【本文】
▼【筑波山】
毎日とはいきませんがトレーニングに、近くの神社の階段を上り
下りしています。神社の欄干から西南に富士山、北北東に筑波山が
望めます。ストレッチをしながらいまごろはどちらの山も賑やかだ
ろうなと思いながら眺めます。筑波山は「西に富士がね、東に筑波」
と江戸の人々に親しまれた山であります。筑波山は水郷筑波国定
公園に属しています。
▼【神の戦い】
そもそも筑波山は富士山に対し、なにかと競争意識をもっていた
ようです。民俗学の柳田國男博士も著書「日本の伝説」(神いくさ)
のなかで「常陸の筑波山が、低いけれども富士よりよい山だといっ
てそのいわれを語り伝えておりました。
…(筑波山はいまのように繁栄しているのは、親神を邪険にした
富士の神に対し、筑波の神は丁重にもてなしたからである)…。こ
れは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人が、伝えていた昔
話」と書いています。
この話のもとは奈良時代の養老年間717〜724年成立の『常陸国
風土記』という本にある話です。その筑波の郡の条に、こんなこ
とが出ています。「古老がいうことには……、昔、祖(みおや)の
神尊(かみのみこと・母神)が多くの(御子)神たちのところをお
巡りになって、駿河の国の富慈(ふじ・富士)岳(やま)にお着き
になり、一夜の宿をと頼みました。しかし、富士の神は新嘗祭(に
いなめさい・神に新穀をお供えして感謝するまつり)で忙しいから
と、一夜の宿を断りました。…→
…→神祖尊(みおやのみこと)は、なげき恨んで「この山は生涯
冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もな
くしてしまおう」といい、今度は常陸の筑波山に行き、宿を乞うた。
筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉りました。
喜んだ祖の神尊(母神)は、晴ればれと歓んでお歌いになった。…→
…→愛乎我胤(いとしいわがこよ) 巍哉神宮(たかいかみのみ
やよ) 天地竝斉(あめつちとともに) 日月共同(ひつきととも
に) 人民集賀(ひとらつどいよろこび) 飲食富豊(たべものゆ
たかに) 代々無絶(よよたえず) 日日弥栄(ひましにさかえ)
千秋万歳(とこしえに) 遊楽不窮(あそびきわまらじ)…→
…→このことがあって福慈の岳は、いつも雪が降っていて人々は
登ることができない。この筑波岳は、人々が往きつどい、歌い舞い
飲んだり食べたり、今にいたるまで絶えないのである」とあるのが
元の話だそうです。これは有名な話になっているようですが、それ
にしても難しい言葉ですね。
▼【山名由来】
筑波山の「ツクバ」の名は、古代の人たちが関東平野の尽き果て
るところにそびえるこの山を「尽端」と呼んだことがはじまりだと
いうせつもあります。「尽端」で「ツクバ」と読むそうです。また
昔、天地ができるはじめ、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、
筑波山に降りてきて琴をつま弾いたといいます。
するとその音に感じて、ひとりでに海の波が山のふもとまで押し
寄せてきたといいます(これ津波じゃないの?)。その時、海水が
地面の凹んだところに残り、霞ヶ浦ができたのだそうです。波のつ
く山というので、筑波山という名になったという説もあります。
また先の『常陸国風土記』によれば、「筑波の県(あがた)は、
久しい以前には紀(き)の国といっていた。美万貴(みまき)天
皇(崇神(すじん)天皇のこと)の治世に、采女臣(うねめのおみ)
の友属(ともがら・属類)の、筑?命(つくはのみこと)を紀の国
の国造(くにのみやっこ)に遣わされた」とあります。
そして、この時筑?命(つくはのみこと)は、『私自身の名前を
国名につけて後の世までいい伝えさせるようにしたいものだ』とい
