山旅通信【ひとり展ッ展】とよだ 時
【伝承と神話の百名山】

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▼1143-(百伝043)浅間山
}「大噴火と地下生活33年」

▼【本文】

▼【浅間山】
 浅間山(あさまやま)といえば、
いまでも噴煙上げる、世界でも有
数の活火山として知られます。長
野県佐久郡軽井沢町と群馬県吾妻
郡嬬恋村(つまごいむら)との境
にあり、標高2560m。別名せん
げんやま。

 ここの「鬼押し出し」の奇勝は
有名で観光地になっています。こ
の山は、成層火山(黒斑山・前掛
山・釜山)、楯状火山(仏岩)、
溶岩円頂丘(石尊山・小浅間)な
どの総称です。

▼【山名】
 山名の「アサ」はアイヌ語で噴
火の意味だとか。また浅間は「せ
んげん」で、富士山も昔は浅間山
といい、当然、ここも富士山にち
なんだ山です。この山の南ろくの
軽井沢町追分地区にも浅間神社
(里宮)があり、大山祇(おおや
まづみ)の神(富士山にまつられ
ている木花開耶姫の父親)と、磐
長姫(いわながひめ・開耶姫のお
姉さん)がまつられています。

▼【古典文学】
 浅間山は大昔から、都にも聞こ
えるほど有名な山で、古典文学の
『伊勢物語』(平安時代初期)の
第八段には「昔、男ありけり。京
や住み憂(う)かりけん、あづま
のかたにゆきて、住み処(か)求
むとて、……信濃なる浅間の岳に
立つ煙、をちこち人の見やはとが
めぬ」とあります。

 また、『古今和歌集』(平安時代
前期・醍醐天皇が命じた日本初の
勅撰和歌集)の巻第十九(1050)
にも、「雲はれぬ浅間の山のさま
しや人の心を見てこそやまめ」(平
中興・たいらのなかき)との記述
もあります。

▼【詩歌】
 また、平安時代後期の公卿(く
ぎょう・太政官の高官)である、
藤原宗忠(ふじわらのむねただ)
の日記『中右記』(ちゅうゆうき)
には、「国中有高山称麻間峰」と
あり、「麻間」、「朝間」と書かれ
ています。

 さらに『新古今和歌集』(新古
今集とも・鎌倉時代初期)(巻九)
に、在原業平(ありわらのなりひ
ら・平安時代前期の貴族・歌人)
の作として、「信濃なる浅間の岳
に立つ煙をちこち人の見やはとが
めぬ」などと出てきます。江戸中
期の1760年(宝暦10)6月、文
人画家の池大雅も沓掛から登って
写生し、詩文も創っています。

▼【噴火】
 この山の噴火の記録は『日本書
紀』の時代までさかのぼるといい
ます。『日本書紀』巻第二十九の
天武天皇14年3月の条に「是
(こ)の月に、灰(はひ)、信濃
国に零(ふ)れり。草木皆枯れぬ」
とあるのがその最初だといいま
す。天武天皇14年といえば西暦
685年のいまの暦でいえば4月頃
に当たるそうです。

 有史以後の2大噴火は1281年
(弘安4)と1783年(天明3)
におき、ともにまれにみる大爆発
です。以来1900年(明治33)ま
で記録に見える噴火だけでも44
回にもなるというからかなりな暴
れ山。

 なかでも1783年(天明3・江
戸時代後期)の噴火は、有史以来
の大爆発でした。5月の9日の噴
煙で、灰が降ったのにはじまり、
8月5日までの88日間も活動が
つづきました。最後には有名な「鬼
押し出し」(延長5250m、厚さ50
〜60m)が噴き出しました。

 この時の爆発で火山灰が空中に
ただよい、気象異変がおこり「天
明の大凶作」になりました。8月
5日、最初の熱泥流は北方の上州
方面に押し出し、利根川に流入、
沿岸23ヶ村を押し流し、家約
1300戸(流出1061戸、焼失51
戸、倒壊100余戸)馬約500頭を
一瞬のうちに葬りました。

