山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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1122号(百伝22)磐梯山「空海と怪物夫婦」

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1122号(百伝22)磐梯山「空海と怪物夫婦」

【説明本文】
 ちょっと言葉は古いですが、♪笹に黄金がなりさがる…と歌わ
れる福島県の会津磐梯山(1819m)。この山は福島県の苗代町・磐
梯町(合併せず)・北塩原村(合併せず)にまたがり、何度もの大
爆発をくりかえし、いまのような形になったといいます。数多く爆
発したなかでも1888年(明治21)の爆発は、かつてないほどの規
模。檜原湖、秋元湖、小野川湖の磐梯三湖はじめ、大小200もの湿
地や湖ができたのは、この時の噴火のせいだったそうです。

 山名の磐梯(ばんだい)とは岩(磐)のハシゴ(梯)だといい
ます。それも天に達するような磐梯(いわばしご)の意味だそう
です。天に達するとは大げさですが、この山は平安時代初期(大
同元・806年)の爆発以前はいまよりずっと標高があったらしい。

 東西の稜線から山頂までの標高を計算すると、だいたい2200m
位はあっただろうとされています。当時、2200mはやはり天に達
する高さだったでしょうね。また見る方角によっては「富士山」
の形に見えるといので「会津富士」ともいい、會津嶺(あいづね)
との別名もあります。

【▼展望】
 磐梯山も展望がよく、山頂からは360度の景色が望めます。東
を見れば、安達太良(あだたら)連峰、阿武隈(あぶくま)の山
々が、南には猪苗代湖や那須連峰、日光連山、そして時には富士
山も見られるといいます。さらに西方は遠くに飯豊(いいで)連
峰・南会津の山々、近くは猫魔ヶ岳(ねこまがたけ)。北を望めば
遠く朝日連峰・月山・鳥海山、眼下には裏磐梯の湖沼群が指呼の
うちです。

 かつては山頂に磐梯(いわはし)神社が建っていたといいます。
いま山頂には大きなケルンのような石が積まれ、その上に皇高天
原命と書かれた石祠があります。その下に、もとからその土地の
神(地主神)である「磐梯明神」の石碑が石の間にまつられ風雨
にさらされています。またこの石の下になってしまったのか、三
角点が60年もの間行方不明になっていました。いまある三角点は、
2010年(平成22)に新しく設置したものだそうです。

 磐梯山も高山植物が咲き乱れます。磐梯山にしか生育しないバ
ンダイクワガタ、ウスユキソウ、ミヤマキンバイ、ミヤマシャジ
ン、イワインチン、またハクサンチドリ、エゾオヤマリンドウ、
ヤマハタザオなどの花が見られます。

【▼雪形】
 この山にも雪形ができます。4月中旬、表磐梯からは虚無僧(こ
むそう)の雪形があらわれ、またその下にヘビの雪形も出ます。
さらに頂上東側斜面には、鉤(かぎ)の雪形があらわれるといい
ます。虚無僧の雪形は、天蓋(てんがい・編み笠)に長着物姿で、
尺八まで持っています。ヘビの雪形の尾は、磐梯町竜ヶ沢湧水あ
たりまで伸びているといいますから長く垂れ下がっています。ま
た南方からは、虚無僧姿でなく牛に見えるそうです。そのため「牛
雪」と呼ばれているそうです。

 この雪形がはっきりと見えるようになると、ふもとでは苗代(な
わしろ)に種をまいて、農作業を進めるのだそうです。湖南地方
でも虚無僧の雪形の様子をを見て種籾をまくといいます。しかし、
天候が不順で、4月下旬になっても形がはっきりせず、山肌が一
面に真っ白なときは1週間ほど作業を遅らせるといいます。無理
にまいても低温で「苗くされ」になるというのです(『猪苗代湖南
民俗誌』・『東北の山岳信仰』)。