って、ただちにもとの名称(紀の国)を改めさせて、こんどは筑波
と称した」との記述もあります。
また、風俗(くにぶり)の説(ことわざ)で、「握飯筑波の国」
というともいうそうです(『同風土記』)。これは山の形が握り飯に
似ていて、それを食べる時に、飯が手をつくので「筑波」といった
ことにちなんでいるといいます。
▼【異名】
筑波山は、朝は藍色、昼は緑色、夕は紫色と時間によって山肌
を変えるといわれています。江戸時代、結城(同県結城市)に滞
在した与謝蕪村が、「ゆく春やむらさきけむる筑波山」とも詠んで
います。そんなところから、紫色は筑波山の代名詞になっていて、
紫の峰という異名もあるそうです。
頂上からは、関東平野が一望。東に太平洋、西に富士山、南に
霞ヶ浦、北に日光、那須の連山など気のままです。植物もホシザ
キユキノシタや、ツクバウグイスカグラなど珍しいものが見られま
す。
▼【祭神】筑波神社
筑波山は、ご存じのように男体山(西峰)と女体山(東峰)の
双耳峰です。双方とも、ふもとの筑波山神社(祭神:伊弉諾尊(い
ざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の奥の院になっ
ています。当然のことながら、男体山頂には男神の伊弉諾尊(筑
波男大神・つくばおのおおかみ)、女体山には女神の伊弉冉尊(筑
波女大神・つくばめのおおかみ)をまつっています。
▼【ガマの油売り】
筑波山といえば有名なのがガマの油売り。酒に酔ったガマの油売
りが、少し深く切りすぎてしまい、売り物のガマの油を多量に塗り
つけますが、血が止まりません。そこであわてて傷薬を売りに来た
のも忘れ、集まっている客に向かって、傷薬を持っている者はいな
いかたずねる「ガマの油」の落語もあります。
名物の「ガマの石」は、山頂の御幸ヶ原(みゆきがはら)の中
ほどにあり、大口を開けているようなガマの形の自然石で、立身
出世、商売繁盛にご利益があるそうです(『全国神社仏閣御利益小
事典』)。毎年8月1、2日には筑波山神社で奇祭ガマ祭りも行われて
います。
▼【詩歌】
この山は姿が美しいため、『万葉集』をはじめとして、多くの歌
書に詠われています。なかでも『小倉百人一首』の「筑波禰(ね)
の峰より落つる男女川(みなのがわ)恋ぞ積もりて淵となりぬる
陽成院(ようぜいいん)」が有名なところというのは有名ですよ
ね。
筑波山はまた、山岳信仰の聖地でもあります。奈良期の花卉双
蝶八鏡(そうちょうはっきょう)と、7世紀から12世紀にかけての
土師器、須恵器、陶器類が数多く発見されているほどだと、物の
本にありました。
▼【開山】
奈良時代の782年(延暦元)、徳一上人というお坊さんが、ここ
に筑波山寺を開きました。その後、真言宗知足院中禅寺となり、
神仏習合の筑波大権現として栄えました。しかし、明治維新後の
廃仏棄釈で、知足院はこわされてしまいました。その跡地に筑波
山神社を再興していまに至っています。ここは坂東三十三ヶ所観
音霊場の第25番札所にもなっています。
▼【紛争】
また、1864年(元治1)、水戸藩士天狗党の藤田小四郎一派が、
攘夷の急先鋒となってこの山に立て籠もり、幕府軍と一戦をまじえ
た「筑波の天狗騒ぎ」も知られるところです。さらに筑波郡筑波町
と真壁郡紫尾村との山頂境界争いも起きています。
これは明治以来つづいてきた紛争です。結局は、1982年(昭和5
7)東京高等裁判所の判決で、筑波町(1988年1月31日につくば
市に編入し消滅)が勝訴したという事件もありました。
▼【徳一上人】
お話変わって、筑波山を開いた徳一上人の話です。徳一上人は奈
良東大寺のお坊さん。筑波山を開山したのは奈良時代の延暦元年
(782)のことだといいます。いまこの山にある筑波神社の前身、
知足院中禅寺はこの上人が開いたお寺です。筑波山と号します。中
