▼【本文】
栃木県の日光山とは、男体山・女峰山・太郎山の日光三山をい
うそうです。その代表の男体山は標高2486mで、中禅寺湖の北
側にそびえています。女峰山(2493m)は、男体山の北東に、
太郎山(2367m)は女峰山の西方にそれぞれそびえ、さらに男体
山と女峰山の間には、大真名子山(おおまなごさん)と小真名子山
があります。
【山名】
男体山の名は、補陀落山(ふだらくさん)・二荒山(ふたらさん)
・国神山(くにかみさん)・黒髪山(くろかみやま)・日光富士な
どの異名もあります。日光は最初、補陀落山と呼ばれていました
が、のち二荒山(ふたらさん)と改称。それをニコウと読むこと
から「ニッコウ」と読むようになり、日光の名が出たといいます。
また黒髪山ともいわれるのは、山の様子が女性が、髪の毛を洗
い乱したかのようにみえるからだといいます。その名は、松尾芭
蕉が日光山に詣でた時詠んだ歌を、「黒髪山は霞かゝりて、雪いま
だ白し」と『奥の細道』に書き留めています。また弟子の河合曾
良(かわいそら)は、「剃り捨てて黒髪山に衣更(え)」と詠んで
います。
【山頂・山体】
さて、男体山の山頂には二荒山(ふたら)神社の奥社(奥宮)
があります。(本社は日光市山内地区に、また中禅寺湖畔に中宮祠
をまつっています。
また頂上に直径400mの旧火口もあります。この山には放射
谷が多く、山腹には八方に「なぎ」と呼ばれる山崩れがあります。
それはいまも風雨のため、崩壊がつづいており、「将来は山容が変
わってしまうのではないか」と心配されるほどだそうです。
この山は展望もすばらしく、眼下に広がる中禅寺湖や戦場ヶ原、
上州の浅間山や草津白根山、燧ヶ岳など尾瀬の山々、また遠く富
士山や北アルプスなども望められ雄大です。
【開山】
男体山は、修験道の山としても有名で、開山は、下野国(栃木
県)芳賀郡生まれの勝道上人が、奈良時代にこの山に登ってから
だとされています。上人は俗姓を若田氏といい、延暦元年(78
2・奈良時代)に男体山の頂上に登り、目の当たりに「観音浄土」
を見たといいます。そして三柱の神のお姿を拝したというのです。
勝道が拝した神々は、男体山の神である「大己貴命」(おおなむ
ちのみこと)と、女峰山の神の「田心姫命」(たごりひめのみこと)、
そして太郎山の神である「味耜高彦根命」(あじすきたかひこねの
みこと)の三柱だったといいます。
【男体山の祭神とそれぞれの山の祭神】
つまり山頂には男体山の山頂には二荒山(ふたら)神社の奥社
(奥宮)をまつりました。男体山には、男体山の神のほか、女峰
山の神、太郎山の神の三神をまとめてまつられています。
ちまみに男体山の神は「大己貴命」(おおなむちのみこと)、女
峰山の神は「田心姫命」(たごりひめのみこと)、太郎山の神は「味
耜高彦根命」(あじすきたかひこねのみこと)の三柱です。なんと
も難しい字がならびます。
【信仰】
そしてまた、この神々を家族と見たてて、本地仏(ほんじぶつ
=民衆を苦難から救うために、仏さまが神さまの姿で現れるとい
う説)としても崇められますから、次第に複雑になります。
つまり、(1)「父は男体山で、二荒神社にまつられ、そこの祭
神は大己貴命で、本地仏は千手観音」。(2)「母は女峰山で、滝尾
神社にまつられ、そこの祭神は田心姫命で、本地仏は阿弥陀如来」。
さらに(3)「子は太郎山で、本宮神社にまつられ、そこの祭神
は味耜高彦根命で、本地仏は馬頭観音」だというのです(『山岳宗
教史研究叢書8』から)。いや〜やこしいこと、やこしいこと。ど
うぞご勘弁お願いします。
【羅刹の穴・魔怪の住処】
さて、かつて補陀落山(ふだらさん)と呼ばれていたのが、二
荒山になり、日光に変わっていったというのですが、「二荒」と書
くのには訳があります。この山は、「羅刹(らせつ)窟」とよばれ
る岩穴から年に2度、暴風が吹き出していたというのです。年2
回荒れるので「二荒山」の名がついたといいます。それを弘法大
師空海がこの穴を結界(魔怪から切り離す)し、名前を日光とし
たと伝承します。
その岩穴というのはどこか。その場所について、男体山の北東
方とするのは江戸時代の『日光山満願寺勝成就院堂社建立記』と
いう文書。一方、江戸後期の『日光山志』という本には、いろは
坂下り道右手にある馬返しの岩壁だとして、説が分かれています。
『図聚天狗列伝・東日本編』という本にこんな記述がありました。
「日光の第一いろは坂(下り専用)の馬返し上に、前二荒と呼ば
れる断崖がある。その中腹に高さ約3m、幅約2.1mの入り口
がある洞窟がある。この洞窟は、雷神穴といい、雷獣の日光雷の
すみかで、いつも生臭い風が吹き出ている」とあります。
