山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1119号(百伝19)飯豊山「飯豊神社と地獄への穴」

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▼1119号(百伝19)飯豊山「飯豊神社と地獄への穴」

【本文】
▼山旅【画ッ展】1119号-(百伝019)飯豊山「飯豊神社と地獄へ
の穴」(画展・飯豊山総合文)(続・神紀行ナシ)(霊山009)
 東北の山形・福島・新潟の三県にまたがる飯豊(いいで)連峰は
山容が雄大で、長さは南北に20キロにもおよんでいます。南から
地蔵山、三国岳、種蒔山(たねまきやま)、草履塚(ぞうりづか)、
主峰の飯豊山(2105m)、南西に御西岳、最高峰の大日岳(2128m)、
西大日岳があります。

 さらに北西に烏帽子岳(えぼしだけ)、北股岳、門内岳(もんな
いだけ)、地神山、大石岳、?差岳(えぶりさしだけ)とつづきま
す。これら数ある峰々のなかで最高峰は大日岳ですが、主峰とされ
のは飯豊山です。また単に「お山」とも呼ばれ、大昔から修験道
の聖地として信仰されてきました。

 飯豊山は、飯豊本山・飯出山・四季山などとも呼ばれています。
飯豊山の名の由来は、この山の西斜面、新潟県北蒲原郡(きたか
んばらぐん)内に温泉があり「湯出・ゆいで」からきているとい
います。また山が飯を盛ったような形だからとの説(『会津正統記』)
もあります。この「飯」が稲に通じるため、稲作信仰の山として
も信仰の対象になっています。さらに夏に登ると万年雪やお花畑
があり、風は秋を思わせるように冷たいので信者たちは四季山と
いったといいます。

 一方、『陸奥国風土記』逸文(いつぶん・原文がほとんどなくな
って世に一部分しか伝わっていない文章)の「飯豊山」には、「此
(こ)の山は、豊岡姫命(とよおかひめのこと)の忌庭(ゆには)
なり。又、飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、物部臣(もののべ
のおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉(たてまつ)らしめたま
ひき。故(かれ)、山の名と為(な)す。…

 …古翁(ふるおきな)の曰(い)へらく、昔、巻向(まきむく)
の珠城(たまき)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(す
めらみこと)の二十七年、戊午(つちのえうま)のとし、秋(と
し)飢餓(う)ゑて、人民(たみ)多(おほ)く亡(う)せき。
故(かれ)、宇恵々山(うゑゑやま)と云(い)ひき。後、名を改
めて豊田(とよだ)と云(い)ひ、又飯豊(いひとよ)と云ふ(大
善院舊記)」との一文も見えます。

 そこから豊岡姫命(とよおかひめのこと)・飯豊青尊(いひとよ
あをのみこと)に由来する説もあるようです。あれれ、難しい世
界に迷い込んだかな。あまり素人が深入りしすぎると収拾のつか
なくなる、おそれ多い分野です。このあたりで退却させて下さり
ませ。

 飯豊山は、山形県と新潟県境にありながら、山頂一帯だけは福
島県耶麻郡山都町(いまは喜多方市山都町)の一部という飛び地
になっている奇妙な境界線です。ここは古くからの飯豊神社信仰
の山。山頂の飯豊神社の福島県里宮本殿は、旧山都町一ノ木(い
ちのき)にあります。そのため人々は昔から里宮のある福島県側
から奥ノ院へ登っていたため、三国岳から飯豊本山、御西岳先ま
での約8キロは、幅の狭い稜線づたいの細い登山道は、福島県の領
域になっているのだそうです。

 さて飯豊連峰の主峰・飯豊山頂近くに飯豊山神社があります。
その神社の社伝にはこんな話が伝わっています。時は飛鳥時代の
白雉(はくち)3年(652)、あの役行者(えんのぎょうじゃ)と
知道和尚(ちどうおしょう)がはじめて飯豊山に登頂。豊かに盛
った飯のような山なので「飯豊」と名づけ、飯豊山地を5神の王
子に見立てて、五子王(ごしおう)をまつり五社権現ととなえ、
山ろくの旧一ノ木村(いまの喜多方市山都町一ノ木)に薬師寺を
建てて別当寺としたといいます。