禅寺は神仏習合の寺であり、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説に基
づいて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこ
と)をまつりました。
徳一上人は、奈良時代の公卿・藤原仲麻呂(藤原恵美押勝・え
みのおしかつ)の第9子として生まれました。父が恵美押勝(え
みのおしかつ)の乱(764年・天平宝字8)で敗北、徳一は幼年の
ため刑を免れ4歳で出家させられました。
奈良興福寺の修円上人につき、法相宗(ほっそうしゅう)を学
び、のち奈良の大仏として有名な東大寺に入って大いに名声があ
ったという名僧。徳一が筑波を開いたのは、22歳の時であったと
いうから…延暦元年(782)(奈良時代)ころといいます。
徳一上人が最初開いたとされる会津磐梯山の恵日寺。その「恵日
寺縁起」には、鎌倉時代の『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)曰
く、として次のように書かれています。「徳一学(二)相宗于修圓(一)、
甞依(二)本宗(一)作(二)新疏(一)、難(二)破伝教大師(一)、相徒称
(レ)之一闢(二)常州筑波山(一)、…うんぬんかんぬん」(『山岳宗教
史叢書17』)。と、ちんぷんかんぷん……。
つまりこんなことが書いてあるようです。「徳一上人は、法相宗
を奈良興福寺の修円上人に学び、…常州築波山寺(筑波山寺)開き、
寺一門が栄えました。ところが徳一は、僧らのおごった暮らしを嫌
い、恵日寺へ行き、亡くなったといいます。ところが死んでも全身
が壊死せず、…徳一はいま筑波山に葬られているという…」とあり
ます。この「全身が壊死せず」の記述から、上人は筑波山に天狗に
なって帰ってきているという伝説もあります。なんでも天狗に結び
つけてしまい、申し訳ありません。
▼【歌垣行事】
一方、筑波山は、「歌垣(うたがき)神事」の場でもあります。『常
陸国風土記』に、「坂より東の諸国の男女…相携え、つらなり、飲
食をもたらし、騎にも歩にも登り、たのしみあそぶ」とあります。
歌垣とは?歌(かがい)ともいい、春と秋の2回、男女が山に集ま
って、ご馳走を食べ歌を歌い、だれとでも一夜をともにできる自由
恋愛の行事。
『万葉集』にも「あどもひて、おとめをのこのゆきつどひ、かが
ふ?歌(かがい)に、人妻に、われも交(まぐ)はん、わが妻に、
人もこと問へ」と出てきます。この日だけは、筑波の神の子として
許された神聖な神事。この風習は日本各地で行われただけでなく、
中国南部からベトナム、インドシナ半島、フィリピンやインドネシ
アではいまも行われているとか。
▼【奇岩】
それはともかく、この山には奇岩が多く、それぞれに伝説がとも
なっています。ガマ石は、名高いガマの油売りの口上の発祥地。ま
た、江戸後期の北方探検家間宮林蔵が出世を祈願した立身石など。
なかでもとくに、「弁慶の七戻り岩」は、頭上の岩が落ちそうで弁
慶も七戻りしたところとして有名です。
▼【弁慶】
ところで、この筑波山に弁慶が本当に来たのでしょうか。弁慶の
父は、紀州熊野の別当湛増(「弁しょう」とも)。母は大納言の姫君。
生まれた時から髪の毛がフサフサで、歯も大きく生えていたという。
父は「鬼子」だとして殺そうとしましたが、母からの哀願で助けら
れ、仏門に預けられますが、性格が乱暴すぎてどこへ行っても追放
される始末。
仕方なく京に出て、千本の太刀を奪う悲願を立てた弁慶、牛若丸
に出会って、おなじみの橋弁慶伝説に。牛若丸の家来になった弁慶、
牛若丸16歳の時、いっしょに奥州へ下ります。途中鏡の宿で元服
(滋賀県竜王町鏡)、いままで牛若丸とか遮那王といっていたのを
源九郎義経と名乗ります。こうして奥州平泉(岩手県平泉町)の藤
原秀衡の元へ。この記録では弁慶は筑波山に立ち寄った形跡はあり
ません。
こんどは逆のコースです。平安後期の治承4年(1180)、源頼朝