また先に書いた『日光山志』には、「或ハ雷獣トテ、雲ニ乗ジ、
雷ト同ジク虚空(こくう)ヲ飛行スル畜(けだもの)ノ棲メル穴」
と書いています。こんなことから、雷獣が出没し毎年春秋2回、
必ず大嵐を吹きだして荒れるため、弘法大師が穴をふさいで、結
界した場所は、どうもここのようです。
昔は、この穴をまつる神主さんがいたそうですが、「今ハ絶エテ、
其(の)子孫、御宮ノ伶人(れいじん・楽師)トナレリ」なのだ
そうです。それから300数十年もの歳月が経るいま、いつの間
にか結界の効果もうすれ、ふたたび魔怪が闊歩するようになった
のでしょうか。
「土地の者は、この洞穴にすむ魔怪を天狗と信じている」とわ
が『図聚天狗列伝・東日本編』の著者の天狗センセイは、信じて
疑わないようです。
【柳田國男】神を助けた話。
日光の山々は家族だとか、有名な「赤城山の神と日光の神との戦
い」などについては『日光山縁起』、『二荒山神伝』、『下野国二荒
山縁起』ほかの書物に書かれています。その中の、『二荒山神伝』
(林羅山)や『日光山縁起』を、柳田国男が「神を助けた話」の
なかでで取り上げています(『柳田國男全集7』)。
それによると、昔、都に有宇(ありう)中将という人がいまし
たが、好きな狩りに明け暮れたために左遷、ひとり青馬に乗り、
鷹と狗(いぬ)とを携え奥州に下って行ったのだそうです。
そして、旅先の朝日長者の家に逗留し、その娘を妻にしたので
した。それから6年後に子供が生まれ、馬王(ばおう)と名づけ
ました。その後、中将以下は二荒(日光)の山神になっていくの
です。
馬王は成長して、その侍女との間に一子ができました。その子
は、猿に似ていたため、猿麻呂(猿丸)といい、陸奥国小野に住
んだので、小野猿麻呂(猿丸)とも称しました。
さてこの二荒(日光)の山中には湖(いまの中禅寺湖)があり
ます。この湖をめぐり、上野国(こうずけのくに・群馬)の赤城
の神が自分の国のものだといいだします。
中将の二荒(日光)の神は、ここは下野国(しもつけのくに・
栃木県)のものだといい、戦いになりました。二荒(日光)の神
は大蛇に化して、赤城の神はムカデに身を変えて戦いますが、二
荒の神は次第に追い込まれ、敗色が濃くなるばかり。
そんな時、鹿島の神(常陸・茨城県)がやってきて、日光の神(も
と中将)にいいました。「そなたの子である馬王(ばおう)の、さ
らに子である猿麻呂どのは、弓の名手と聞く。そなたの孫にあた
る人物ではないか。戦いに助勢をしてもらったらよろしかろう」。
そこで二荒の神はもっともだと気づき、白い鹿の姿に化して、孫
の猿麻呂が狩りをしていた奥州の熱貸山(あつかし)(※福島県の
阿津賀志山289mのことか?)に行って、わざと猿麻呂の狩りに
追われ、二荒(日光)の山中まで誘い込んでから姿を消しました。
猿麻呂は、その白い鹿を追って山の中に入っていきました。そこ
へ姿を消した二荒の神がこんどは女神になってあらわれ、「これ、
猿丸よ。われはこの山の神である。お前は私の孫にあたる。
汝をここへ誘ったのは、わが仇を討たせんがためである。わが
仇は赤城神である。もうじき、ムカデの姿になってここへ攻めて
来る。われはウワバミの形をなして戦うであろう」。神さまという
のは頼みごとをするにもイチイチ手続きがタイヘンです。
「もし汝の助けによって勝ったときには、この山をお前に与え
よう。そして好きなように狩りをするがよい」。猿麻呂はそれを聞
いて加勢することを承諾しました。
猿麻呂が、次の日湖に行ってみると、草木が茂った沼に、数え
切れないほどのムカデが攻め寄せて来ています。これを防ごうと
二荒(日光)の神側が、大小の蛇を使って向かっていきますが、
とても防ぎきれないありさまです。
よく注意して見てみると、赤城山側の陣の、頭に角の生えたひ
ときわ大きなムカデが、同じようにひときわ大きな蛇(日光側)
と戦っています。猿麻呂は、あのムカデこそ赤城山の神とにらみ、
弓矢をつがえて大ムカデの左目をめがけて放ちました。
矢は見事にムカデの左目に命中。大ムカデはたちまち逃げ去りま
した。猿麻呂はあとを追いかけましたが、山を超えて利根川の岸ま
で行ってそこで引き返しました。この時、戦場になった(いまの
戦場ヶ原)に血が流れて、水が赤くなったため、いまも地名を赤
沼といいます。
負けた上野国(群馬県)の山を赤木山(ママ)といい、ふもとの温
泉を赤比曾湯(★場所・読み方不明)と呼んでいます。また敵を討
った場所だというので、「宇都宮」(討つの宮)の地名ができたとし
ています。
かくして二荒(日光)神は、猿麻呂の加勢により赤城神を打ち
払うことができました。その功によって猿麻呂は二荒(日光)山
を神から賜り、山ろくで二荒山神の申口(もうしぐち・神主)に