 五子王は、越王、つまり大彦命(おおひこのみこと)の転訛で、
古四王、腰王と同じものだと、柞木田龍善氏が『修験の山々』の
なかで、日本山岳会越後支部長の藤島玄氏の話として述べていま
す。また飯豊山を役行者と知道和尚が開山したあと、平安初期に
法相宗(ほっそうしゅう)の僧、徳一とあの弘法大師が中興した
とする古書もあります。

 別の伝承では、五社権現(五王子)は、一ノ王子、二ノ王子、
三ノ王子、四ノ王子、五ノ王子をいい、五ノ王子は御井命(みい
のみこと・井泉の神)だとし、「頂に五王子社あり、祭神御井命是
を合わせて五社権現と云」と『新編会津風土記』にあります。

 その祭神は、「一王子」が味耜高彦根命(あじすきたかひこねの
みこと)であり、神の本体とする本地仏(ほんじぶつ)は法界虚空
蔵だそうです。また「二王子」は下照姫命(したてるひめのみこと)
で、本地仏は金剛虚空蔵。「三王子」が事代主命(ことしろぬしの
みこと)で、本地仏は宝光虚空蔵としています。

 さらに「四王子」が高光姫命(たかてるひめのみこと)で、本地
仏は蓮華虚空蔵。「五王子」が御井命(みいのみこと)で、本地仏
は業用虚空蔵であるといいます。ただ明治になると、なぜか一王子
を御井神(みいのみこと)、二王子を味耜高彦根命(あじすきたか
ひこねのみこと)、五ノ王子が高照姫(たかてるひめ)などに変わ
ってしまっていてとまどいます。

 一方、飯豊山北ろく山形県小国町に残る伝承では、飯豊山の開
山はふたりの猟師になっていて、これがのちの知穎(影)上人・
南海上人ということになっています。このふたりは、中津川から
道を開き、?差岳(えぶりさしだけ)東北ろくの長者原への途中、
小国町片貝地区の白雲山不動院にお寺を建てました。そのため、
道者(どうしゃ・参詣者)が小国、長者原口、中津川口などから
列をなして参詣登山に訪れるようになったということです。

 ところが明治になり、神仏分離令が出され、廃仏棄釈(はいぶ
つきしゃく)の嵐が吹き荒れます。そのまま放っておけば五社権
現社は焼き討ちにも遭いかねません。そこで大慌てに慌てて仏教
系の「五社権現社」の名を「飯豊山神社」と名前を改め、祭神も
変えてしまいました。

 その結果、山ろくの各神社との間や、また地域と地域の間の連
絡をとる暇がありませんでした。そのため、焼き討ちからまぬが
れたものの、頂上本社と山ろくの神社、それも地域によって祭る
神の名前がまちまちのなってしまいました。いま山ろくの神社に
よって祭る神の名前が異なるのは、その時のあわてぶりを示すも
のでしょうか。

【▼伝説・草履塚】姥権
 さて、飯豊山山頂から東南に下って約1時間、草履(ぞうり)
塚というピークがあります。かつては剱神社と草履小屋があった
ところだそうで、お山の飯豊神社にお参りに来た人は、ここで草
履をはきかえてから出発したという。7月末、ギラギラと真夏の
太陽が照りつけます。まだ8時だというのにもう汗だくです。登
山道を歩いていての突然の下り、降りついた所に妙な石仏があり
ます。

 その昔、羽前の国小松(いまの山形県東置賜郡川西町)出身の
ある老女が飯豊山に登りたい一念で女人禁制を犯して、ここまで
やって来ましたが、神の怒りにふれてむなしく石にされたという
伝説がある姥権(うばごん)です。女性は石にされたあとも生ま
れ故郷の小松の人が登ってくると姥権は、なつかしいふるさと思
い出し雨を降らせるということです。