が兵をあげたこととを聞いた義経弁慶は、いざ鎌倉へ向かいます。
途中、阿津賀志山(福島県国見町の厚樫山)、安達ケ原から鬼怒川
を越えて宇都宮、武蔵国足立郡小川口(埼玉県川口市)、武蔵国国
府(東京都府中市)、相模の平塚(神奈川県平塚)、伊豆の国府(静
岡県三島市)…と目指し、駿河浮島ケ原での頼朝との涙の対面とな
ります。このような記述でも、弁慶が筑波山周辺に立ち寄った形跡
はないようです。
ところが、茨城県桜川市の楽法寺というお寺に立ち寄ったという
話があるのですからどうしましょう。義経一行がこの寺にきた時写
した「弁慶の写経」があるというのです。茨城県桜川市の雨引観音
と親しまれている雨引山楽法寺の貫主さまが、こんなことを書いて
います。
義経は、源頼朝が平氏打倒の旗をあげたのを伝え聞いて、「奥州
平泉を発足した源義経一行は、一路南下。治承4年(1180)10月、
茨城県筑波山の北の雨引山楽法寺に入りました。その時、弁慶がお
経を書き写し…。いまも弁慶の写経は大切に保存」してあるそうで
す。アララ、やはり来ているようです。これが本当とすれば、弁慶
が筑波山に登ったのは、まさにこの時かも知れませんネ。
▼【天狗伝説】
筑波山にも天狗がいることになっています。天狗の名前は筑波
法印(つくばほういん)といいます。天狗には大天狗、中天狗、小
天狗、カラス天狗、木の葉天狗、白狼(はくろう)天狗などなどが
いますが、そのあたりによくある天狗話などは、カラス天狗や小天
狗などの名もないこわっぱ天狗の話。
筑波法印は鼻の高い大天狗のなかでも名前まである大物天狗で
す。また関東でも最も古く、謡曲にも出てくる天狗で、修験者が
天狗に祈念をこめる時唱えるお経「天狗経」にも登場します。さ
らに役ノ行者(えんのぎょうじゃ)の岩橋づくりの時の天狗揃え
にも出てくるほどの超大物天狗なのです。
岩橋づくりとは、役行者が大峰山(奈良県)と、葛城山(奈良と
大阪県境)との間に、空中に岩の橋を造ろうとした計画です。筑波
山の天狗は、こんなことにまで参加していたんです。
▼【天狗小僧】
お話変わって江戸後期、下谷の長屋から寅吉という少年が天狗に
さらわれ、茨城県の岩間山(いまの愛宕山)に連れて行かれ、しば
らく天狗と一緒に生活したあと、帰ってきたという事件がありまし
た。国学者、平田篤胤(ひらたあつたね)がこの話に興味を持ち、
その寅吉から天狗の世界の様子を聞き、『仙境異聞』という本にま
とめました。
その本の中に「……岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加
波山に四十八天狗、日光には数万の天狗といふなり」の一文があり
ます。この筑波山には筑波法印という大天狗が、三十六天狗を従え
てすんでいるというのです。
筑波法印といえば、先にも書きましたが、天狗のお経、「天狗経」
に出てくる四十八狗の中でも代表的な天狗です。また役行者の天狗
揃えや、諦忍の『天狗名義考』、林羅山の『本朝神社考』など名著
に名を連ねる有名な天狗です。
しかしどんなことをした天狗かというと、その伝説がほとんどな
く、おとなしく地味な存在らしいです。それもそのはず、筑波山に
は、いつのまにか天狗が最もまもるべき五戒のひとつ「女人禁制」
が立ち消えになってしまいました。
それどころか、自由恋愛の「?歌(かがい)」の行事、はたまた
お山への登拝にも、先達がいらない登山道中などなど…。全く天狗
の出場所がありません。これでは天狗の意気もあがらないのも分か
ります。
▼【筑波神社の禰宜】
さらに明治維新の神仏分離令で、「廃仏棄釈」の暴挙に発展、山
の寺院は、軒なみ手ひどい打撃を受け、お寺や仏像、仏器、経巻の
類を焼かれるという追い打ち……。このようにして徳一創建の中禅
寺も破壊されなくなって、かわりにいまの筑波山神社がおさまって
しまいました。こんなありさまの筑波山に大天狗筑波法印のいると