なり、その後小野神となり、登具示良(宇都宮市徳次良)から更
に宇都宮に移ったのでした(『柳田国男全集7』)。
【神戦譚を群馬側は知っていたか】
ところでこの戦いを、負けた赤城山である群馬側は知っていたの
でしょうか。赤城山の東ろく、群馬県新里村板橋地区内(いまの
桐生市新里町板橋)に、「赤城の百足鳥居」に市指定重要文化財に
なっている鳥居があります。この鳥居は江戸中期、赤城山へ登る東
南麓の参道として建てられ、笠木(二重)の下層にあたる島木(し
まぎ)には、1・3mものムカデが彫られているそうです。
そして村民は、かつてはムカデを見つけても殺さず、「ムカデ、
ムカデ赤城へ帰れ」と唱えて、赤城山に向かって放してやったそ
うです。また館林市足次の赤城神社の社殿の各所にはムカデの彫
刻がほどかされ、ムカデが描かれた絵馬が奉納されています。こ
のように群馬側でも認識はしていたようです。
また日光側でも、赤城山の神に負け戦だったことはあまり目立
った伝説・風習などに残っていません。これは、信仰が原因の戦
いだけに、双方とも自分の側の負けというのはいかにも具合が悪く、
できるなら忘れたがっているのだそうです。
さらに南北朝時代中期成立の説話集『神道集』(安居院(あぐい)
作)の「日光権現事」にも、「抑(そもそも)日光権現者下野国ノ
鎮守也、往昔、赤城大明神ト后(きさき)ヲ諍(あら)ソフ、?
佐羅麼(おんのさらま)ヲ語事遥ニ遠キ昔ナリ」とあります。
この「后」とあるのは、別の古文書でも「沼」とするものもあ
り、后は中禅寺湖のことで、『日光山縁起』などに出てくる「沼」
は、「后」の誤りらしいのです。つまりこの戦いは中禅寺湖を女性
に見たてた「妻あらそい」だとするのです。
そして『神道集』の?佐羅麼(おんのさらま)は、日光の神を
助けた「小野猿丸(麻呂)」のことだとしています。『神道集』と
いう本の記述のように、小野猿麻呂に負けたなど「遥ニ遠キ昔ナ
リ」と、なるべく忘れようとしているとこの筆者は結論づけてい
ます(『山岳宗教史研究叢書16』「日光の心線伝説」飯田真)。
【群馬県老神温泉の伝説】
なお、老神温泉の伝説では、「赤城山の神である大蛇」が、「日光
の男体山の神である大ムカデ」と戦って弓矢の傷を負い、その矢を
抜いて赤城山麓に突き刺したところに湯が沸きだしたとあり、神の
化身が逆になっています。
そして、それが老神温泉の湯が開かれる起源になったとしていま
す。湯で傷を癒やした蛇の神は、男体山の大ムカデの神を追い払う
ことができたことから、「追い神」が転じて、「老神」になったとし
ています なお、「日光連山家族説」の記述は1137-(百伝037)日光
白根山に掲載しました。
【UFO伝説】
日光にはこんな不思議な伝説もあります。宮城県丸森町にある修
験(山伏)寺院・宗吽院(そううんいん)に残る「宗吽院文書」や「宗
吽院史」にはおよそ次のようなことが載っているといいます。この
お寺の第19世管主に、義山法印という偉いお坊さんがいました。
鎌倉時代はじめの建仁元(1201)年の生まれで「健剛総明にして
よく道法の学を成した」といい、若いころは各地の山々を修行して
歩いていたといいます。
ある時、日光の山奥で熱心に修行をしていると、突然空中から光
り輝く白い雲のような物体が現れ、山の中腹に降りてきました。義
山法印は、はてなと気づきはしましたが、なおも熱心に修行をつづ
けていました。
すると白い物のなかからこの世のものとは思われない異人があら
われて、義山を手招いています。そこでその物体の中に入って行き
ました。その後、義山法師は異人からいろいろな不思議な法を伝授
したというのです。
それからというもの義山法印は歳をとらなくなり、かえって「終
世美童」の姿に見えたというのです。その上、雲を起したり雨を降
らし、風を呼んだり自由自在。数々の奇端をあらわし「神仙」とし
て有名になり、人々は「今小角(役ノ行者)」と呼んだそうです。
義山はある時、お上の許しを得て山田村(いまの宮城県伊具郡丸
森町)の山と山の間を堤防で結んで、伊具郡(いぐぐん・宮城県丸
森町のみ)の用水沼を作ったといいます。
その面積は22町歩余もあって、水下百町歩余りの水田を潅漑す
るような大事業でした。また、延慶元年(1308・鎌倉時代後期)3
月には、沼の内に弁天さまを勧請、沼の外は星宮(北辰妙見)をま
つったという。
義山法印は、文保2年(1318・鎌倉時代後期)1月20日、118
歳で世を去りましたが、その間、100歳を過ぎても山岳修行に没頭
するほど元気だったといいます。義山はあの時、雲(のような物)
に乗ったことから、法名を乗雲と号したということです。
