山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1130-(百伝30)谷川岳「二ツの耳と一ノ倉沢の宝探し」

1130-(百伝30)谷川岳「二ツの耳と一ノ倉沢の宝探し」

【本文】

【▼谷川岳】
 谷川岳は群馬県と新潟県との境にある山で谷川連峰の盟峰と呼ば
れています。谷川連峰とは、北方にある清水峠から、南西の方の平
標山までS字形のようにつづき、そして平標山からまた南へ三国峠
まで走る長い連峰(『新潟県の地名』)。谷川岳はそのS字のちょう
ど中間の南下する部分にあります。

 東斜面の群馬県側には、一ノ倉沢、幽ノ沢、マチガ沢など高さ300
から800m、また長さ6000mにもおよぶ岩壁がつづいており、な
かでも一ノ倉沢は日本の三大岩場の一つで、岩場の難易度も「高」。
多くのクライマーが遭難しているところです。

【▼山の歌】
 古い山の歌に、♪谷川岳のふもとに 湯桧曽(ゆびそ)の流れ
 オロクがとれる……というのがあります(オロクとは遺体のこ
とで、南無阿弥陀仏をオロクジ(お六字)といったのを省略した
ものだそうです)。

 それほどこの山は遭難者が多く、群馬県では1958年(昭和33)
に谷川岳警備隊を編成し、昭和42(1967)年には谷川岳遭難防止
条例を制定しています。

 また飛び抜けた死者数はナント、「世界の山のワースト記録」と
してギネス世界記録に記載されているというからただごとではあり
ません。やはり魔の山です。

【▼山名の誤記】
 谷川岳という名前は、もとはオジカ沢の頭の南、俎ー(まないた
ぐら・関越トンネルの真上)を谷川岳と呼んでいたそうですが、5
万分の1の地図作製の時、誤って「耳二ツ」を谷川岳と記入してし
まったといいます。地形図を作る時の誤記は、北アルプスをはじめ、
巻機山などあちこちで見られますね。

【▼山頂】
 山頂からの展望はミゴトで、東方に燧岳や日光連山、その南に赤
城山、榛名山、西方に仙ノ倉、それに苗場山が見えます。そして運
がよければ、遠く富士山や、日本海までが望めます。

 その谷川岳山頂は、ハイマツの中にハクサンシャクナゲが群集し、
また山には高山植物も多く、明治19(1886)年に牧野富太郎や、
矢田部良吉らの植物学者が入り調査、その後にも16種の原産植物
が発見されているといいます。

【▼耳二ツ】オキの耳(谷川富士)・トマの耳(薬師岳)
 谷川岳の山頂部は双耳峰になっていて、遠くから見ると犬や猫の
耳に似ているので「耳二ツ」とも呼ばれ(群馬県側)、南を「トマ
の耳」(1963m)、北を「オキの耳」(1977m)といっています。オ
キの耳の「オキ」とは、奥または沖の意味で、トマの耳の「トマ」
とは入口(トバクチ)という意味らしいです。

 群馬県側では、オキの耳に浅間神社(富士山の神)の奥社(奥宮)
がまつられていることから、「谷川富士」とか「越後富士」とも呼
んでいます。いまでもオキの耳の北側には、浅間神社奥宮が岩には
め込んで残っています。本社は谷川温泉にまつられている富士浅間
神社です。また新潟県側では、トマの耳に薬師如来がまつられてい
るために「薬師岳」と呼んでいます。

【▼浅間神社の伝説】
 奥宮であるオキの耳浅間神社にまつわる伝説です。南北朝時代の
康暦(こうりゃく・北朝)2年(1380)2月の夕方のことです。不
思議な光が南の空から飛んで来て、谷川岳上空で止まり、一晩中周
辺の山々を照らし続けました。その光は、白い三筋の虹のようなも
のだったそうです。

 それを目撃した東側山ろくの大穴、鹿野沢、坪野の村人は大騒ぎ
です。水上村に住む祈祷師に占ってもらうと、祈祷師は「いま、自
分に富士山浅間大明神が乗り移った」と叫ぶと、「私は駿河富士山
の浅間大菩薩である」と語り出しました。

