山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1118号(百伝18)蔵王山「奈良吉野金峰山と雪入道」

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▼1118号(百伝18)蔵王山「奈良吉野金峰山と雪入道」

【本文】
 蔵王山は1950年(昭和25)に「毎日新聞」の「観光地百選・山
岳の部」で第1位に選定されてから、1962年(昭和37)蔵王エコ
ーラインなど交通施設やスキー場の整備が進んで観光地として発
展。有名な杉ヶ峰付近の樹氷やスキーヤーに好まれる雪質、また温
泉の存在などから有数のスキー場として、最近はいろいろな観光施
設もでき、四季を通じた観光地となっています。

 蔵王山は、宮城県と山形両県を分ける連峰の総称です。蔵王連峰
の分け方にいくつかあり、宮城県側の部分を「宮城蔵王」、山形県
側を「山形蔵王」と呼んだり、また蔵王連峰を南北に分け「北蔵王」、
「南蔵王」と区分します。さらに有名な御釜などがある部分を「中
央蔵王」とし、その東西南北を東蔵王、西蔵王、南蔵王、北蔵王の
五つに区分する見方もあるというからちょっとややこしくなりま
す。

 そこで三省堂の『日本山名事典』の記述を参考にさせて戴きます。
蔵王山は、宮城県側蔵王町を流れる松川の支流澄川と、やはり宮城
県側七ヶ宿ダムから北上する横川上流の谷を境にして、「北蔵王」
と「南蔵王」に分けるのだそうです。早い話が蔵王エコーラインを
境に北と南に分けます。ただ、単に「蔵王」といえば「北蔵王」を
さすのが一般的だといいます。

 さて「北蔵王」は火山湖の御釜と、火口丘の五色岳をとり巻いた
最高峰の熊野岳(1841m)・刈田岳(かっただけ)など「馬の背」
の外輪山、さらにもっと北にある、蔵王温泉・龍山も含んでいると
いいます。一方「南蔵王」は馬ノ神岳・水引入道山を中央火口丘に、
まわりを杉ヶ峰・後烏帽子岳・前烏帽子岳・不忘山がなどが外輪山
として取り巻いています。


 蔵王山も噴火の山で、有史以来34回とも47回ともいう暴れ山。
いまも御釜の北東部丸山沢では噴気活動がつづいています。この山
の噴火の記録は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』(巻廿七)にあるの
が最初だといいます。

 その寛喜(かんぎ)2年(1230・鎌倉時代)11月8日条に、「八
日、乙未(きのとひつじ)、晴れ、大進僧都(だいしんそうず)観
基、御所に参じて申して云ふ、去月(10月)十六日夜半、陸奥国
柴田郡に、石雨の如く下ると云々、件の石一つ、将軍家に進ず、大
さ柚の如くにて細長なり、廉(かど)有り、石下る事廿餘里と云々」
とあります。ユズの大きさの石が雨のように降ってきたというから
ただごとではありません。

 蔵王山は、昔は不忘山(わすれずのやま)、刈田嶺(かったみね)
とも呼ばれていました。飛鳥時代の680年(天武8)、役行者(え
んのぎょうじゃ)の叔父の願行(がんぎょう)という修行僧が、吉
野(奈良県)の金峰山(きんぷせん)から蔵王権現(ざおうごんげ
ん)を勧請(かんじょう・神仏の分霊を移しまつる)してから蔵王
山と呼ばれるようになったといいます。

 蔵王権現とは、役行者が修行中に感得した修験道の神さまです。
その姿は、三眼憤怒(ふんぬ)の形相で右足を持ち上げ、右手は三
鈷杵(さんこしょ)を振り上げ、検印を結んだ左手を腰に当ててい
ます。そもそも奈良時代、修験道の役行者小角(おづぬ)が、苦し
む人たちを救うためにふさわしい神を求めて奈良県吉野の金峰山
(きんぷせん)に籠もりました。


 そして苦行難行のうちに感得した悪魔降伏(ごうぶく)の菩薩さ
まだそうです。これは仏典には説かれていない日本独自の神だそう
です。ご利益は魔障除去、怨敵退散、所願成就、商売繁盛、事業繁
栄とされています。

 役行者が蔵王権現を感得するまでの様子です。行者は岩屋のなか
に座って「この山の権現として、金峰鎮護の霊神となるべき端相を
あらわし給え」と祈ったところ、最初に弁天さまがあらわれました。
行者は「女性で優しすぎる」と、さらに祈ると天女は天河(てんか
わ)に去っていきました。これが奈良県天川村の天河弁財天になっ
たのだそうです。

 次に地蔵菩薩が出現しました。しかし行者は「温和で厳しさがな
い」といってさらに祈りつづけました。すると、突然天地が振動し
て蔵王権現が湧出したのです。それは釈迦と観音と弥勒が合体した
像でした。行者はその像を見て大いに喜び、その姿をサクラの木に
彫って吉野の金峯山寺蔵王堂まつったとされています。

 ちょっと話が脱線しました。元に戻します。蔵王権現が奈良の吉
野から勧請(かんじょう)される前、蔵王は「わすれずの山」と呼
ばれていたのは先にも書きました。清少納言の『枕草子』山づくし
には「山は、小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。
鹿背山。ひはの山。かたさり山こそ、誰に所おきけるにかと、をか
しけれ」とあり、「わすれずの山」として挙げられ、蔵王連峰は中
央貴族にも知られていたようです。


 しかし、この「わすれずの山」が、蔵王山のどの峰を指すのかは
っきりしないのです。明治時代の地理書・紀行文の『日本名勝地誌』
に、「不忘山……本名を刈田岳と云う。刈田嶺(ね)の古社あるを
もってなり。……中世より専ら蔵王山という。蔵王権現をまつるを
もってこの名あり。……枕草子等に見えたる奥州名區の一にして、
歌書にはいわゆる、わすれずの山これなるべし。……」とあります。

