山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1139号-(百伝039)武尊山「ホタカ大明神と花咲石」

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【本文】

 上州武尊山(ほたかやま)は、その名のように上州(群馬県)
にあり、最高峰の武尊山(沖武尊)、剣ヶ峰(西武尊)、中ノ岳、
家ノ串(くし)山、前武尊などの山々が連なっています。もともと
この山には、その地方の地主神であり、山そのものを神とする「ホ
タカ大明神」をまつっていたのだそうです。この神さまは、北ア
ルプスの奥穂高岳と同じ、穂高見命(ほたかみのみこと)のこと
だといいます。

▼【武尊神社】
 さて武尊山の山ろくには武尊神社が点在しています。この祭神
は、日本武尊(『日本書紀』の表記)(やまとたけるのみこと)だ
といいます。同県みなかみ町藤原の字(あざ)宝台樹(ほうだい
ぎ)地区にある武尊神社は、その中でも最も古い神社です。

 その由緒にこんな話があります。平安時代の貞観(じょうがん)
のころ、ここは「保宝鷹(ママ)(ほほたか)神社」と称し、平安時
代の歴史書『三代実録』という文書には、「貞観5年(863)正
六位保宝鷹(ママ)神社従五位下に、『上野神名帖』には、従一位の
社に叙(じょ)せ被(こうむ)れる」とあります。

 また『類従国史上野神台帖』に、『利根郡従一位保宝鷹神社』、
さらに「大日本史神祇(じんぎ)部国帖」に宝高(ほたか)神社
は利根郡にありとあるは本社なり」などとあり、やたら格式の高
さをならべています。どうやらこの世界は格式第一のようです。

 ま、それはともかく、武尊神社は古くは「保宝鷹神社」あるい
は「宝高神社」。この宝高、穂高、保鷹はいずれも「ホタカ」です。
ホタカは峰(ほ)(穂の意味)高(たか)で、穂は山の上のピーク
を表す言葉です。それに「武尊」の字を当てたのは明治になって
からといいます。

 一説に江戸時代の寛文(かんぶん)年間(1661〜1673)上田沼
田藩真田家の藩医鈴木法橋という人が、『古事記』や『日本書紀』
に出てくる日本武尊に感動。ホタカを武尊にしたともいいます。
いずれにせよ、ホタカの山名がまずあったわけですネ。

 江戸時代になると修験行者たちが、神話に出てくる日本武尊の
「焼津(やいづ・いまの静岡県焼津)の野火の話」から不動明王
を好んでまつることになったといいます。なるほど不、動明王は
火焔を背負って右手に剣を持っています。

 「焼津の野火の話」とは、日本武尊が賊の策略にあい、野火に
囲まれ殺されそうになりましたが、天叢雲剣(あめのむらくもの
つるぎ)でまわりの草をなぎ払い、向かい火を焚いて難を逃れた
という物語。その剣はのち、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ば
れるようになりました。

▼【神仏分離令】
 さて明治維新になり、政府から「神仏分離令」が通達され、修
験道は廃止ということになりました。さあ大変、いままで武尊山
でほたか神として、不動明王をまつっていた行者たちは、神仏分
離令を笠に着て「廃仏棄釈」を叫び、あばれまわる暴徒に会わな
いよう、早々に世俗にかえります。

 そして行者たちは、こんどは同じほたかの神として、武尊神(日
本武尊)をまつるようになります。神をまつるなら、暴徒も襲っ
てきません。それが神名になり、山の名として定着したのではな
いかといういう説もあります。

 この山は、神仏分離令の発布以前には、木曾の御嶽教(おんた
けきょう)の山でもありました。沼田藩の記録である『沼田記』
には、江戸後期の寛政年間(1789〜1801)に、江戸八丁堀の行者
が入山し、はじめて山頂までの登山路を開いた記録あります。そ
の行者とは、木曽御嶽山王滝口を開いた普寛(ふかん)行者のこ
とです。

 沖武尊(おきほたか)山頂には「御岳山大神」の石碑が建ち、
南東の剣ヶ峰には「普寛霊神」の石碑もあります。これは修行を
積んだ行者が死後霊神を名のり、山中に碑を建てる「御嶽講」独特
のものだそうです。普寛が開いた武尊山への登拝路は、片品村の
花咲口からの道といわれています。

▼【普寛行者】
 普寛行者は江戸中期の享保(きょうほう)16年(1731)、
埼玉県大滝村生まれ。江戸で修験道を修得、故郷の三峰山で天台
密教の奥義を極め、武甲山、越後八海山などを開山、全国の山々
を遍歴、木曽御岳王滝口を開いた修験者です。前武尊の頂上にあ
る日本武尊の銅像は、幕末の嘉永(かえい)2年(1849)、普
寛講の人々によって下野国佐野(現栃木県佐野市)で鋳造された
もの。また、沖武尊の山頂に近い川場武尊と呼ばれる岩場に建つ
日本武尊像は明治23(1890)年に建立されたものという。

 明治になって修験道は廃されたものの、人の心は簡単に操作で
きません。武尊山への入峰(にゅうぶ)は、現在も山ろくの月夜
野(つきよの)町下津(しもづ)(現群馬県利根郡みなかみ町下津)
にある天台寺院三重院(さんじゅういん)を中心に、大峰山にな
らった十界修行による入峰が行われているといいます。

 こうして修験道の道場になった武尊山。天狗ばなしのひとつや
ふたつ、ないわけがありません。前武尊は不動ヶ峰と花咲方面へ
の分岐で、2039.1mの三角点のある所。その近く、クマザサの中
に大天狗、小天狗の祠があり、花咲方面を向いています。南東に
伸びる尾根を天狗尾根といい、途中のピークには天狗岩もありま
す。

