▼1129-至仏山「オゼソウと八幡太郎と安部宗任」
【本文】
燧(ひうち)ヶ岳とならんで尾瀬のシンボルといわれる至仏(し
ぶつ)山は、「仏に至る」と書くありがたいお山です。有名な「日
本百名山」の完登を目指す登山者も最後に登る山はこの至仏山に
するのが人気なのだそうです。この至仏山については、江戸中期
の『上野国志』利根郡の八掬脛社(やつかはぎしゃ)の項(※p213
・コマ番号118)にも「……悪勢(※尾瀬)の名所と云ふは、悪勢
の城、火打、見越、猫川、寺崎、沼田、橘、駒が嶽、四佛山、うん
ぬん」と出てきます。
これは仏教用語で、四方四仏の略なのだそうです。「四仏」とは
東方の阿?(あしゅく)仏、南方の宝相仏(ほうそう)、西方の無
量寿仏(阿弥陀仏)、北方の微妙声(みみょうしょう)仏など耳慣
れない仏さまをいうとのことです。また密教では大日如来の四方に
いる仏さまだというから、ますますもったいなくなります。ところ
が調べてみると、この山名は仏教には関係ないと出ていますからな
んとも……。
ところで「至仏」というのは南東山ろく片品村戸倉地区の呼び方
だそうです。西南ろくのみなかみ町藤原地区方面では「タケクラ」
と呼んでいるといいます(『山の憶い出』)。だいたい「シブツ」の
名の出どころは、この山の北西から突き上げる尾瀬ヶ原の猫又川の
支流ムジナ沢に関係があるらしい。この沢の岩は、かんらん岩とい
う岩で、風化すると黄褐色や赤褐色になるのだそうです。
そのため、とどこおる意味の「しぶる」からか、柿渋を連想する
からか「渋ッ沢」とも呼ばれ、この「シブツ」が転訛して至仏にな
ったといわれます。またみなかみ町藤原地区での呼び方の「タケク
ラ」は、岳倉山とか岳ー(たけくら)と書きます。ーは巌の意味で、
至仏山西側(みなかみ町)の岩壁の様子をいっているのだそうです。
山頂部はハイマツ帯や砂礫地帯になっており、展望は素晴らしく、
燧ヶ岳を背景に尾瀬ヶ原がパノラマのようで、遠く平ヶ岳や会津駒
ヶ岳までも一望できます。
ここは高山植物の宝庫で7、8月ごろ、の山頂と東斜面は花で埋
まります。東の斜面にはオゼソウ、ホソバヒナウスユキソウ、ハク
サンイチゲ、ジョウシュウアズマギクなど貴重な植物が多く生えて
います。とくにオゼソウは、蛇紋岩地帯にまれに生育する一属一
種の植物という珍しい植物だといいます。
オゼソウは1930年(昭和5)に尾瀬で発見した標本に基づいて、
新属新種として発表されたものだといいます(※ママ)。ユリ科オゼ
ソウ属のオゼソウで、種小名(osene)は「尾瀬産の」という意味
だそうです。その翌年の1931年(昭和6)、北海道北部の手塩地
方から本州のものより大きい種類が発見され、本属2番目の種と
して、新しく「テシオソウ」の名で報告されたそうです。
しかしテシオソウは、オゼソウの生育のよいものに過ぎないと
分かり、その後は同一種されているそうです。また谷川岳にもあ
ることが分かっています。いまオゼソウは、日本のこの3ヶ所だ
けに生えている貴重な植物で、「レッド・データ・ブック」では危
急種とされているそうです。
最近では、オゼソウ科として独立さる意見もあるようです。オ
ゼソウは、夏に高さ5〜20センチの花茎に総状にビッシリ黄緑色
の細かい花を開きます。しかし、花のないときはスゲと間違いそ
うな植物です。
ところで至仏山は、1953年(昭和28)には自然景観を保護する
ために特別保護区に指定されています。標高は2228.1mとそれほど
でもないこの山が、これほど高山植物の宝庫となったわけは、蛇紋
岩のためだといいます。蛇紋岩のこの山は非栄養で厳しい環境で、
植物にとってあまり好ましい土壌ではないのだそうですが、厳しい
だけにほかの植物の侵入を許さず、かえって貴重な植物たちだけの
楽園としたのだと専門家は語ります。
【▼雪形】
この山にも雪形があらわれます。それは馬にも鳥にも見える残雪
の形です。またそれと向かい合うようにもうひとつ、デカイ蛙(カ
エル)に見える雪形が出ます。それらの雪形は、はっきりではない
にしろ「その形、量感とも十分鑑賞に耐えるもの」だとしています
(『山の紋章・雪形』)。
【▼伝説】
さて至仏山南からの登山口鳩待峠に残る民話です。この峠は「鳩