宗吽院は、奈良時代の天平9年(737)行基菩薩の開山で、院内
に熊野社を勧請し、清覚寺を建立されています。平安時代初頭の大
同4年(809)に伝教大師が中興したと伝えます。もと本山派の修
験院で、現在は教宗派教団に所属せず、宗吽神院(そううんじんい
ん)とも称するといいます。
▼日光男体山【データ】
★【所在地】
・栃木県日光市。JR日光駅からバス、二荒山神社前から歩いて
3時間40分で日光男体山。一等三角点(標高2484・2m)と
二荒山神社奥宮と男体山神社がある。地形図上には山名と三角点
記号とその標高、二荒山神社奥宮の文字と男体山神社の鳥居記号の
記載あり(別の位置)。三角点より南西方向直線約83mに奥宮があ
る。また三角点より西方向直線約173mに鳥居記号(男体山神社)
がある。
★【ご利益】
・【二荒山神社奥宮】:金運・幸運、縁結びや安産祈願など
★【名山】
・深田久弥選定「日本百名山」(第36番選定):日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる。
・岩崎元郎選定「新日本百名山」(第28
番選定)
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・三角点:北緯36度45分54.47秒、東経139度29分26.96秒
★【基準点閲覧】国土地理院「基準点成果等閲覧サービス」から検
索
・基準点(三角点):(基準点コード:TR15539131901)(点名:男
体山)(冠字選点番号:堀
12)(種別等級:一等三角点)(成果
状態:正常)(測地系:世界測地系)(緯度経度:緯度
36°45′54.
5066、経度 139°29′26.9538)(標高:2484.20m)(現況状態:
正常 20090523)(所在地:栃木県日光市大字日光2478)(点の
記図:閲覧可)。
★【地図】
・2万5千分の1地形図「男体山(日光)」or「日光北部(日光)」(2
図葉名と重なる)
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典9・栃木県」大野雅美ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990
年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書1』「山岳宗教の成立と展開」和歌森太郎
編(名著出版)1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書8』「日光山と関東の修験道」宮田登・宮
本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書14』「修験道の美術・芸能・文学」(T)五
木重編(名著出版)1980年(昭和55)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化』五記重編
(名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集1・東日本編)五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平
成17)
・『新編会津風土記』巻之十(提要之六):大日本地誌大系30『新
編会津風土記1』蘆田伊人編(雄山閣)1932年(昭和7)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本神社総覧』別冊歴史読本(新人物往来社)1991年(平
成3)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本伝説大系4・北関東』(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五ほか
(みずうみ書房)1986年(昭和61)
・『日本の民話5』(栃木篇)日向野徳久編(未来社)1974年
(昭和49)
・『日本歴史地名大系4・宮城県の地名』大塚徳郎ほか(平凡社)1987
年(昭和62)
・『日本歴史地名大系9・栃木県の地名』寶月圭吾(平凡社)19
88年(昭和63)
・『柳田国男全集4』柳田国男(ちくま文庫)1989年(昭和64
・平成1)
・『柳田國男全集7』ちくま文庫(筑摩書房)1990年(平成2)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)
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