山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1138-(百伝38)皇海山「山頂の剣と庚申山の怪人」

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【本文】

 栃木県足尾地方(群馬県北東部から栃木県南西部)に、皇海山(す
かいさん・標高2144m)という山があります。皇海山と書いて
「すかいさん」とは難しい。足尾山地の盟主とされ、全山がシラ
ビソの木におおわれて、鋭く角ばったの円錐形をしています。栃木
県足尾町の松木沢の源流域をなす東面は、とくに急峻で、鋭く切れ
落ちています。

▼【修験道の山】
 この山は奈良時代に開山されたとされる、庚申山(こうしんざ
ん)の奧にある山。庚申山は修験道の山として栄えた山だといいま
す。町なかでもよく道ばたで見られる庚申塔(こうしんとう)を建
てた庚申講の総本山だそうです。この庚申信仰は、とくに江戸末期
には隆盛を極めたそうです。

 その隆盛ぶりは、江戸時代末期の1865年(慶応元)には、江
戸からの庚申講に参加した人は、300万人を数えたというからすご
いことです。皇海山はその庚申山の奥の院にあたり、庚申山から剣
ヶ峰(鋸山)、皇海山の「三山駆け」の登山が行われたところ。

 ちなみに、庚申山にも別に奥の院と呼ばれるところがありますが、
この場合、庚申山というひとつの山に対しての奥の院に当たる山と
いうことらしい。いまも、その巡路だった庚申山から鋸山経由皇海
山へのコースは一般的で、私もこのコースで登りました。

 庚申山荘から庚申山、展望台を経て鋸山十一峰へ至るアップダウ
ンの登山道。私は鋸山を一望できる薬師岳にテントを張りました。
翌日、ゴチャゴチャとピークがつづくくさり場を通過、鋸山のテッ
ペンに。こんどは急下降し、不動沢のコルからやっと皇海山に取り
つきました。

 皇海山頂上で、展望できるのは開けている南側だけです。登山者
も多くはなく、樹海のなかの静かな山です。皇海山の山頂の三角
点の東側には、高さ2m以上もある青銅の剣が建っています。そ
れには「庚申二柱大神 奉納 當山開祖 木林惟一」とあり、裏
に筆字で参詣した日付けが書かれています。

▼【青銅の剣・二柱大神】
 青銅の剣にある「二柱大神」とは、神話伝説に出てくる猿田彦
(さるだひこ)神と、その妻・天鈿女命(あめのうずめのみこと)
のことか。この剣が、1919(大正8)年12月に記された小
暮里太郎の『皇海山紀行』にも出てきます。当時は朱書きだった
とありますが、いまは墨書きなので、誰かが書き直したものでし
ょうか。

 それには、「皇海山の絶頂三角点の位置から少し東に下ると、高
さ七尺(2・121m)幅五六寸(15・15センチ、18・18
センチ)と思われる黄銅製らしき釼が建ててあって、南面の中央に
庚申二柱大神と朱で大書し、其(の)下に「奉納 当山開祖 木村
惟一」と記してあり、裏には明治二十六□七月二十一日参詣□沢山
若林五十五人と楽書がしてあったのみで、奉納の年月日は書いてな
かった。…

 …この木村惟一(読み方不明)(ただいち・いいち・よしいち
か?)人であるかと、足尾に居られた関口源三君に調べて貰ったと
ころ、東京の庚申講の先達(せんだつ)であって、この人が庚申山
から皇海山に至る道を開き、そこを奧院とした。…

 …庚申山中に奥の院はあるが、これはつまり庚申山という一(ひ
とつ)の山に対する奥の院の山という意味であるらしい。(……中
略……)。…皇海山にも一時相当に登山者があったもので、その時
期は明治の初年(1868)から二十五年(1892)頃までであ
ったらしい」と、詳しく説明してあります。

▼【山名・由来】
 皇海山と書いて、なぜ「すかい」山と読むのか?同書『皇海山
紀行』によれば、江戸前期の正保(しょうほう・1644〜1648)年
代の図には、「さく山」と出てきており、当時は皇海山のことを「さ
く山」と呼んでいたようです。