を待つ」と書きます。冬になるとふもとの村人は木出しや炭やきの
仕事をするため、山奥に寝泊まりをする小屋を造ります。やがて木
の芽が吹き、「ポー、ポー」と山鳩が山中で鳴きはじめると、「おお
春が来たか」と村人たちは仕事を切り上げます。
一方、夫が留守にしている里でも雪が消え、田んぼや畑の仕事が
はじまるころです。そろそろ山から夫も帰るころ。そんなころには
山では鳩の鳴き声がし出します。炭やきで山にいる夫も里にいる女
衆も、みんなが待ってた鳩の鳴き声なのです。
また、至仏山ろくには八幡太郎源義家や、安倍貞任(さだとう)
の弟宗任(むねとう)一党の話がよく出てきます。平安時代、前九
年の役(1051・永承6)〜1062・康平5年)で敗北した安倍宗任
は、源頼義・義家に捕らえられ、逆賊として京へ送られることにな
ります。その途中、利根郡を通ったようで、藤原村(いまのみなか
み町藤原)に安倍一族の末裔が住みついたという話まであります。
これは鳩待峠と八幡太郎源義家のエピソードです。その昔、源義
家がこの峠をこえる時、鳩を放って旅の吉凶を占った所だと伝え、
それが峠名の由来になっています。義家は、平安時代後期の武将で
鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先
に当たる人。京都の石清水(いわしみず)八幡宮で元服したため、
八幡太郎の名があります。
ところでなぜ鳩かというと、鳩は京都石清水八幡宮の神の使いで、
石清水八幡宮の本殿にも鳩の装飾があり、「鳩みくじ」も販売され
ています。そんな縁で八幡太郎義家と鳩を結びつけて語られている
のでしょうか。
八幡太郎源義家は、前九年の役で、父の陸奥の守源頼義とともに
安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らと戦いました。貞任は
厨川(くりやがわ)の柵(盛岡市)で敗死しましたが、宗任は泥中
に身を隠して逃れ、しばらく潜伏していましたが、間もなく投降。
源頼義やその子義家らに伴われて都に護送されますが、京中に入れ
られず、伊予の国(いまの愛媛県)に送られ、のち太宰府(福岡県)
に移され、この地に永住したということです(没年不詳)。
【▼安倍宗任@】
そんなことからいろいろな伝説が生まれます。厨川(くりやがわ)
の柵で安倍貞任を滅ぼした源源頼義・義家は、その弟の宗任を捕虜
にして、都へ凱旋する時、奥州からふもとの利根郡を通りました。
ところがあとから宗任の家来たちが大勢、主人の身を案じてついて
きます。いくら追い返してもゾロゾロとどこまでも追ってきます。
困った義家は安倍の家来たちに、「お前たちの心情はよく分かる
が、次第に都にも近づいてくる。このままでは朝廷に対しても恐れ
多い。ここは奥州と都のちょうどまん中、ここにとどまって結果を
待て、主人宗任の身については、わしが必ず赦免を願ってやる」。
この言葉を信じた、家来たちはこの地にとどまることになりました。
やがて年月が経ち住みついた藤原村の民となり、とけ込んでいった
ということです。
【▼安倍宗任A】
それとは別の話もあります。利根郡月夜野町(いまは根郡みなか
み町)に八束脛(やつかはぎ)さまという神をまつる洞窟があり、
遺跡として町の史跡にも指定されています。厨川(くりやがわ)
の柵で泥中に身を隠し、逃れた安倍宗任は、利根郡みなかみ町後
閑(ごかん・月夜野)まで逃げてきて、岩山の洞穴のなかに住んで
いました。
洞穴は2段になっており、宗任は上の段に住んでいました。そし
て外に出るときは、吊り下げてある藤のツルに掴まり下りてきて、
村人のつくった作物を盗んで食べていたのでした。困った村人は盗
人のあとをつけてきて、隠れ家の岩穴を突き止めると、出入りの時
に利用する藤のツルを切ってしまいました。
そのため洞穴から出られなくなった宗任は、食べ物を盗むことが
できなく、飢え死にしてしまいました。しばらくして村人が様子を
見に行くと、すねの長さが「八つかみ」もある大きな白骨があり、
人々は八束脛(やつかはぎ)と呼びました。実際、宗任はその白骨
のような大男だったそうです。
室町初期の軍記物語『義経記』巻一には、「宗任が丈は八尺五寸