 かつては女性が信仰の山に登ることは神を冒涜する行為とされ、
女人禁制の山が多くありました。それでも勇気ある「おてんば」
が禁を犯して山に入り、神罰にあたったという話はよく耳にしま
す。草履塚は細長い葉の茂った草が繁茂する石垣になっています。
その中に風化した石像が、体を布にまかれすごい形相をしていま
す。

 姥権はハンカチやタオルをまき、うつむいた顔が異様な姿だけ
に無念さが伝わる石像でした。女人禁制のこの山に、女性がはじ
めてのぼった記録は、1915(大正4)年、福島県会津女子高校出
身の当時の若松門田村の猪股某サン18歳だったそうです。

【▼伝説・御秘所】
 話は変わりますが、この山のお山駆けは8月から9月に行われ
たそうです。お山駆けの途中で、一行からはぐれたり事故があっ
たりし、同行者に迷惑をかけると、平素の行いがよくないから神
罰にあったとされ、下山後も汚名をきせられたというから厳しい
ものです。事実、飯豊山ではよく神隠しにあったといいます。そ
れはほとんど、姥権現の少し上部の「御秘所(オヒソ)」というと
ころで起こるといいます。

 このあたりは草履塚・姥の前などを含め「無間ヶ岳」と呼ばれ、
とくに御秘所は、この山の最大の危険箇所でした。御秘所を越え
るにはかつては上段・中段・下段の三つのコースがありました。
上段は頂き近くを通る比較的楽なコース。中段は絶壁になってい
る岩壁に体を密着させながら通過する危険なもの。このコースは
岩壁をへずりながら通過したといいます。

 下段のコースは岩裾をたどり最も楽な道ながら、ここには無限
地獄に通じる「口無し穴」があるというのです。この穴は見ても
見えない、聞かれても語りようのないものだという。ここに落ち
れば二度とこの世には帰れないところ。そのため、見るな語るな、
語らば聞くなの「御秘所」だったということです。

【▼山ろくの伝説@】
 このあたりにもいろいろな伝説が残っています。飯豊山系?差岳
(えぶりさしだけ)の西山ろく、新潟県胎内市旧黒川村に伝わる話
です。むかし、村を流れる胎内川のほとりに大きな榧(かや)の木
の林がありました。その木には洞があって白狐が一匹すんでいまし
た。

 ある時、舘村(いまは新発田市)の与五郎という人が、用事を済
ませた帰り、ここを榧の木の林のあたりを通りかかりました。する
と狐が犬に追われて逃げてきて与五郎に助けを求めてきました。与
五郎は犬を追いはらい、林の中へ狐を逃がしてやりました。

 話変わって近江新(いまの胎内市近江新)に与茂というお百姓が
いました。与茂には「すまよ」という美人の娘がいました。娘の「す
まよ」は越後の黒川藩の家臣、保科家に奉公していました。保科家
の息子、「良助」は「すまよ」の美しさにひかれ、ふたりはお互い
に思い合いようになりました。

 しかし、保科家の当主・良助の父親は身分が違うといって猛反対。
「すまよ」を家から追い出してしまったのです。親の元に帰ったす
まよは、良助のことが忘れられず毎日泣いていました。いっそのこ
と胎内川で死んでしまおうと、いままさに川に飛び込もうとしたと
き、だれかが抱きとめられたのでした。

 見ると若い女の人でした。その人は、自分も川に身を投げようと
ここにきたのだと身の上話をはじめました。「黒川の地に嫁入りし
たのですが、お姑さんと間がうまくいかず、つらい毎日がつづいて
とうとう……」と胎内川に来たことを話しました。

 「すまよ」は、同じように悩んでいる人に出会って心がゆるみ、
川に飛び込むことに思いとどまりました。ふたりはうちとけて、そ
の夜は、榧(かや)の木の林で語りあって過ごしました。しかしこ
の女の人は実は、この林にすむ白狐だったのです。