 熱泥流は鎌原(かんばら)村(い
まの嬬恋村鎌原区)を襲い、全村
が埋没し、人口597人のうち、466
人が死亡したという大惨事。大笹
村の無量院の住職の手記とされる
「浅間大変覚書」という文書には、
「時々山の根頻りにひつしほひつ
しほと鳴り、わちわちと言より、
黒煙一さんに鎌原の方へ……」と、
熱泥流が鎌原(かんばら・いまの
嬬恋村鎌原区)村へ押し寄せてい
ったと記しています。

▼【観音堂の階段】
 この時、小高いところにある観
音堂に逃げたものは助かったと伝
えられています。観音堂の石段が
いま15段ありますが、地下には
まだ100段が埋まっているといい
ます。いま地上に出ている15段
まで逃げた人が助かったところか
ら「生死を分かつ15段」といわ
れています。

 1979年(昭和54)になり、村
の一部を発掘、当時の生活用具な
どを調査したことがあります。こ
の時、観音堂の15段から下を掘
り下げましたが、上から50段め
あたりで折り重なっている40歳
くらいと60歳くらいの女性の遺
体が発見されました。あと30段
ちょっとを登れば助かったので
す。この爆発は「天明の浅間焼け」
と呼ばれました。

▼【不思議な話】
 これにはちょっと不思議な話が
あります。江戸江戸時代後期の文
人で狂歌師、太田南畝(なんぽ・
大田蜀山人)の『半日閑話』巻十
五「信州浅間嶽下奇談」に、文化12
(1815)年9月ころ聞いた話とし
て、おおよそこんなことが載って
います。

 「夏のころ、信州浅間ヶ嶽辺り
の農家で井戸を掘った。2丈余(約
6.5m)も掘ったけれど、水は出
ず瓦が2、3枚出てきた。こんな
深い所から瓦が出る筈はないと思
いながら、なお掘ると屋根が出て
きた。その屋根を崩してみると、
奥の居間は暗くて何も見えない。

 しかし洞穴のような中に、人が
いる様子なので、松明をもってき
てよく見ると、年の頃5、60歳の
2人の人がいた。このため、2人
に問いかけると彼らが言うには、
「幾年前だったか分からないが、
「浅間焼け」の時、土蔵の中へ移
ったが、6人一緒に山崩れに遭い、
埋もれてしまった。

 4人の者はそれぞれの方向へ横
穴を掘ったが、ついに出られず死
んでしまった。私共2人は、蔵に
あった米3000俵、酒3000樽を飲
み食いし、天命を全うしようと考
えていたが、今日、こうして再会
できたのは生涯の大きな慶びで
す」と。

 農夫は、噴火の年から数えてみ
ると、33年を経過している。そ
こで、その頃の人を呼んで、逢わ
せてやると、久しぶりに、何屋の
誰が蘇生したと言うことになっ
た。

 早速、代官所に連絡し、2人を
引き上げようとしたが、長年地下
で暮らしていたため、急に地上へ
上げると、風に当たり死んでしま
うかも知れないといいう。

 だんだんに天を見せ、そろそろ
と引き上げるため、穴を大きくし、
食物を与えた。2人は以前、よほ
どの資産家だったらしい。」とあ
ります。これは本当なら33年間
も地中で暮らしていたということ
になります。

▼【自然を守ろう】
 こんな話もあります。世界大戦
後の1953年(昭和28)、アメリ
カの駐留軍が、軽井沢に浅間山の
演習地使用を申し込んできまし
た。それを聞いて、「ふるさとの
自然を守ろう」と猛烈な反対運動
が起きました。反対運動は、地元
から長野県全体に広がっていきま
した。

 6月7日には県民大会が開催さ
れ、参加者が5000人を超し、会
場は人々の熱気にあふれたといい
ます。この話は、「日米地震専門
家会議」に移され、検討の結果、
地震研究に支障があるということ
になりました。

 そしてついに、日米合同委員会
で取り上げられ、ついに演習地使
用は取り消されることに決まりま
した。こうした基地化、演習地化
の反対運動が成功した例は、ほか
にないということです。

▼【鬼の伝説】
 この山にもいろいろな伝説があ
ります。浅間山の鬼と、富士山の
鬼(デーランボーともいう)が「山
造り」の競争をしました。富士山
の鬼が、まだできていないのにド
ラを叩いて「完成!」と大声でい
いました。