(※2.58m)、何れも八尺に劣るはなし」と巨漢ぶりが書かれてい
ます。村人は餓死した八束脛をあわれに思い、神としてまつったこ
とにしたといいます。このことがあってから、後閑ではいままで続
けてきた「安倍家の芝居」は演じなくなったといいます(『日本伝
説大系4・北関東』)。ということはこの芝居は、安倍貞任を揶揄し
たような内容だったのでしょうか。
【▼安倍三太郎】
もうひとつの話です。奥州厨川(くりやがわ)の柵で滅びた安
倍一族に三太郎という武将がいました。貞任の死亡後、三太郎は
安倍一族の従卒(当番兵)3、40人とともに山伝いに尾瀬に逃げ
てきました。そしてそこを根城に近郊の村々に出没、次第に勢力
を伸ばしていました。それを聞いた八幡太郎源義家は、数千の兵
を率いて討伐に向かったのです。
義家は途中、利根川の流れにはばまれて身動きが取れず、しば
らく思案していたました。その時、三峰山(上州三峰山・1123m)
の方から白羽の矢が飛んできて義家の馬の前に突きささりました。
これは三峰山の八幡大菩薩が、川の浅瀬を教えてくれる導きに違い
ない。その導きに従い無事に川を渡ることができました。八幡太
郎義家は、神に深く感謝したといいます。ただ、この「上州三峰
山」と「八幡大菩薩」の関係は不明です。
しかし源義家と八幡宮との関係はこんな逸話があります。ある
時義家の父源頼義が八幡宮(京都府京都市下京区)に参拝しまし
た。そのとき、夢に一振りの宝剣が出てきて、「夢を見た月に、妻
が懐妊を告げた」というのです。その同じ月に妻が懐胎、生まれ
たのが源義家です。のち義家が「石清水八幡宮」で元服し、「八幡
太郎」と号したいきさつがあります。
さて、こうして義家の軍に攻められた安倍ノ三太郎は、激しく
抵抗しますが、多勢に無勢、とうとう多くの郎党を失って惨敗。
わずかの供を従え、人も入らない奥山に身を隠し、そして代々安
倍ノ三太郎を名乗り、ひっそりと深山で隠棲したということです。
ただ参考書によっては「安倍」と「阿部」が混同してわかりに
くくなっています。それは安倍三太郎一党が水上町大字藤原に定
住し『安倍』から『阿部』に改名したといいます。またある安倍氏
は、室町時代から尾瀬氏を名乗ったりした者もいて、そのあたり
が混乱の原因のようです。
▼【参考文献】
・『会津風土記』:江戸時代前期の寛文6年
1,666年・会津松平家初
代藩主、保科正之が編纂。(「新編会津風土記」はこれに追記補充し
たもの)
・『尾瀬むかしむかし・第2集』(南雲観光物産)
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『関東百山』横山厚夫ほか(実業之日本社)1985年(昭和60)
・『上野国志』毛呂権蔵(義郷)(江戸中期の安永3年著・1774年)
(環水堂発行)1910年(明治43)
・「植物の世界」(113号)1996年(平成8)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『世界の植物巻9・100号』(朝日新聞社)1977年(昭和52)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本伝説大系4・北関東』(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五ほか(み
ずうみ書房)1986年(昭和61)
・『日本の野草』(山溪カラー名鑑)(山と渓谷社)1983年(昭和58)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系10・群馬県の地名』尾崎喜左雄ほか(平凡社)
1987年(昭和62)
・『牧野新日本植物図鑑』牧野富太郎(北隆館)1974年(昭和49)
・『山の憶い出』(「ひ」ではない)小暮理太郎:『日本山岳名著全集
2』(あかね書房)1962年(昭和37)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)
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