 白狐が化けた女は、翌日、すまよを連れて以前助けてくれた舘村
の与五郎のところに行き、新潟に奉公に行きたいといい、世話を頼
みました。与五郎は、すまよと白狐の女を新潟の大店・大津屋に世
話をしました。美人のふたりの女を紹介された大津屋の旦那はとて
も喜び、百両という大金を与五郎へ払いました。

 やがて美女がふたりもいる大津屋は大評判、店はにぎわいました。
ある時、評判を聞きつけて大金持ちの旦那がやってきました。ふた
りをぜひうちにいただきたいと、とんでもない大金を出しました。
大津屋の主人は承知し、ふたりは大金持ちに連れて行かれました。

 大津屋は「これは儲かった」と大喜び。しかし、あとでよく見る
とお金はみんな木の葉に変わっていました。あの白狐が葉っぱをお
金に変えていたのでした。その後「すまよ」は、山形の「三郎助」
という商人と夫婦になって、平和に暮らしていました。

 三郎助とすまよ夫婦は仲良く暮らしていましたが、ある日、ふた
りは、大桜峠(いまの新発田市貝屋と胎内市長橋の間)で、突然盗
賊に襲われました。盗賊たちは三郎助をしばりあげ、すまよをさら
おうとしました。ちょうどそこを通りかかったのが、村上城主本庄
繁長の行列。

 武士たちは、盗賊どもをしばりあげて、ふたりを助け出しました。
しかし、盗賊たちが気がついてみると、自分たちは縛られてはおら
ず、ただ藤づるの中に座っているだけでした。これも白狐が化かし
たものだったのです。

 一方、すまよと狐の女の美女を大津屋に紹介し、百両をもらった
与五郎は、とうとう大金持ちになりました。与五郎は「これは白狐
のおかげ」だと狐に感謝、神社を建てて稲荷大明神としてまつり、
毎日お参りをつづけたということです。

▼飯豊本山【データ】
★【所在地】
・御西小屋までは福島県喜多方市山都町(旧耶麻郡山都町)。それ
から先は山形県西置賜郡小国町と新潟県東蒲原郡阿賀町(旧東蒲
原郡鹿瀬町)との境。磐越西線山都駅の北25キロ。JR磐越西線
山都駅かタクシー・川入りからのべ8時間30分で飯豊本山。一等
三角点(2105.1m)と飯豊山神社と本山小屋がある。地形図に山
名と三角点の標高のみ記載。三角点より東方向直線約622mに飯豊
山神社と本山小屋がある。

★【ご利益】
・飯豊山神社奥宮:五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、身体堅固。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・三角点:北緯37度51分17.41秒、東経139度42分25.54秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「飯豊山(新潟)」

▼【参考文献】
・『会津資料叢書』(第4)「会津旧事雑考」(第1〜3)菊池研介編
(会津資料保存会)大正7(1918)年〜大正9(1920)年。国立国
会図書館デジタルコレクション
・『角川日本地名大辞典7・福島県』小林清治ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)
1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書7』(東北霊山と修験道)月光善弘(がっ
こうよしひろ)編(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・「山岳信仰の構造(飯豊山登拝をめぐって)」鈴木岩弓。雑誌「論
集」巻6(21〜p38)1979年(昭和54)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編会津風土記』(2)(1809年・文化6編纂):大日本地誌大
系31『新編会津風土記・弐』花見朔巳校訂(雄山閣)1932年(昭
和7)
・『新編会津風土記』(3)(1809年・文化6編纂):大日本地誌大
系32『新編会津風土記・参』花見朔巳校訂(雄山閣)1932年(昭
和7)
・『新編会津風土記』(5)(1809年・文化6編纂):大日本地誌大
系第34『新会津風土記・5』(雄山閣)昭和45(1970)年
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系6・山形県の地名』(平凡社)1990年(平成
2)
・『日本歴史地名大系7・福島県の地名』(平凡社)1993年(平成
5)
・『陸奥国風土記・逸文』:『風土記』秋本吉郎(岩波書店)1993年
(平成5)
・「陸奥国風土記逸文」:『古本風土記逸文』所収(電子デジタル)
・『風土記』秋本吉郎(岩波書店)1993年(平成5)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室