 浅間山の鬼は、それを聞いて「負
けたか、やれやれ」といって、モ
ッコを放り出してしまいました。
そのため、浅間山は富士山より低
いのだとか、浅間山は、くやしが
っていまでも煙を出しているとい
うのです。浅間山の鬼が、放りだ
したモッコでできた山を小浅間と
いい、「ひともっこ山」と呼ぶそ
うです。

 また別の話で、ある時鬼が浅間
山を造っていたのですが、その途
中で夜明けが近いのか、鶏の声が
しだしました。あわてた鬼は、山
を造るために用意していた土を置
いて逃げていきました。その土で
できた山が小浅間なのだというこ
とです。

▼【ふたりの姫神の伝説】
 まだあります。昔ある晩、天地
が鳴動して、甲斐(山梨県)と駿
河(静岡県)の境が、大きく盛り
上がりました。富士山ができたの
です。人々は仰天しました。とこ
ろが、その代わりに滋賀県内の土
地がへこんで琵琶湖ができたので
す。

 それと同時に、長野県内の土地
がへこみはじめていました。それ
と連動して長野県と群馬県の境
が、盛り上がって浅間山が出現し
ました。このように、ふたつの山
とふたつの湖が一ぺんにできたの
で、八百万の神々もびっくり。神
々は、高天原に集まって、どうし
たものかと話し合いをしました。

 すると伊勢の国の大山祇の神が
いいました。「このふたつの山は
私が造りました。この山に、私の
娘の磐長姫(いわながひめ)と、
木花開耶姫(このはなさくやひめ)
を住まわせたいと思います。神々
様どうぞよろしくお願いします」
といいました。そして改めて、「造
化三神」の一柱である天御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)のお
許しを願いました。

 こうして富士山に姉神の磐長姫
(いわながひめ)が住み、浅間山
には妹神の木花開耶姫(このはな
さくやひめ)が住むことになりま
した。このふたりの姫神は大変長
生きをしました。

 しかし、長い年月が過ぎ、やが
て富士山に住む姉神の磐長姫が亡
くなる時が来ました。浅間山の妹
神である木花開耶姫は大変悲し
み、時々亡くなった姉神を思い出
して深いため息をつきました。そ
れが浅間山の噴煙となって立ちの
ぼるのだということです。


▼浅間山【データ】
★【所在地】
・群馬県吾妻郡嬬恋村(つまごい
むら)と長野県北佐久郡軽井沢町
・御代田町(みよたまち)の境。
★【位置】(電子国土ポータル)
・二等三角点2568m:北緯36度
24分23.57秒、東経138度31分
22.69秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図:浅間山
(長野6-4)

▼【参考文献】1143号(浅間山)
・『角川日本地名大辞典10・群馬
県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『角川日本地名大辞典20・長野
県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『信州山岳百科3』(信濃毎日新
聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナ
カニシヤ出版)2005年(平成17)
・『遠山奇談』(後編巻之四)「第
二十三章 あさま山の血の池四月
八日の事」(浄林坊辨惠著)筆名
華誘居士(浄林坊)(カユウ(ジ
ョウリンボウ))著:『日本庶民生
活史料集成第16巻(奇談・紀聞)』
谷川健一(山一書房)1989年(昭
和64・平成1)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石
利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編
(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか
(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4):
岩波文庫『日本書紀』(5)(校
注・坂本太郎ほか)(岩波書店)
1995年(平成7)
・『日本大百科全書1』(小学館)
1984年(昭和59)
・『日本歴史地名大系10・群馬県
の地名』尾崎喜左雄ほか(平凡社)
1987年(昭和62)
・『日本歴史地名大系20・長野県
の地名』(平凡社)1979年(昭和54)
・『半日閑話』太田南畝(なんぽ
・大田蜀山人・江戸時代の文人、
狂歌師であり、御家人)巻十五「信
州浅間嶽下奇談」:@『半日閑話』
大田南畝 (『大田南畝全集』 第
十一巻) (岩波書店)1988年(昭
和63)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ち
はや)(河出書房新社)2004年(平
成16)
・『耳嚢・耳袋』(根岸鎮衛(やす
もり)著)1814(文化11年)巻
之一〜巻之十:(『日本庶民生活史
料集成・16』鈴木棠三ほか編(三
一書房)1989年(昭和64・平成
1)

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