 年号が変わった貞享元年(1684)の『前橋風土記』には「座
句山」、さらに下った安永三年(1774)の『上野国志』にはや
はり「さく山」とあり、「下野にて定顕房山という」(読み方不明)
と出ています。

 さらにまた、「群村誌(皇国地誌)」の利根郡平川村の山の部に、
『笄山(こうがいやま)。勢多郡ニテ之(これ)ヲサク山ト云(う)。
下野上野両国ニ跨(またが)リ高峻ニシテ高(さ)不詳。』とある
ので、サク山の座句山と同一山なることも、又夫(それ)が皇海(マ
マ)山に一致するとしています。

 またまた、追貝村の書上の水脈と題する欄に、「栗原川ハ源ヲ皇
開(ママ)山間ニ発シ……」、また瀑布の欄に、「水源、本村正東皇
開(ママ)山烏帽子岳ノ中央ヨリ発シ、……」という記事がある。
その文から皇開(ママ)山は笄山であるのは間違いなく、明治21(1888)
年ころは笄山(こうがいやま)は皇開山(こうがいやま)と書かれ
ていたらしい。それが皇海(開ではない)山と書かれるようになっ
た」というのです。

 長ったらしい文章でしたが、つまり、この山を下野方面では「定
顕房山」とか、前橋方面では「座句山・さく山」呼んでいました。
利根郡平川村での「笄山」といっていたもののうち、「笄山」が「皇
開山」(どちらもこうがいやま)と書かれ、さらに「開・かい」が
「海・かい」になり皇海山(すかいさん)になったというのです。

 笄とは髪を整える「結髪用具」のことらしい。山の形がこれに
似ているのが山名の由来だそうです。ここで皇を「す」と読むの
は、皇は「すめ、すめら」と読むので、皇海をスカイと誤読したら
しいのです。

 こんな説もあります。庚申講の先達が、庚申山からこの山への登
山道を開いたので「庚開山」(こうかいさん)といい、それが当て
字されて「皇海山」になり、いまの読みのなったというのです(『日
本三百名山』)。

▼【子連れ夫婦伝説】
 皇海山の前山庚申山の伝説です。この山奥で、天狗とも仙人と
もつかない不思議な子連れ夫婦を見たという人がいます。江戸時
代後期、埼玉県埼玉郡麦倉(いまの北川辺町麦倉)に住んでいた
医師・鈴木大三郎弘覚が、薬草採りのため庚申山に入りました。

 山中で野宿しながらの数日、人の来たこともないような谷川の
岩陰で、不思議な親子連れが水遊びをしているのを目撃しました。
みんな裸で、母親らしき女性は、長い髪をうしろに垂らし、腰の
まわりは木の葉のようなものをつけているだけだったということ
です。

 そばにいた土地の老案内人たちと、息を呑んで見入っているう
ち、やがて3人は連れだって木立の中に消えていったといいます。
老案内人は、「30年前、木こりの先輩と一度だけ彼らを見たことは
あるが、その時は子どもはいなかった」と話したといいます。ど
うやらその後、怪人たちの間に子供が産まれていたらしいのです。

▼【鈴木弘覚】
 鈴木弘覚という人は江戸後期の人で、一名庚申山弘覚坊とも呼
ばれた篤志家で、医療のかたわら師弟に学問を教え、農林振興に
も寄与。里人に大いに慕われ敬われ、1894年(明治27)、72歳
で没すると人々はその徳を讃えて、功徳碑を建てたほどの人だっ
たそうです。

▼皇海山【データ】
★【所在地】
・栃木県日光市(旧上都賀郡足尾町)と群馬県沼田市(旧利根郡利根
村)との境。わたらせ渓谷鉄道足尾駅の北西11キロ。わたらせ渓谷鉄
道通洞駅からタクシー・銀山平から歩いて7時間で皇海山。二等三角点
(2143.6m)と鉄剣がある。

★【地図】
・2万5千分の1地形図「皇海山(日光)」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典9・栃木県』大野雅美ほか編(角川書店)1984
年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『皇海山紀行』木暮理太郎:(『日本山岳風土記5』(宝文堂)」1960
年(昭和35)所収)
・『図聚天狗列伝・東日本編」知切光歳(三樹書房)1977年(昭和
52)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

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 (主に画文著作で活動)
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