山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1141号(百伝41)草津白根山「日本武尊とサトイモの葉」

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▼【本文】

▼【草津白根山】
 草津白根山は、草津にあるのでほかの白根山と区別するため草
津白根となっています。ここの白根は、雪が積もっていなくても、
爆発のあとや火山灰、火山礫などで白雪のように輝いて見えるので
その名があります。ちなみに草津白根のクサツは、石油の古語「く
さうづ(くそうず)」(くさみづ・臭水)から生まれた地名だといい
ます。

 この山はいまも活動を続けている活火山の白根山(2160m)と、
古い活火山である本白根山(もとしらねさん・古白根)(2171m)
がならんでいて、そのすぐ南に三角点のある2165mのピークがあ
ります。また白根山のすぐ北にも2138mのピークがあり、登って
みてもどれが白根山・本白根山の頂なのかはっきりしない山です。

 白根と本白根の間には逢ノ峰(あいのみね・頂上には巨岩がある)
もあって、これらの峰々の総称が草津白根山なのだそうです。東山
麓には草津温泉があって、西の山腹には万座温泉、そして北は横岳
から志賀高原へと続く地形です。

 さて白根山と本白根山は様子が全く違います。いまも活動する白
根山は荒涼としていて、潅木や草花もほとんど見られません。一方、
本白根山の頂上付近にはコマクサの群落があり、秋には紅葉も見事。
本白根山頂の鏡池(かがみけ)では珍しい環状構造土も見られます。

 白根山山頂東面には直径1キロもの巨大な爆裂火口があり、その
火口低には大小3つの火口湖があります。北東から南西にほぼ一直
線にならんでいて、水釜(みずがま・直径200m)、湯釜(ゆがま
・250m)、涸釜(からがま・150m)と呼ばれています。

 真ん中でエメラルドグリーンの水をたたえる湯釜は、ほぼ円形で
長径約300m、短径約250m、水深30m。水面には硫黄の泡を浮
かべ、湖底から温泉が湧き出し、世界で最も強い酸性湖(pH1.1)
なのだそうです。

 東岸にはいまも活動を続ける噴火口があり、小噴煙を上げていま
す。湯釜西北部火口壁の厚さ70センチほどの硫黄層の最下部から
は、1955年(昭和30)ころに「笹塔婆」(お経を記した板片の小塔)24
片が出土したそうです。これは平安末期から鎌倉期のものだといい
ます。

 またここの火山の火山活動には、静穏期と活動期があり、南の浅
間山の静穏期と活動期の時期が、逆になって活動するといわれてい
ます。地下で何か天秤のようなものでもあるのでしょうか。不思議
なことです。

▼【硫黄採掘】
 また草津白根山は最近まで硫黄の生産地で知られていました。山
頂の湯釜、浸食谷の入道沢(地図によってはいまでも鉱山跡の文字
が記載されている)ところで、かつては殺生河原などで採掘されて
いたといいます。

 そんなところですから、江戸中期から幕末にかけては採掘権をめ
ぐって、地元の草津温泉と採掘業者との間で確執が続きました。硫
黄は「付け木」や火薬の原料として多くの需要があり、業者が幕府
に採掘許可を願い出ました。

【▼採掘反対運動】
 しかし、草津村では温泉事業にマイナスになると、反対運動が起
こりました。明和2年(1765)になり、江戸と信州の業者に幕府か
ら採掘許可が下りましたが、反対運動は続きました。10年後の寛
政6年(1794)、山ろく29ヶ村が、硫黄採掘は神の怒りに触れるも
ので、天変地異の根源だと訴え出るほどだったといいます。

 その後、暴落とか横流しなど、硫黄をめぐっていろいろな事件が
起こりましたが、次第に地元民の態度も変わり、天保6年(1835)
には、草津村名主の平兵衛も硫黄採掘の稼働に加わったということ
です。

 幕末になると、火薬需要が急増し、白根・万座はにぎやかになり、
異常なほどの景気のよさだったらしい。天保9年(1838)に草津を
訪れた朱子学者安積艮斎(あさかごんさい)という人は、その著書
『登白根山』で硫黄採掘の様子を記しているということです。

 採掘される硫黄は、品質が良品だったらしく、安政年間(1855
年〜1860年)に、中居村(いまの嬬恋村)出身の中居屋重兵衛が
著した、『砲薬新書』という本には、「上州白根山ヨリ出ルヲ最上品
トス」とまで記載しています。