 明治になって修験道は廃されたものの、武尊山への入峰は、現
在も山ろくの月夜野(つきよの)町下津(しもづ)(現群馬県利根
郡みなかみ町下津)にある天台寺院三重院(さんじゅういん)を
中心に、大峰山にならった十界修行による入峰が行われていると
いうことです。

▼【悪勢(をせ)伝説】
 さて、ここにはこんな伝説もあります。昔、武尊山に悪勢(お
せ・あくずい)という悪者が住みつき、邪悪な鬼たちを集めて、
通力で大雪を降らして万民を悩ましていました。それを聞いた日
本武尊が討伐に出向き、賊に向かって&127;神火を掲げました。

 すると、湯の花の島より神風が吹きはじめ、火の雨が虚空に吹
きかかると、悪勢は通力を失って悪者どもの城郭がたちまちに焼
け落ちました。生き残った悪者たちもクモの子を散らすように四
方へ逃げ去りました。

 悪勢の夫人も片品村の土出という所に逃げようと、山を下りま
した。しかし難所に行き悩み、大田村で亡くなってしまいました。
いまここにある御前宮というのがその夫人を祭ったものだそうで
す。

 悪勢には息女もいて、「息女も武尊山の麓にて死す。属添(つき
そ)ひたりし衆、悲(しみ)のあまり共に絶え死す」のだそうで
す。「その後も悪霊なお残り、村里に疫瘍(えきよう)絶えず、疫
病なれば其石を石神と祝しければ、漸く病難消除しけり。彼の霊
を如意輪觀音とす。利根郡三十三所といふ」。

 さらに、「むらさきの煙たつ山を越えゆけば、法に逢ふ地の石に
はな咲く」(花咲石)といふ。又悪勢(をせ)、駒嶽の磐石上に馬
を立てたり。四蹄跡、尿をしたる体、今にあり。武尊大明神、利
根第一総鎮守なり」とあります。

 こんなことから、そこを花咲村と名づく」なのだそうです。(『上
野志』(上))。悪勢の娘をわざわざ「息女」と書くのは、いくら村
人に迷惑をかける悪勢でも、城郭を構え一党を束ねる長(おさ)
に敬意を払っているのでしょうか。

▼【裏見ノ滝】
 また、武尊沢にある裏見ノ滝は「怨みノ滝」の意味で、日本武
尊がこの山に陣を敷いたとき、妻が産気づき、看護の甲斐なく、つ
いに母子ともに亡くなってしまったといます。尊(みこと)はそれ
を悲しんで、裏見ノ滝で身を清めようとしたところ、滝の音が急に
大きくなり妖気がただよったのだそうです。これは妻の怨みのあら
われとみた尊は、よりあつくとむらったと伝えています。

 水上駅からバスで、宝川温泉手前の武尊橋で降りたのは5月下
旬のことでした。林道を歩くころは気候も快適で、途中スキー場
ではワラビとりに夢中になるしまつ。林道も終わりゲートを越す
ころは天気の変わり目なのかむし熱くなってきました。

 枝尾根の上でショウジョウバカマを発見。地面に広げた根生葉
から伸びた花茎の先に赤いあざやかな花がよく目立っています。
途中、ギョウジャニンニクやヤマラッキョウなどが生えて、わざ
わざ名札がつけてありました。やがて尾根にとりつき、しばらく
歩くと左手下に手小屋沢(てこやざわ)避難小屋があらわれまし
た。

▼【昔の手小屋沢避難小屋】
 避難小屋についたころはにわかに曇り、雷が鳴りはじめました。
小屋のまわりはまだ深い雪が積もっています。それでも日当たり
よい斜面には、すでに花が咲いてしまったフキノトウがたくさん
生えています。(当時はこわれていた)戸を開け、汚い小屋の中に
入ります。なにか虫でもわいていそうな感じで、背中がかゆくな
るありさま。とりあえずテントを張って中に入れば虫も来ないだ
ろうともぐり込みます。

 「ゴロゴロゴロ」。そらきた。早めに小屋についてよかった。コ
ンロでなんとか豚汁にありつき、腹ごしらえの間も雷鳴がおなか
に響いています。ここは谷間の避難小屋、まず落雷は心配ないは
ず。お腹の皮が張れば目の皮がたるみます。一晩中ゴロゴロ騒ぐ
雷鳴を聞きながらグッスリと眠らせてもらったのでありました。


▼上州武尊沖武尊【データ】
★【所在地】
・群馬県利根郡みなかみ町(旧利根郡水上町)町と群馬県利根郡
川場村との境。JR上越線水上駅からバス、久保から歩いて6時
間で沖武尊。一等三角点(2158.0m)がある。

【地図】
・2万5千分の1地形図「鎌田(日光)」or「藤原湖(日光)」(2図
葉名と重なる)。


▼【参考文献】
・『尾瀬むかしむかし1』(尾瀬の民話と伝説)(株・ナグモ)発行
年不明
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『上野志』(『上野志料集成』)樋口千代松, 今村勝一 共編(臨川
書店)1973年(昭和48)
・『古事記』(中つ巻):新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西
宮一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「旅と伝説」8巻9号通巻93号(三元社)1935年(昭和10)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀・巻第七』景行天皇:岩波文庫『日本書紀・2』坂本
太郎ほか校注(岩波書店)1996年(平成8)
・『日本伝説大系4・北関東』(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五ほか
(みずうみ書房)1986年(昭和61)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系10・群馬』(平凡社)1987年(昭和62)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)。
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)

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