▼1120号(百伝20)吾妻山「「一切経山と白猿神伝説」
山形県と福島県にまたがる吾妻連峰は、東吾妻火山群(東吾妻山
・家形山・吾妻小富士・一切経山など)と西吾妻火山群(西吾妻山
・西大巓(だいてん)・東大巓・中吾妻山など)に分かれます。最
高峰は西吾妻山(2035m)。遠くから眺めた姿が一番美しいといわ
れる吾妻山には、神の使いといわれる白猿もすんでいるとか。
さて話は変わりますが、『日本書紀』(巻第七・景行天皇)に、
日本武尊(やまとかけるのみこと)が東国へ遠征のおり、長野県
と群馬県との境にある碓日嶺(うすいね・旧碓氷峠)に立ち、妻
をしのんで東南の方を望んで「あづまはや」と嘆いたという地名
起源説話があります。
ここ吾妻連峰にも同じようないい伝えがあり、『新編会津風土記』
(巻之五十一)に、「東吾妻・中吾妻・西吾妻とて三山相並び、西
吾妻は檜原村に属せり。昔日本武尊を祭れる社(吾妻神社)あり。
故に名けりと云(う)」と説明しています。日本武尊というと、や
はり「あづまはや」を連想するのでしょうか。
ただこの日本武尊が「あづまはや」と叫んだ場所は、『古事記』(中
つ巻)では、静岡と神奈川県境の足柄の坂本(足柄峠)となってい
ます。そのほか、鳥居峠(とりいとうげ・長野県上田市と群馬県嬬
恋村の境)、入山峠(いりやまとうげ・長野県軽井沢町と群馬県松
井田町の境)などとする説もあるようですが……。
それはともかく、吾妻連峰の「吾妻」の山名由来にはこんな説明
もあります。この連峰の東にある一切経山(いっさいきょうざん)
と家形山(いえがたやま)を、福島市方面から見ると四阿(あず
ま屋)の屋根の形に似ています。そこでついた名前が「吾妻山」
だという説です。そのほかに、アイヌ語の輝く湖を指す「アトマ」
がなまったという説もありますが、この泉はどこなのか不明だそ
うです。
またこの連峰の一角にある、家形山(いえがたやま)と一切経山
(いっさいきょうざん)のふたつの山は、福島市方面から見ると「あ
ずま屋」の屋根の形に似ています。そこで「吾妻山」との名がつ
いたという説もあります。この山は見方によっては大きな牛が寝
ているようでもあります。
その一切経山はいまも火山活動を続けている活火山。山頂は岩
礫で覆われ、草木も生えずいまでも噴煙を上げています。ここは
吾妻山大巓(だいてん)とか思山(ものおもいやま)ともいい、
昔はここが吾妻山の主峰とされていたとか。ここには弘法大師空
海の伝説もあります。
その昔空海が、いまの和歌山県の高野山のような霊場にふさわし
いところを探して全国を行脚していました。やがて一切経山がいい
とやってきましたが、山頂が狭く行場や伽藍を建てる場所がありま
せん。そこで頂きに一切経(いっさいきょう)という経・律・論
の三蔵全部、7千余巻のお経を埋めてあきらめたといいます。
また別の説では吾妻屋岳(家形山と一切経山)の神が、山道を大
勢の人や馬が通るのを嫌って、暑さ寒さなど異常な気象にしたり、
大雨を降らしたりし、ふもとの信夫郡一帯の農作物に影響を与え、
村人たちを困らせました。
それを聞いた信夫郡内大笹生村(おおざそうむら)の蓮光寺を
建てた勇猛法師が、郡内の人々を救うためお経を一字一字、石に
書き写し一切経山に経塚を築いたということです(『信達一統志』)。
この勇猛法師は、平安時代、前九年の役(1051〜1062年)を起こ
した東北地方の豪族・阿部貞任(あべのさだとう)だという説も
あります
ところでふつう吾妻山といえば、最高峰の西吾妻山を指してい
るとか。西吾妻山の山頂は針葉樹におおわれ、展望はききません
が、すこし北方におりれば天狗岩や、西に飯豊連峰、その北に朝
日連峰が望めます。北側の天狗岩には吾妻神社(吾妻明神)があ
って、祠というよりは社のようなりっぱさです。
まわりの石垣にすっぽりかこまれ、東方を向いています(神社
や祠はまつった村の方向を向く)。吾妻神社のいまの祭神は、大国
主命(おおくにぬしのみこと)ともいわれる大己貴神(おおなむ
ちのかみ・大穴牟遅神とも書く)を主祭神に、日本武尊、菅原道
真(みちざね)から大物主命(おおものぬしのみこと)など、五
十数柱を祭るというにぎやかな神社です。
この吾妻神社(吾妻明神)は平安時代の「延喜式・えんぎしき」
