山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1126号(百伝26)平ヶ岳「玉子石と山ろくの伝説」

▼1126号(百伝26)平ヶ岳「玉子石と山ろくの伝説」

 平ヶ岳(ひらがたけ・2141m)は、群馬県利根郡みなかみ町(旧
利根郡水上町)と新潟県魚沼市旧湯之谷村各地区名(旧北魚沼郡湯
之谷村)との境にそびえる山。尾瀬の北西にあり、名前のように
山頂が平らで、眺望は360度、湿原地帯には高山植物咲き誇る山。

 異名を平岳(ひらだけ)といい、群馬県藤原側では塗桶山(ぬ
りおけやま)とも呼んでいるそうです。(※『日本山名事典』では
塗桶「岳」・『新日本山岳誌』では塗桶「山」とあり注意)。なぜ「ぬ
りおけ」なのか不明ですが、1875年(明治8)の『上野国郡村誌』
(こうずけのくにぐんそんし)という史書には、「塗桶嶽 高一里
三十町、村ノ北方ニアリ……」と名前が出てきます。

 ここ群馬・新潟県境に降った雨は、南側に落ちれば群馬県側・
奥利根湖へ流れて利根川から太平洋へ。北側に降れば、新潟県側・
只見川をへて、日本海にそそぎます。この山は登山口までの交通が
不便な上、ただ登って帰るだけで12時間もかかるという山。不便
だからこそ登山者あこがれの山になっています。。

 1986年(昭和61)、さる高貴なお方が「めでたく」登山。そん
なこんなで女性登山者を中心に人気の山になっているようです。
このお方の登山の際は、日にちが決まってから林道の新造成計画
がなされたため、作業は突貫工事でそれは大変だったとか。完成
後は平ヶ岳北西側、林道終点からから玉子石まで、3時間で登れ
るコースができたそうです。しかし林道入り口は、進入禁止にな
っているという話も聞いたこともあります。

 登山の記録は、明治から昭和にかけての登山家・高頭仁兵衛(た
かとうにへえ)という人が、1915年(大正4)、に登った記録があ
ります。その時は、案内人4人とともに、銀山平から只見川経由
で、3日かかって登ったということです。次には、大正5(1916)
年には高田式が。大正9(1920)年には木暮理太郎(明治時代の
登山家、日本登山界の大先達)が山頂を極め、『山の憶い出』(利
根川水源地の山々)を残しています。

 その『山の憶い出』の一節です。「平ヶ岳の頂上はその名の如く
実に平らで広い。…三角点の付近には、沢山の小さな池が巧に案配
されて、自然の庭園をなしている。…小池が至るところに存する。
中には浮島があって、知らずに飛び乗った拍子にすういと動き出し
て人を驚かしたことなどもあった」と記しています。平ヶ岳登山口
のバス停から、沢を渡ってやせ尾根をひたすら歩くと下台倉山から
台倉山に至ります。

 水場を2ヶ所通り過ぎ、山上の木道を姫ノ池から西に進むと、
玉子石という丸い岩があらわれます。まるで誰かが彫ったような
卵形の石が、石の台に乗っています。そばに説明文があって、「玉
子石と土台の岩はひと続きの花崗岩で、節理(割れ目)にそって
風化が進み、上の部分の芯が丸く残ったもの。落ちる危険がある
ため登ったり、近づいたりしないで下さい」と書かれています。
まさに自然の造形そのものです。

 不思議な気持ちで池ノ岳まで引き返し、平ヶ岳山頂へ。そのま
ま少し進むと南の尾瀬方面が急に開けます。南方の至仏山や燧ヶ
岳、北西に越後三山などの山々などの眺めが広がります。

 ここも高山植物が豊富で、チングルマ、ハクサンコザクラ、ミ
ツバオウレン、コイワカガミなどに出会えます。平ヶ岳登山口の鷹
ノ巣集落を只見川に沿って北に進むと、奥只見湖の船乗場。乗船し
て着いたところが銀山平です。

 銀山平は、江戸前期の寛永18年(1641)、折立村(いまの魚沼市)
の源蔵という人の銀山発見からはじまります。ある日、源蔵が、
只見川で川鱒の漁をしていた時、水中に白く光る石があります。こ
れが銀山の銀鉱石だったのです。そこは「赤の川表上平之川辺」
というところで、越後国と会津国の境界上でした。当然国境山論
争が起こりましたが、そこは幕府裁定が入り越後領ということで
決着。銀山は上田白峰銀山とも、大福銀山とも呼ばれ発掘が進み
ました。