ころがあるのでしょうか。
資料によると、わずかに筑波神社の老禰宜(ねぎ)の話としてこ
んな話が残っています。「徳一上人は、磐梯の恵日寺で亡くなった
ことになっていますが、実際は棺の中に亡きがらはなく、衣類だけ
が残っていた、天狗になって筑波へ戻ってきていると祖父から聞い
たことがある……」とのことです。
ある時、天狗研究者の知切光歳氏が筑波神社に話を聞きにいった
といいます。若い神職は「当山にはそんな迷信的なバケモノはすん
でおりません!。筑波法印なんて名は聞いたことがありません」と
にべもなかったといいます。筑波法印も、「迷信」のひとことでか
たづけられたというのです。
それでも光歳氏はあきらめず、筑波神社の老禰宜に面会をもとめ、
上記のような資料にあるような話を聞きだしたのです。「今どきこ
んな話をしても人に笑われるばかりですが…」と、筑波神社の禰宜
が上記のようなことを、遠慮がちにいったといいます。いま筑波山
といえば「ガマの油売り」……。完全に観光地化されてしまったこ
の筑波山に大天狗・筑波法印が住む場所はすでにないのでしょうか
……。
▼筑波山【データ】
★【所在地】
・茨城県つくば市と桜川市(旧真壁郡真壁町)との境。つくばエ
クスプレスでつくば駅からバス、筑波山神社入口、ケーブルカーで
筑波山頂駅、男体山(西峰871m)まで15分、女体山(東峰最高
点877m・1等三角点のある所876m)まで15分。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・女体山877m:北緯36度13分31.36秒、東経140度6分24.95秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「筑波(水戸)」
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典8・茨城県』竹内理三(角川書店)1991年
(平成3)
・『義経記』(日本古典文学大系37)岡見政雄校注(岩波書店)195
9年(昭和34)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮一民(新
潮社版)2005年(平成17)
・『山岳宗教史研究叢書8・日光山と関東の修験道』宮田登・宮本
袈裟雄(みやもとけさお)編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『仙境異聞・勝五郎再生記聞』平田篤胤著・子安宣邦校注(岩波
書店)2018年(平成30)
・『全国神社仏閣御利益小事典』現代神仏研究会編(燃焼社)1993
年(平成5)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀(二)』校注・坂本太郎ほか(岩波書店)1996年(平
成8)
・『日本大百科全書・15』(小学館)1987年(昭和62)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本伝説集』高木敏雄(ちくま学芸文庫・筑摩書房)2010年(平成22)
・『日本歴史地名大系8・茨城県の地名』(平凡社)1988年(昭和63)
・『常陸国風土記』:(『風土記』(東洋文庫145)吉野裕訳(平凡社)1988年(昭和63)
・『平治物語』(日本文学全集7平家物語他)井伏鱒二訳(河出書房新社)1960年(昭和35)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年(平成16)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)
・『両神山・風土と登山案内』飯野頼治著(実業之日本社)1975年(昭和50)
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