 その刈田嶺の古社とは、いま刈田岳山頂にまつられている刈田嶺
神社(かつては蔵王権現社)のことだそうです。遠くからみると最
高峰の熊野岳より刈田岳の方が目立ち、昔は蔵王山といえば刈田岳
を指すことが多かったらしいです。ここの神、苅田神は、平安初期
からお上から神封(じんぷ・住民が租税や課役を神社に納める)が
与えられたり、神社としての階級を貰ったりしていたといいます。

 ところが、遠刈田温泉の南東にそびえる独立峰の青麻山(あおそ
やま・大刈田山)が本当の「刈田嶺」だという説があるのです。青
麻山は、昔は薬師ヶ嶺とともいい、山頂に白鳥明神の古社があった
といます。ここは799mと標高は低いですが、南ろくの白石市あた
りから見るとすぐ西側の山と双耳なってよく目立ちます。

 そして南ろくの蔵王町宮(みや)地区には、この地方第一の大社
「刈田嶺神社」もあります。そしてまた蔵王町にある遠刈田温泉に
も同名の「刈田嶺神社」があります。これらの神社がその昔歌枕と
しての「わすれずの山」の歴史に関係していたらしい。


 古代の刈田嶺神社は、幾多の変遷を経て中世以降、「蔵王権現社」
は仏教主導の蔵王権現信仰として栄えて来ました。それが、明治初
年(1868)の神仏分離で蔵王権現は「水分(みまくり)神社」にな
り、また刈田嶺神社に改名。その間に廃仏棄釈の嵐の中で、古代刈
田嶺神社の寺務を治めた蓮蔵寺などの貴重な古記録が失ってしま
い、いまではどの山が「わすれずの山」かも分からなくなってしま
いました。

 さて、蔵王にも春になれば雪形があらわれます。5月初旬の種蒔
きころから6月ころ、白石地方から見て南蔵王の真ん中あたりの「水
引入道」(1856m)という山の東斜面に、「蒔き入道」とか「入道
坊主」「雪入道」とかいう残雪模様があらわれます。村人はそれを
見て、苗代に種もみを蒔いたという。

 雪形はその年によって杖をついたり、傘を持ってあらわれたりす
るという。杖を持つ雪形があらわれた年は日照り、傘の時は雨が多
い年になるということです。また、第2次世界大戦末期の1945年
(昭和20)には、アメリカの軍機B29が3機も墜落し、アメリカ
将兵34人が死亡した事件もありました。

 宮城県蔵王町には次のような伝説があります。(1)蔵王町円田
地区に「根返しの桜」というのがあり、町指定天然記念物になって
います。鎌倉時代の1189年(文治5)、鎌倉源頼朝が奥州藤原氏を
攻めた「文治の役」の時、鎌倉から物資を運んできた牛が、ここま
で来たとき力つきて倒れ死んでしまいました。


 兵士らは牛を道の下に運んで葬り、その上に桜の木を植えて供養
しました。その木が成長し、見事な花を咲かせるようになりました。
ただこの桜、2015年(平成27)に根本から折れてしまい、いまは
切り株だけになってしまいました。

 (2)蔵王町には有名な遠刈田温泉(とおがったおんせん)が
あります。足腰の病気に効能があるとされ、昔は湯治場だったそう
です。その温泉の由来です。大昔、この町にある三階滝(さんかい
のたき)に大きなカニがすんでいました。カニは体が大きくなって
きて、自分の滝だけでは狭く窮屈です。そこでなんとかとなりの不
動滝を自分のものにしたいのですが、そこには大きなウナギがすん
でいます。

 でもどうしても手に入れたい。カニは、ウナギに不動滝をかけて、
戦いを挑みました。格闘の末、カニははさみで、ウナギの体を3つ
にちょん切ってしまいました。その時ウナギの尻尾が宙に舞い、遠
刈田温泉まで飛ばされていきました。こんなことから、遠刈田温泉
は腰の痛みや子どもに恵まれる温泉になったということです。



▼蔵王山【データ】
★【所在地】
・【刈田岳】は宮城県蔵王町と七ヶ宿町の境。JR奥羽本線かみの
やま温泉駅の東南東15キロ。【熊野岳】は山形県山形市と上山市の
境。JR奥羽本線かみのやま温泉駅の東14キロ。JR奥羽本線白
石蔵王駅からバス、蔵王ハイライン蔵王山頂終点。刈田岳。3等三
角点(1757.8m)と刈田嶺神社がある。さらに歩いて45分で熊野岳。
2等三角点(1840.3m)と、写真測量による標高点(1841m)と、
熊野神社がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・刈田岳三等三角点:北緯38度7分39.96秒、東経140度26分
53.46秒
・熊野岳標高点:北緯38度8分37.84秒、東経140度26分23.04

・熊野岳等三角点:北緯38度8分37.21秒、東経140度26分21.61


★【地図】
・2万5千分の1地形図:「蔵王山」


▼【参考文献】
・『吾妻鏡』:岩波文庫『吾妻鏡』(5)龍粛(りょうすすむ)訳注
(岩波書店)1997年(平成9)
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典4・宮城県』高橋富雄編(角川書店)1979
年(昭和54)
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)1981
年(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘(がっこ
うよしひろ)編 (名著出版)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本大百科全書・10』(小学館)1986年(昭和61)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系4・宮城県の地名』大塚徳郎ほか(平凡社)1987
年(昭和62)
・『日本歴史地名大系6・山形県の地名』(平凡社)1990年(平成2)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

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