山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1128-(百伝028号)燧岳鍛冶屋のはさみと万里姫ものがたり

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▼1128-(百伝028号)燧岳「鍛冶屋のはさみと万里姫ものがたり」

【本文】
 燧ヶ岳(ひうちがたけ)は尾瀬の北にそびえる山。約一万年前、
この山の噴火活動で、只見川の上流がせき止められ、南西斜面に尾
瀬沼・尾瀬ヶ原ができたといわれています。燧ヶ岳の山頂部分は、
俎ー(まないたぐら・2346.2m)、柴安ー(しばやすぐら・2356m)、
みのぶち岳、赤なぐれ山と四つに分かれています。それらが、火口
丘の御池岳を囲むように、半円の形になってならんでいます。

 かつては、これらの四峰を総称して燧ヶ岳といっていたらしいで
すが、いまは俎ーを指しているのだとか。俎ーの山頂は岩が積み重
なり、ここ四峰の最高峰柴安ーが迫って見えます。

 俎ーからの展望はもう360度が開け、眼下の尾瀬はもちろん、越
後の山々、日光連山、南西に至仏山、上州武尊(ほたか)、平ヶ岳、
会津駒ヶ岳など思いのまま、天気が良ければ富士山まで見えるかも
知れません。

【▼山名由来・雪形】
 ここにも雪形が出るらしく、その形から燧ヶ岳(ひうちがたけ)
の山名のもとにもなっています。雪形は俎ーの雪渓に出る、鍛冶屋
さんが使う鍛冶ばさみ(火打ち鋏)の形です。蛇足ながら「燧」
の字は、「火打」のほか、「燹」(のろし・のび・せん)の難しい字
も使われていたようです。

 この山名について登山家の川崎隆章編『尾瀬と檜枝岐』には、「燧
の山名の由来は燧岳俎ー東北面の下方に鍛冶鋏(ばさみ)の雪渓が
現はれることに由り、このことは村では誰一人知らぬ者もない。沼
田街道の七入橋を渡って左に実川(みかわ)を臨み神夜泣子(かみ
よなご)の部落に近づく頃来し方を振り返れば……俎の下方に実に
良い形をした鍛冶鋏形の雪渓が現はれているのに讃嘆するであろ
う」とあります。以上は『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究
社)から転載しました。

【▼噴火】
 この山も昔は噴火していたようで、洪積世(こうせきせい)と
いうから、はじめて人類が出現したころの大昔、燧岳が火山活動
を起こし、流れをせき止めて古尾瀬ヶ原湖が出現、尾瀬ヶ原もで
きたとされています。

 そしていま、尾瀬沼にたまっている水を関東地方の水不足を補
うため、群馬県側に流す案が浮上しているうわさもあります。し
かし尾瀬の自然環境保全のため、福島県側が猛反対しているとい
うことです。

【▼燧大権現】
 この山にも神さまがまつられています。爼ーの山頂にある石祠
は、燧ヶ岳の祭神「燧大権現」で、ナント奈良県葛城山ののふもと
にある葛城一言主(かつらぎひとことぬし)の神のことだそうです。
その理由は、檜枝岐村に伝わる『家寶記』という文書の巻十三に、
「燧大権現 有会津郡檜枝岐山 是(これ)ハ燧嶽ノ頂ニ天長九
年壬子(みずのえね)葛木一言主命ヲ祭(る)村民為鎮守」とあ
るのがそのあかしだといいます。

 明治時代それを根拠に、檜枝岐村の平野長蔵(尾瀬の開発者)
が、爼ーの山頂に石の祠を建立しました。そして平野長蔵は、神
官の資格まで取って、自分で神事をつかさどったそうですから熱
心なことであります。

【▼伝説・高倉宮以仁王】
 また平安時代末期に、源氏に平氏打倒の挙兵を令旨を下したこ
とで有名な、高倉宮以仁王(もちひとおう)が実は生きていて、
わずかな共を連れて尾瀬を通り、檜枝岐方面に落ちていったとい
う伝説があります。

 その以仁王の家来の尾瀬中納言源頼実卿が、長旅のため尾瀬で
亡くなり、長沼(鷺沼)近くの丘に葬られ、以来この地を「尾瀬」
というようになったといいます。その後村人は、尾瀬中納言をあ
われみ、燧ヶ岳山頂に尾瀬大明神としてまつりました。いまもそ
の石の祠もあります。

【▼伝説・白髪の老人】
 さらにこんな伝説もあります。昔々、村の人々が火種を絶やし
てしまい、襲ってくる寒さに苦しんでいました。するとそこへひ
とりの白髪の老人が現れ、一晩泊めてくれといいます。村人は、
火がなくて寒いけれどそれで良かったらどうぞと、老人を家の中
に入れました。すると老人は赤い石を取りだし、これを打ちつけ
ると火が出ることを教えました。

 そのお陰で村人の囲炉裏(いろり)に火がもどり、暖かさが広
がりました。喜んだ人々が気がつくと白髪の老人の姿は消えてい
ました。それ以来、この赤い石を燧石(ひうちいし・火打石)と
いうようになったといいます。村人たちは、燧石をくれたあの白
髪の老人こそ、ここの一番高い山にすむ神さまだろうと、山名を
燧ヶ岳とつけて、山頂に燧大権現の小祠を建てたという話も残っ
ています。

 白髪の老人が持っていた赤い石にちなむのか、沼田街道に沿っ
て流れる檜枝岐川(寒川)の上流には、赤法華沢とか赤倉沢や赤
安沢などの「赤」の字のついた支流があります。いまでも大水が出
たあとなどは、真っ赤な石が流れてくることがあるそうです(『檜
枝岐村史』)。

