束させられます。娘は若者に
いいました。お前さまにはすまないけれど、ゆえあって逢瀬は今夜
かぎりに…。
とたんに若者は、山の魔神・大婆王(だいばおう)の正体を現
し、娘を小脇に抱えて白馬岳の頂上目指して飛び去ったといいます。
翌朝、白馬岳に夜が明けてみるとお花畑は飛び散った手巻の血で染
まり、それ以後、ハクサンコザクラの花は紅紫色になったという伝
説が残っています。
▼白馬岳【データ】
★【所在地】
・長野県北安曇郡白馬村と富山県下新川郡朝日町との境。大糸線白
馬駅の北西10キロ。JR大糸線白馬駅からバス、猿倉から大雪渓
経由6時間15分で白馬岳。一等三角点(標高2932.2m)がある。
★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検
索)
・三角点:北緯36度45分30.71秒、東経137度45分30.77秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「白馬岳(富山)」
★【山行】
・某年8月7日(木曜日・晴れ)白馬岳から朝日岳・蓮華温泉縦走
時探訪
▼【参考文献】
・『高山植物』(野外ハンドブック8)小野幹雄ほか(山と渓谷社)
1985年(昭和60)
・『アルプスの伝説』山田野理天(ナカザワ)
・『角川日本地名大辞典20・長野県の地名』市川健夫ほか編(角川
書店)1990年(平成2)
・『北アルプス白馬連峰
その歴史と民俗』長沢武(郷土出版社)1
986年(昭和61)
・『郷土資料事典16・富山県』(人文社)1997年(平成9)
・「植物の世界・10」(朝日新聞社)
・「白馬岳」自然観察シリーズ(1)信州大学教養部自然保護研究
室編集(北原技術事務所)1983年(昭和58)
・『信州山岳百科・1』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『信州の伝説』(日本の伝説3)浅川欽一ほか(角川書店)1976
年(昭和51)
・『信州百名山』清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『続・植物と神話』近藤米吉編著(雪華社)1976年(昭和51)
・「世界の植物・9」(朝日新聞社)
・『日本山岳風土記・1』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・『日本の野草』(山と渓谷社)1983年(昭和58)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成
6)
・『牧野新日本植物図鑑』牧野富太郎(北隆館)1974年(昭和49)
・『山の伝説』日本アルプス編(青木純二)(丁未出版)1930年(昭
和5)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)
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