の新明帳にも東屋沼神社、東屋国神社の名で出てくるそうです。
ここはのち、吾妻権現と呼ばれる修験道の信仰の基地になります。
天狗岩の地名もあるのはやはり修験に関係があるのでしょう。
さて先述のとおり、かつてはこの一帯、東吾妻山から南東の安
達太良山を結んだ線と、西吾妻山から南西の磐梯山へ結んだ線と
を合わせた広大な地域は、「吾妻信仰」の対象地域だったそうです。
修験道が盛んな時代には、「岳山(安達太良)かけ」とか、「いわ
のかけはし(磐梯)かけ」などのほか、登山コースがたくさんあ
ったといいます。
この広い地域には、中吾妻の吾妻権現、先述の西吾妻の天狗岩
には吾妻神社があり、また東屋国、東屋沼、賀籠山稲荷、大国主
命、蚕養などの神社があって、それぞれに祭神が当てられていま
す。これら一切の神さまを含めて「吾妻大権現」と呼ばれる山神
なのだったといいます。なお吾妻神社は、『新編会津風土記』にあ
るように、説話にもとづくのか、いまの碓氷峠の近くの群馬県吾
妻郡中之条町にも鎮座しています。
【▼白猿伝説】
余談ながら先述のようにこのあたり一帯には、「神の使い」とい
われた白猿がいまでもすんでいて、出合うと幸せになれるといい、
これは世界的にも知られた山だとか。この猿は、山形県米沢市の
天然記念物にもなっているとか。その白い猿をテーマにした小説『吾
妻の白猿神』(戸川幸夫動物物語)があります。直木賞作家の戸川幸
夫の作品で、猿ときこりの関わりを描いた物語で、西吾妻山や弥兵
平などの場所が舞台になっています。
【▼白布温泉】
この山は温泉にもめぐまれ、ふもとには「吾妻十湯」といわれ
る温泉があり、なかでも山形県側にある米沢の隠し湯とも称される
白布(しらぶ)温泉は、700年の歴史をもっているそうです。この
温泉は、天狗岩の北・中大巓からスキーリフトとロープウエイで
下ったところにあります。
ちなみに白布の名前の由来は、出羽国の荘司、佐藤常信という
人が重い眼病にかかり、觀音さまに祈ったところ、夢のお告げで白
布温泉を知り、行ってみると大鷹が湯浴びをしています。見ている
と大鷹の傷は次第に治り、元気になって飛び立っていきました。佐
藤常信は感心して「白斑(しらふ)の鷹湯」と命名。それが転じて
「白布」になったということです。
また西吾妻山、デコ平の南には小野川温泉(福島県側)がありま
す。ここは平安時代前期の女流歌人として有名な小野小町が開いた
といわれる温泉です。この付近には、ほかにも歴史をもつ温泉が多
い。
【▼伝説・安倍貞任】
先述一切経山の勇猛法師(阿部貞任)に関係があるのか、前九
年の役で、陸奥(むつ)を追われた安倍貞任(あべのさだとう)・
宗任(むねとう)の兄弟が、会津に逃れてきて吾妻山に立てこもっ
たという伝説があります。
安倍兄弟は、吾妻山の神(吾妻大権現)に祈願して、追討軍(大
将源義家とその息子、八幡太郎義家)に猛烈に抵抗しました。安倍
兄弟の祈願した吾妻大権現のせいか、その時一切経山が大噴火。山
は赤く焼け「紫の雪」が8尺(約2.5m)も降り積もったというこ
とです。
このため農作物は全滅で、その被害は奥州一帯にわたり、大勢の
餓死者を出すしまつ。怒ったのは大将頼義と八幡太郎。山伏たちの
峰入り修行の宿だった、猪苗代にある成就院や宿坊を焼き払い、安
倍兄弟を討ち死にさせました。その上吾妻山を封鎖し、人々の参詣
登山を禁止したというから相当のものです。
これは「千年の木戸塞ぎ」とか、「紫の豪雪による千年の足止め」
などと呼ばれて長く伝承されました。ところが歴史上では「前九年
の役」が終わったのは康平5年(1062)になっており、安倍貞任は
厨川(くりやがわ)の柵(き・盛岡市)で討たれ、宗任はとられら
れています。しかし会津地方では安倍兄弟の伝承があちこちに伝え
られ、いまでも「紫の雪」の話も根強く残っています。
【▼伝説・種まきウサギ】吾妻小富士
吾妻連峰にも雪形が出ます。福島市と磐梯高原に通じる磐梯吾妻
スカイラインの中間点にある浄土平。ここは標高1600mの高山地
帯で駐車場もあり、高山植物や野鳥、星空観察にも最適とあって観
光客に人気があります。
そのすぐ近くに富士山を小形にしたようなその名も吾妻吾妻小富