 「この地の人々に救いの道を開かんとす。またより多くの幸福を
もたらすため谷川神社を建設せよ。その暁には、しかるべき神主を
立てよ。そしてこれを末永く守護せねばならぬ」とのお告げがあり
ました。

 この不思議な話を聞いた村人たちは雪解けを待ち、6月半ばに谷
川岳に登ることになりました。そしてふもとの谷川村から保登野川
沿いに切り立つ岩峰を登っていきました。いままで登ったことのな
い岩と崖の急坂の連続の山道。苦難の果てに無事全員が山頂に立つ
ことができました。

 するとそこにある大きな岩の中から一本の桃の木が生えておりそ
の枝に、不思議なことに八面(八つ)の浅間大菩薩の懸仏(かけぼ
とけ)がかかっていたのでした。ビックリしたのは村人、「この山
こそ神の山だ」。驚き畏れながら村人は、山の上にこの八面の懸仏
をご神体としておまつりした社を建てて奥の院としました。

 そして山ろくの谷川村(いまのみなかみ町谷川温泉)に里宮・富
士浅間神社を建立しました。これにより、谷川岳信仰登山は盛んに
なり、村人はあらそうように奥宮の富士権現へお参りに登っていき
ました(『日本山岳風土記4』)。祭神は富士浅間なので、当然なが
らコノハナサクヤビメ(『古事記』では木花之佐久夜毘売、:『日本
書紀』では木花開耶姫と表記)です。

【▼女人登山】
 村人たちが参詣登山するに際して、谷川富士の由来記『谷川富士
山縁年祭式』というものには、「不限男女ニ絶頂迄登山相成」との
記述があるそうです。女人禁制が一般的な時代に、ここでのお参り
登山は、「男女にかかわらず山頂まで参詣せよ」としていたという
から珍しく男女同権だったわけです。

【▼遺跡・修験】
 さて一ノ倉の岩室で発見された鋳銅製の小さな懸仏(かけぼとけ)
は、八面中二面がいまでも残っていて、それには「本願弘心 富士
浅間大菩薩十方旦那 永禄八年(※室町・1565)乙丑六月一日 良
正作」の刻銘あるそうです。

 二面の懸仏のうち、ひとつは座像の虚空蔵菩薩で直径29.8セン
チ。もうひとつは立像の十一面観音で直径が30.3センチ。これら
見つかった懸仏は修験関係の資料で、谷川岳への修験の入山はおそ
らくこのころだろう(『古代山岳信仰遺跡の研究』)としています。

【▼登山路】
 ふもとに富士浅間神社の本社が出来てからは、奥宮まで登れない
年寄りや女性などはここにお参りが出来ました。こうして谷川岳信
仰登山は、より盛んになっていきました。奥宮への登山路は、村人
がはじめて山頂をめざした時と同じコースで、神社裏側の「保登野
沢」を遡行し、天神平に出てから天神尾根を伝い、オキの耳(谷川
富士)の山頂へ至るものだったそうです。

【▼沓掛け柳】
 その谷川岳参詣登山の様子です。まず里宮である谷川村の浅間神
社にお参りし、わらじを履き替え、「沓(くつ)掛け柳」と呼ばれ
る境内に生えている大きな柳の木にわらじを掛けて出発します。沓
とは「はきもの」の意味だそうです。下山時にも履いていたわらじ
をここに掛けて帰ったといいます。

【▼懺悔岩】
 さて谷川岳頂上の薬師岳(トマの耳)のすぐ下には大きな岩があ
りますが、これを「懺悔(ざんげ)岩」と呼んでいます。この岩は
不動明王の形をしているというので、参詣者が有り難がり、いつの
まにかお不動さまに自分の懺悔を聞いてもらう習慣ができた岩だそ
うです。

【▼一ノ倉沢の宝物】
 さて室町のころ、谷川岳で山岳修行がはじまると、修験者たちは
修行のため「銭入れ岳」(昔一ノ倉谷はこう呼ばれた)の源頭の洞
穴にすみかをつくりました。そしてそこを拠点に修業をしながら谷
川岳のいろいろな登り道を探し求め、あらゆる場所に足を踏み入れ
ていきました。