【▼弘法大師】
 そもそも磐梯山は、平安時代初期には火山活動が活発で、噴火
の際の岩屑物などの爆発被害で、農作物の不作がつづきました。
山ろくの村では困り果て、磐梯山を病脳山(やまうさん)と呼ん
だそうです。そこへ弘法大師空海がやってきて、民心の安定と五
穀豊穣を祈願しました。

 福島県磐梯町にある「奥州会津恵日寺(慧日寺)縁起」にも、「磐
梯山、もとは病脳山(やまうさん)とて魔魅(まみ)住み居て常
に祟りをなし農産物を害せり。のみならず山麓に民家あまたあり
しに大同元年(806・平安初期)、大爆発を起こさせ月輪荘、更科
荘が一夜に湖に化し、溺死者数知れず。

 この災害を聞きて空海この地に来たりて、八田野稲荷の森にて
秘法を行せしにより、魔魅は別峰烏帽子岳に逃げ去りぬ。この時
山神、形を現しければ空海これを祝いて磐梯明神と称し、舞楽を
奏して明神と名づく」とあります(『新編会津風土記』による)。

【▼伝説@・手長足長】
 そんな記述からこんな伝説が残っています。その昔、病脳山(磐
梯山)と明神ヶ岳(1074m・柳津町と会津美里町(旧会津高田
町)?)とに両足を踏ん張って立つような怪物「足長」と、猪苗
代湖の水を手ですくって会津中にばらまく「手長」という夫婦の
怪物がすんでいました。

 この怪物は、いたずら好きの乱暴者で、雲を呼んでは会津一帯
を真っ暗にし嵐を起こすわ、作物を荒らすわで、村人は困り果て
ていました。そんなとき弘法大師空海がやってきました。大師は
村人の話を聞き、「それはお困りであろう。ひとつ拙僧が何とかし
て差し上げよう」と、病脳山の頂上に登って怪物夫婦に会って問
答をしたといいます。

 大師は手長足長に向かい、「お前たちは何でもできると威張って
いるようだが大きくなることができるか」といいいました。怪物
夫婦はあざ笑い、「なにお、それしき」とばかり、見る間に天まで
届く大きさになりました。それを見た大師は「大きくはなれるが、
わしの手の平に乗るような小さくはなれまい」。「何をいう。俺た
ちに出来ぬことはない」手長足長は、みるみる小さくなって大師
の手に乗りました。

 大師はすかさず用意していた石の箱に入れふたをして、呪文を
唱え出られなくしてしまいました。「お前たちは、いままでさんざ
ん悪いことをしてきた。本来なら許せぬが、み仏に免じて神とし
て磐梯の山中にまつってやる。これからは、人々のために尽くす
のだぞ」と、石の箱を山頂に埋め、磐梯明神として祭ったといい
ます(『日本伝説大系』)。

 人々のために何を尽くしたのかは知りませんが、いまでも磐梯
山頂に積まれた岩の間に、磐梯明神の石碑が埋められています。
空海に救われた村人は、山名を磐梯山と改名。山頂の肩にある弘
法清水と空海の大使像は、この伝説がもとになっているそうです。
やがて空海は山ろく(いまの福島県磐梯町)に恵日寺を建て、山
号を磐梯山としたという。空海がこの寺にとどまること3年、大
同5年(平安時代)、徳一に寺を継がせて京に帰った(「奥州会津
恵日寺縁起」)とあります。

 しかしこれについては何の証拠も残っていないというのです。
実際は、徳一上人が磐梯山爆発のために受けた災害鎮護のため、
恵日寺を建て、山の神、磐梯明神を鎮守としたものだろうという
ことになっています。

 何の証拠もないどころか、話のもとになっている「奥州会津恵
日寺縁起」は、恵日寺が真言宗に属するようになってからつくっ
たものというから困ります。だいいち、猪苗代湖がつくられたの
は何万年も前のことで、大同元年(806・平安初期)の噴火ででき
たのではないそうです。また「空海」と「徳一」は、あとを継が
せるような仲ではないといいます。