士があります。ふもとにモモの花が咲き、山の雪も解けはじまる早
春、北の斜面に「種まきウサギ」とか「雪ウサギ」とも呼ばれる雪
形が残るようになります。
かつて山ろくの村人は、この雪形が出ると春が来たことを知り、
苗代(なわしろ)に種まきをはじめました。また福島市飯坂集落に
は「このころになると遅霜の心配がなくなる」ということわざもあ
るそうです。
ここにはこんな伝説があります。むかし山ろくの田沢村兎田とい
うところに、身寄りのない子どもがおり、兎の親子を育てていまし
た。ちょうどそのころこの一帯は干ばつが続き、村人といっしょに
その子も裏山に登って雨乞いをしました。
「兎田の子」が上空を見ると、飼っていた親子の兎がトビにわし
づかみにされて、山の方に連れて行かれているところです。子ども
はあわててトビが飛んでいった方角に走り出しました。その飛んで
いった方を見ると、あの吾妻小富士に雪形があらわれていました。
兎は吾妻のお山の神になっていたのです。
子どもが山を降りて家に帰ると、家の前にある岩屋の穴から水が
あふれるように湧き出しているではありませんか。この日照りの中
の貴重な水です。村中が大喜び。早速水を田んぼに引いて、稲の種
をまくことができました。それからというもの、人々は吾妻小富士
にあらわれる雪形を「種まき兎」と呼ぶようになったといことです。
▼西吾妻山【データ】
★【所在地】
・福島県耶麻郡北塩原村と山形県米沢市との境。奥羽本線峠駅の
南西11キロ。山形新幹線米沢駅からバス、白布温泉から4時間30
分で西吾妻山。写真測量による標高点(2035m)のみがある。山
頂直下西吾妻小屋(無人)がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・標高点:北緯37度44分17.39秒、東経140度8分26.71秒
★地図
・2万5千分の1地形図「吾妻山(福島)」
▼【参考文献】
・『吾妻山の歴史」榊原源隆(猪苗代町教育委員会提供の資料)
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『角川日本地名大辞典7・福島県』小林清治ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『古今著聞集』橘成季著(永積安明ほか校注「古今著聞集」「日
本古典文学大系84」(岩波書店)
・『古事記』上つ巻:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮
一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『コンサイス日本山名辞典』(三省堂)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘編
(名著
出版)1977年(昭和52)
・『信達一統志』(『信達志』)(志田正徳著):江戸時代天保12年
(1841)成立。福島県信夫郡、伊達郡の歴史をまとめた郷土誌:福
島市史資料叢書(第30輯)福島市史編纂委員会編(福島市教育委
員会)1977年(昭和52)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』1809(文化6)年編纂:「大日本地誌大系第3
1『新編会津風土記・弐』(雄山閣)1932年(昭和7)
・『新編会津風土記』1809(文化6)年編纂:「大日本地誌大系第3
2『新編会津風土記・参』(雄山閣)1932年(昭和7)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀』(二)(校注
坂本太郎ほか)(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本大百科全書・3』(小学館)1985年(昭和60)
・『日本歴史地名大系7・福島県の地名』(平凡社)1993年(平成
5)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)
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