 やがて修験者たちは、この山での修行が終わると、もっと難しい
山に移っていくのでした。その時、いままで住んでいた洞穴に、黄
金のご幣(へい)と黄金の鰐口(わにぐち)、それに一振りの名刀
を残していったといいます。これが谷川岳の宝物といわれ、村人の
間に代々伝えられて来ました。

【▼ふたりの盗人】
 谷川岳に宝物が眠っている……。当然これにはだれも興味を持ち
ます。この3つの宝物を盗もうとするふたりの若者がいたのです。
上野国利根郡の神社の息子で光次郎と左近という兄弟。人目につか
ないよう盗むには、6月1日のお山開きの前に登らなければならな
いと考えていました。ふたりは谷川岳には登ったことがないため、
大穴村の多兵衛(たべえ)を山案内人として雇うことにしました。
もちろん宝物のことは案内人の多兵衛には内緒です。

 ある年の5月の半ば、3人はお山詣りという名目で、利根川をさ
かのぼり、谷川村の浅間神社に向かいました。浅間神社に着いた3
人はお詣りを済ませ、新しいわらじと取り替えました。神社のわき
から山道に入るとしばらくして祓川に出ました。

 ここは身体を清める水垢離(みずごり)をする場所ですが、「と
にかくまだ寒いから」という理由をつけて割愛。「ドロボーに行く
のに身を清めてもはじまるまい…」ふたりは思いました。

 5月の谷川はまだまだ雪の中、おまけにことしはじめての登山者
です。道はなくラッセルに次ぐラッセルで疲労こんぱい。足には金
カンジキ、手には竹の棒を杖にしてござを着込み、それでも欲に目
がくらんだ兄弟は登りつづけます。そして3人はなんとか「懺悔岩」
の下にたどり着くことができ、薬師岳のお参りもそこそこに、いよ
いよ目指す谷川富士(オキの耳)の頂上に立ちました。

【▼最初の遭難者】
 高い岩の上から東北の方、「銭入れ谷」を見下ろした兄弟は、あ
まりにもその谷が広いのと、ものすごい岩壁にビックリ仰天。「一
体これではどこから降りればいいか分からねえ」。思わず本音をも
らす光次郎の言葉に、案内人の多兵衛(たべえ)は驚いて、「何い
ってるッ、下へ降りる気か」。

 兄弟は案内人を無視して行者の洞穴を探して谷の中をのぞき込み
ながら進みます。やせ尾根を一ノ倉に向かってしばらく進んだ所に、
へこんで斜面もゆるやかな下りられそうな所がありました。そこへ
来ると兄の光次郎は、弟に背負ってきた縄を出させ、自分の体をグ
ルグル巻くと、その端を弟の左近に持たせ、岩の上から谷に下りる
自分を確保させようとしました。

 「何をするッ」。驚く案内人の多兵衛を無視して光次郎は、凍り
ついた岩の斜面を縄にぶら下がるようにして、そろそろとずり降り
ていきました。見かねた多兵衛は、縄で支えている左近をうしろか
ら抱えて岩の上に引き倒しました。左近が縄を離したからたまりま
せん、ぶら下がっていた光次郎は一気に滑っていきます。

 すぐ下に出っ張っていた岩角にもんどり打つと、光次郎はそのま
ま空を切って深い谷底に落ちていきました。一方尾根の上でも、左
近と案内人の多兵衛がもがきあい、足を踏み外し、ふたりはそのま
ま、氷の急斜面を転げ落ちていったのでした。この3人の滑落が、
谷川岳における最初の死者となったということです。

【▼清水峠の伝説】
 S字形のようにつづく谷川連峰の北方に清水峠があります。上野
(群馬県)と越後を結ぶ道のひとつ。いまの利根郡みなかみ町と新
潟県塩沢町の境にあります。峠名は新潟県側のふもとの集落名に由
来しています。上杉謙信や小田原北条氏の通行の記録が残っており、
戦国武将の奇襲戦法の通路として開かれた道だといいます。峠には
避難小屋と、送電線監視所があり、七ッ小屋山と朝日岳の稜線を結
ぶ登山道と交差しています。

【▼三国峠】伝説・神社
 S字形の下(南方)端にある三国峠は、新潟県湯沢町と群馬県み
なかみ町との境で標高約1244m。三国山脈を越える峠で、古くか
ら越後と上野(こうずけ・群馬県)両国を結びます。近世江戸と佐
渡金山を結ぶ最短路として利用されたそうです。