 しかし第二次世界大戦後、石油から硫黄を取れるようになり、次
第に硫黄採掘は衰退していきます。その結果、山腹の万座・草津・
吾妻などの各鉱山も、次々に閉山ということになりました。

▼【白根神社】
 さて草津町草津にはその名も白根神社という神社があります。祭
る神は日本武尊(やまとたけるのみこと)です。創立年代は不詳な
がら、明治6(1873)年に白根山の頂上からいまの場所に遷座して、
社殿を建立したといいます。この白根神社はもともとは、本白根(古
白根)山を真西に仰ぐ地にあり、山頂の奥宮(本宮)に対する里宮
(拝殿)であったのだろうとのこと。

 白根神社がかつて鎮座していた所には、いまも修験者の祈祷壇と
いわれる四角い土壇があります。修験者たちは、本白根山(古白根)
中腹の冨貴原(ふきはら)池で禊(みそ)ぎを行い、身体の穢(け
が)れを除いてから山頂の霊場に入ったらしいのです。

 やがて白根山が火山活動が活発になりはじめるとともに、修行・
信仰の中心が本白根から白根山へ移っていきました。そして修験者
たちは、白根山への登山途中にある「武具脱池(ものぬぎいけ)」
で身を祓(はら)い清めたとされます。

▼【武具脱池】
 ちなみに、この武具脱池(ものぬぎいけ)の名前の由来は木曽義
仲に関係があるといいます。義仲は「天下取り」を成し遂げて、「旭
将軍」の異名をとったものの60日間で、源頼朝が率いる鎌倉勢に
京都の宇治川で敗れたあと、滋賀方面に逃げる途中、池のように深
くなった田んぼで、馬の足を取られて、三浦の石田次郎為久の矢に
あたり、討死したということになっています(『平家物語』)。

 しかし伝説では、追討から逃れて安住の地を求め、長野・群馬の
県境にある渋峠から、上州吾妻郡(ごおり)に入ったことになって
います。そして途中の池から草津方面を望んでから道を転じ、入山
の地に隠れる決心をしました。ここで「武具を脱ぎ捨て」入山に向
かい、そこに土着したといいます。武具脱池の名はその伝説にちな
んでいるそうです。

▼【白根神社の伝説】
 白根神社(白根明神)にはこんな伝説もあります。その昔、日本
武尊(やまとたけるのみこと)が東征の時、三原郷(嬬恋村)にや
ってきて、畑のあぜみちに落ちていたサトイモの葉で足を滑らせま
した。そして転んだ拍子にゴマの枝葉で目をついてしまいました。
あわてた日本武尊は草津の湯で湯治、その効果があったのか、やが
て全快したといいます。

 このことがあって以後、白根神社(明神)を氏神とする郷村の農
民は、サトイモとゴマは作らないようになったということです。も
しこっそりとサトイモやゴマを作ろうものなら、必ず目を患うこと
になるとの言いつたえが残っています。

 昭和45(1970)年、白根山と本白根山の間を草津志賀高原ルー
トのハイウェイが開通し、山頂近くまでクルマが登れるようになり
ます。ハイウェイの白根火山バスターミナルのすぐ南側には、弓池
と呼ばれる火山湖があり、澄んだ水をたたえてたたえています。

 白根山は2014年(平成26)6月、気象庁は草津白根山を噴火警戒
レベル2(火口周辺規制)に引き上げました。これにより現在湯釜
火口から1km以内の入山が規制、入り禁止になっています。


▼草津白根岳【データ】
★【所在地】
草津白根火山は群馬県草津町にあるが、現在も活動中の白根山(2160
m)と、その南の旧火山最高点2171mの本(もと)白根山(草津
白根山)の総称としてある。JR吾妻線長野原草津口駅の北西16
キロ。JR長野原草津口駅からバス、白根火山バス停下車、さら
に歩いて2時間30分で探勝歩道最高地点。現在湯釜火口から1km
以内の入山が規制で立ち入り禁止。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・探勝歩道最高地点:北緯36度37分13.75秒、東経138度31分
50.34秒

★【地図】
・2万5千分1地形図:上野草津

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『信州山岳百科・3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『上州の伝説』(日本の伝説27)都丸十九一ほか(角川書店)1978
年(昭和53)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本歴史地名大系10・群馬県の地名』尾崎喜左雄ほか(平凡社)
1987年(昭和62)
・『平家物語』(日本文学全集7)「保元物語、平治物語、平家物語」
井伏鱒二訳(河出書房新社)1960年(昭和35)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)

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 (主に画文著作で活動)
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