 銀山平に入るための枝折(しおり)峠は、明神岳の尾根を越え
る難所でしたが、銀山守護神の大明神もまつられ、峠を往来する男
たちに親しまれました。しかし時が過ぎ、40年後の天和元年(1681)
高田藩の松平光長改易により、銀山経営は一時閉鎖。その後再開さ
れましたが、江戸時代中期の宝永3年(1706)銀山は留山となり、
さらに安政(1854〜60)のころ、廃坑となってしまいました。

【▼伝説・藤原村】
 一方、南麓の群馬県側は、みなかみ町藤原になります。大正11
年(1922)に藤原から利根川経由、水長沢をさかのぼって平ヶ岳に
登った例もあるそうです(『山の憶い出』)。その藤原にはこんな伝
説があります。古記のよれば、葉留日野(はるひの)里と称し、平
安時代前期の元慶(がんぎょう)・仁和(にんな)年間のころから、
すでに多数の村人が住んでいたといいます。

 鎌倉時代の初めの文治建久年間のころ、陸奥の藤原奏(※泰の間
違い)衡(やすひら)と近親源頼朝の兵が平泉地方で戦いに敗れ、
討ち取られます。その後一族はひそかに逃げ切り、山道をたどり、
はるばるここまでやってきてこの地に定住しました。年月が経るに
従い、一族は次第に繁栄し勢力を張るようになり、里の名を「藤原
村」と称するようになったとあります(「利根川水源単独遡行」)。

【▼伝説・阿部三太郎秀貞】
 また武将に関する逸話を集めた『続武将感状記』(中古正説碎玉
話)という書物の「巻之四」によると、「上野国藤藁(ふじわら)
阿部三郎秀貞廉潔(れんけつ)之事」として、以下のようなことを
延べています。文の中で「安倍」と「阿部」が混在していますが、
室町時代の宝徳元年(1449〜51年)ころ、「安倍」から「阿部」
に改名した(という情報あり)ためでしょうか。そのまま記します。

 「上野国利根郡藤藁と云う所は、利根川の源にして山の嶺は越後
魚沼郡(ごおり)、陸奥国会津部に堺ふ。幽邃(ゆうすい)の僻地
なり。ここに阿部三太郎秀貞というものあり、安倍貞任の子孫なり
と云う」とあり、安倍貞任との関連も述べています。

 さらにつづいて、年月はさかのぼりますが、室町時代の応永年間
(1394〜1428年)、地元の利根郡の地頭が、利根川で網を打って
魚を捕っていますと、川上から藤と藁(わら)が流れてきました(藤
原との関連か?)。人が住んでいるはずのないこんな山奥から…、
不思議なことだと、川上へ行ってみると、人家が5、60軒あったと、
一族を発見した時のいきさつを記した文書も存在します。

【▼伝説・安倍貞任宗任】
 またその話に関連して、康平(平安中期・前九年の役)に、安倍
貞任・宗任が、その子孫や残党を引き連れ、山伝いにひそかにここ
に逃れてきました。そしてかくれ忍んで藤原集落をつくり、里人と
の交流もなく、500年あまりの年月を過ごしたのだという、安倍貞
任との具体的な話もあります。

▼平ヶ岳【データ】
★【所在地】
・群馬県利根郡みなかみ町(旧利根郡水上町)と新潟県魚沼市旧湯
之谷村各地区名(旧北魚沼郡湯之谷村)との境。上越線石打駅の東
33キロ。JR上越線小出駅からバス・奥只見ダムから船・尾瀬口か
ら7時間50分で平ヶ岳。二等三角点(2139.6m)と写真測量による
標高点(2141m・標石はない)がある。地形図に山名と三角点の標
高、標高点の標高と湿地記号の記載あり。

★【名山】
・深田久弥選定「日本百名山」(第26番選定):日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる。
・岩崎元郎選定「新日本百名山」(第38 番選定・新潟県)
・群馬県選定「ぐんま百名山」(第85番選定)
・田中澄江選定(1995年)「新・花の百名山」(第34 番選定)

★【地図】
・2万5千分の1地形図「平ヶ岳(日光)」or「尾瀬ヶ原(日光)」
(2図葉名と重なる)。



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『コンサイス日本山名辞典」(三省堂)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『続傷だらけの百名山』加藤久晴(リベルタ出版)1966年(昭和
41)
・『日本山岳風土記4・上信越国境の山々』(宝文館)1960年(昭
和35)「利根川水源単独遡行」
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本歴史地名大系10・群馬県の地名』尾崎喜左雄ほか(平凡社)
1987年(昭和62)
・『日本歴史地名大系15・新潟の地名』(平凡社)1986年(昭和61)
・『山の憶い出』(利根川水源地の山々)木暮理太郎:『日本山岳名
著全集2』(あかね書房)1962年(昭和37)
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 (主に画文著作で活動)
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