 峠名の三国とはかつては、上野・越後・信濃の3国境にあると
考えられ、三国の名がつけられました。しかし実際の三国の
境は、三国峠よりはるか西方の白砂山で、峠は上野と越後の二国境
です。峠の名は、昔は都へ通じる官道の峠を「みさか」(御坂・三
坂)と呼んだそうで、三国は御国(みくに)峠の意だともいいます。

 戦国時代には、上杉謙信も関東出兵などひんぱんに利用。近世に
なると、佐渡で採掘した金銀を江戸に輸送もしたそうです。また越
後地方諸藩の参勤交代にも利用されたとか。明治5年(1872)、上
州富岡に日本初の官営製糸工場ができると、越後の女性たちが大勢
女工になるためこの峠を越えていったそうです。

 峠には三国の一の宮をまつる御阪三社神社(みさかさんしゃ)(ち
なみに「坂」ではありません)(三国三社大明神・かつては三国
権現)が建ち、上野赤城大明神・越後弥彦大明神・信濃諏訪大明
神をまつっています。このことは江戸時代の地誌『越後野志』
にも、「浅香井より上州永井迄三里半、この間三国嶺上に越上信三
州の境にて三国一の宮神祠あり」と記されています。

 この神社の縁起を書いた『三国三社権現縁起』という書物があり
ます。それには、その昔、三坂峠を去ること数里の白根山に悪鬼が
すみ、「上野・信濃・越後この三の国に飛行」して悪業をくり返し
ていたことがありました。そこで坂上田村麻呂が討伐のためここに
やって来て、悪鬼降伏を祈願して三神を勧請したのがこの神社のは
じまりとのこと。その最初の鎮座地は「万座山三街路」というとこ
ろでしたが、のち、「四万三坂」に移り、さらに当地に遷座したと
あります。

【▼山行】
 ある年の秋、ゆっくりと二ツの耳を入念に調べ、一ノ倉岳の避難
小屋の中を意味もなく開けてみたりして、茂倉岳から紅葉の景色を
眼下に蓬峠に向かい、小屋の前にテント。翌日たまには土樽駅へ
下山しようということになりました。小屋の主人も土樽へ下山だ
とさっき下りていきました。テントをたたみ、北側の下山道を下
りはじめました。お世話になった冷たい水場を通り越してしばら
くのこと、ガスのかかった山道の先の木が不自然に揺れています。

 立ち止まり様子を見ることにしました。次の瞬間、枝葉の上に
牛の顔の大きさもあろうかと思われる熊が姿をあらわしました。
真っ黒い目ン玉。その下のオレンジ色の肌の色までくっきり見え
ます。「こりゃダメだ。引き返そう」。

 それからは、ただただいま降りてきた急坂を登り返すだけ。小
屋の前についたときは力が抜けた状態。家に帰り、熊に関した本
を調べます。それによると危険距離は30mとありました。あれは
せいぜい3、4m。ブルルルッ。



▼オキの耳(谷川富士)【データ】
【所在地】
・群馬県利根郡みなかみ町と新潟県南魚沼郡湯沢町との境。JR
上越線土合駅から20分ロープウエイ天神平から3時間で谷川岳オ
キの耳。写真測量による標高点(1977m)と浅間神社の奥社があ
る。地形図に谷川岳とオキの耳標高点の標高の記載あり。標高点
より南方293mにトマの耳の標高点(1963m)、468mに肩の小屋が
ある。

【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・標高点:北緯36度50分13.6秒、東経138度55分48.6秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「水上(高田)」or「茂倉岳(高田)」(2図
葉名と重なる)(国土地理院「地図閲覧サービス」から検索)。

【山行】
・某年10月10日(土曜日 晴れ)。


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『角川日本地名大辞典15・新潟県』田中圭一ほか篇(角川書店)
1989年(平成1)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平(名著出版)1990年(平
成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳風土記・4』上信越国境の山々(宝文堂)1960年(昭
和35)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本歴史地名大系10・群馬』(平凡社)1987年(昭和62)
・『日本歴史地名大系15・新潟県の地名』(平凡社)1986年(昭和61)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
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