【▼伝説・公卿の姫と若者】
 また鎌倉時代末期、「元弘の変」(げんこう)で後醍醐天皇が敗
れ、隠岐に流されたころのお話しです。燧ヶ岳のふもとの高原の
ヒノキの皮ぶきの小屋に若者が住んでいました。ある時ひとりの
公卿(くぎょう)が、大勢の鎌倉武士に連れられてきて、打ち首
にされる事件がありました。その公卿は京都で捕らえられて、会
津に流される途中、鎌倉からの命令でここで人知れず斬首された
ということでした。

 公卿の首は、武士たちが鎌倉に持ち帰ってしまいました。残っ
た遺体は若者が近くの丘に葬りました。月日は過ぎ次の年の秋の
こと、若者が狩りに出たとき、突然クマの吠える声と女性の叫び
声を聞きました。若者が急いで岩の上に登ってみると、二人の旅
人が熊の襲われていました。若者は得意の弓を引きしぼり矢を射
て、襲われている美しいお姫さまと家来を助けてやりました。し
かし、家来はクマの一撃ですでに死んでいました。

 あわれに思った若者は、公卿を葬った場所の近くに手厚く葬り
ました。残った姫は、どんなに聞いても、身の上をあかしません
でした。ただ訪ねる人があり、会津に行くためはるばる都から来
たというばかりです。ひとりぼっちになった姫、これ以上旅をつ
づけるのは無理だと、若者は自分の家に部屋を建て増して住まわ
せることにしました。しかし姫は若者に指一本触れさせはしませ
んでした。

 短い尾瀬の秋、一夜にして白銀の衣をまとう冬、やがてミズバ
ショウの咲く春がやってきました。やがて若者は姫から文字を習
い読めるようになりました。そして沼のほとりで死んでいった公
卿が書いた辞世の句を読み、それを姫に見せました。それには「燧
山 石に切る火のそれよりも儚(はかな)く消ゆる 世とは知ら
ずや今ははやもの岩代の尾瀬沼のまこもとなりて人を待たなむ」とありました。

 姫はハッと顔色を変え、「おなつかしや父上さま……」と泣きく
ずれます。この姫こそ、公卿の万里小路藤原季房(までママのこう
じふじわらすえふさ)卿の娘の万里姫(まりひめ)で、お供とと
もに父を訪ねて都からやって来たのでした。

 月日の過ぎるに従い、姫の心も落ち着き、尾瀬の四季にとけ込
み、安らかに暮らすようになりました。ふたりはすっかり親しく
なり、高山植物のお花畑に仲むつまじい姿も見られるようになり
ました。夢のような日々、……しかし若者は考えました。美しい
公卿の娘万里姫、それに比べ貧しい木こりのわが身。

 あまりにも違いすぎる身分……。やがてなにやら心に決めた若
者は、小屋に戻り砂に上に字を書きだしました。「お姫さま、おい
らは美しいあなたに思いをかけてしもうた。到底かなわぬこと、
いっそ、ひと思いに……」。

 それを読んだ姫は、若者を追いかけました。「あなたには深い恩
を受けました。なんでこのままにできましょう。一生あなたのお
そばにおいてください」。こうしてふたりは結ばれました。檜枝岐
の村民にみやびやかな血が流れているというのは、こんな歴史が
あったのです。

【▼太平記の記述】
 この伝説について、『太平記』(巻第四)にこんな部分がありま
す。後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕計画が、事前
に発覚してしまい、「元弘の変」で六波羅(ろくはら)の軍勢に捕
らえられました。そして後醍醐天皇の側近で、計画にかかわった
万里小路藤原季房(までのこうじすえふさ)と、兄の中納言藤房
は、ともに常陸(ひたち)の国方面へ流されました。さらにそれ
ぞれに、長沼駿河守(するがのかみ)、小田民部大輔(たゆう)と
に預けられたという記述…。これが先述の万里姫の伝説につなが
るものだとしています。


▼燧ヶ岳【データ】
★【所在地】
・福島県南会津郡檜枝岐村。上越新幹線上毛高原駅からバス、沼
田駅乗り換え大清水停留所下車、さらに歩いて6時間で燧ヶ岳。俎
ー(2等三角点・2346.0m)と、柴安ー(写真測量による標高点
・2356m)と、赤ナグレ岳(写真測量による標高点・2249m)と
ミノブチ岳、御池岳がある。燧大権現の石祠がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・俎ー三角点:北緯36度57分18.56秒、東経139度17分19.15秒
・柴安ー標高点:北緯36度57分18.4秒、東経139度17分7.1秒
・赤ナグレ岳標高点:北緯36度56分59.1秒、東経139度17分11.6秒
・ミノブチ岳:北緯36度57分4.5秒、東経139度17分21.5秒
・三池岳:北緯36度57分9.5秒、東経139度17分16秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図:燧ヶ岳


▼【参考文献】
・「尾瀬むかしむかし1」(株・ナグモ)(発行年不明)
・『尾瀬むかしむかし・第2集』(南雲観光物産)
・『角川日本地名大辞典7・福島県』小林清治ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『上州の伝説』都丸十九一ほか(角川書店)1978年(昭和53)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『太平記』(新潮社版)(巻第四):新潮日本古典集成『太平記1』
山下宏明校注(新潮社)1991年(平成3)
・『太平記』(河出書房版)(巻第四・笠置の囚人死罪流刑の事付け
たり藤房卿の事):日本文学全集8「太平記」尾崎士郎訳(河出書
房新社)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系7・福島県の地名』(平凡社)1993年(平成
5)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)
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