 それどころか「徳一」は、「空海」の真言宗の狭義について十一
の疑問をあげた「真言宗未決文」を著して空海と対決しています。
さらに磐梯山に薬師三尊を安置し、磐梯明神をまつり鎮守とし、「病
脳山(やもうさん)」を「磐梯山」に改名したとの伝承も怪しいと
いいます。それより弘法大師空海が会津に来たという史実がないと
きたもんだ。これでは何を信用していいのか分からなくなってしま
います。

【▼伝説A・爆発を予知した男】
 この山にはこんな伝説もあります。平安初期噴火以来、11世紀
も眠りつづけてきた福島県の磐梯山が、1888年(明治21)、に突然
爆発しました。その結果、いまの馬蹄形カルデラができたことは
有名ですよね。ところが、この爆発を予知した男がいるというの
です。

 爆発当日の明治21(1888)年7月15日、磐梯山の温泉で湯治を
楽しんでいる人たちがいました。しかしその中の1人の男が夕べ
から何か考え込んでいます。そして「何か胸騒ぎがする。あした
の朝早く山を下りると」いうのです。翌朝、男は仲間が「せっか
くきたのに」と、とめるのも聞かず家に帰っていきました。

 ふだんから奇行が目立つため、ほかの人たちは「またいつもの
くせがはじまった」と気にもとめませんでした。が、その後朝飯
を炊いていると、山の鳥やキツネ、ウサギがふもとに向かって一
斉に動きはじめたのです。不安になった一行は急きょ山を下りる
ことにしました。いまのJR磐越西線翁島駅近くまできたころ、
大音響とともに小磐梯山が吹っ飛び、北ろくの集落は埋没し、461
人もの死者を出してしまいました。

 その結果、岩屑流で裏磐梯にたくさんの沼や湖ができていまし
た。あとになって仲間たちはその男に「お前のおかげで助かった」
と涙を流して喜び合ったということです。この地震を予知した男
は、福島県湖南の秋山(いまの郡山市福良)に住む遠藤幾太郎と
いう人だったそうです。幾太郎はよく「稲荷の神憑(つ)き」に
なる人だったとありますが、なんとも不思議な話ですね。

 ある年の10月、磐梯山は紅葉がまっ盛り。裏磐梯五色沼近くの
キャンプ場にテントを張りっぱなしにして、五色の沼の色をめで
ながらスキー場から磐梯山に登りました。茶色になって白煙をは
き、キツイ硫黄の臭いを嗅ぎながら、登山道わきの赤く熟したア
キグミを摘んで口に運びます。中ノ湯あたりから地元中学生の集
団登山と出くわしました。

 ワイワイガヤガヤ、歩いている登山道のを子どもたちが追い抜
いてうっとうしい。弘法清水小屋前はそのほかの登山者も混じっ
てそれこそ芋を洗うようです。それからは道も一段と細くなり、
押すな押すなのにぎやかさになってしまいました。山頂へ登る階
段は順番待ちの列。足長どころか「くび長」になるありさまでし
た。


▼磐梯山【データ】
★【所在地】
・福島県耶麻郡猪苗代町と福島県耶麻郡磐梯町、福島県耶麻郡北
塩原村との境。磐越西線猪苗代駅の北西7キロ。JR磐越西線猪
苗代駅からバス、磐梯高原駅から歩いて4時間20分で会津磐梯山。
三等三角点(1818.6m)と皇高天原命の石碑、磐梯明神の石碑が
ある。地形図に山名との標高の記載あり。三角点より北方向450m
に弘法の清水と弘法清水小屋がある。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・三角点:北緯37度36分03.49秒、東経140度04分20.06秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「磐梯山(福島)」

【山行】
・某年10月19日(土・晴れ)



▼【参考文献】1122号
・『角川日本地名大辞典7・福島県』小林清治ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書・16』(修験道の伝承文化)五記重編 (名
著出版)1981年(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』:大日本地誌大系(第31)『新会津風土記2』
(雄山閣)1932年(昭和7)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本伝説大系第三巻・南奥羽・越後編』(山形・福島・新潟)
野村純一ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本歴史地名大系・7』(福島県の地名)(平凡社)1993年(平
成5)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
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