▼1117号(百伝17)朝日岳「役行者と姉妹姫と天狗のすもう」
【本文】
山形県と新潟県の境界の一帯を占める朝日連峰。その中心の主
峰大朝日岳から西朝日岳、竜門山、寒江山(かんこうざん)、以東
岳へとつづく主稜と、枝分かれしたそれぞれの支尾根上に多くの
山々があり、その山域は南北60キロ・東西30キロにおよびます。
この連峰の主峰大朝日岳は剣頭(けんとう)山とも呼ばれてい
ます。これは見当(けんとう)山の意味といいます。よく目立つ
ため、交通の目標になります。時は安土桃山時代から江戸時代に
入ろうとする1598(慶長3)年、米沢城主・直江山城守はこの山
を目標にしながらの交通路「朝日軍道」をつくります。「八千の兵
を引き、黒鍬五百、熊斧(よぎ)三百、つるはし鎌の者千人を先
に立て…という大工事だったということです。その痕跡はいまで
も狐穴(まみあな)小屋、以東岳間に残っています。
朝日連峰も昔は信仰の山として栄え、各登山口には「坊」や神
社が多くあり、修験道も盛んでした。山の東ろく・山形県朝日町
大字大沼の集落にある大行院(いまの浮島稲荷神社)は、朝日岳
山伏の「総元締め」だったそうです。いまここは「大沼の浮島」
として名勝地になっています。
朝日修験が次第に盛んになっていきました。朝日連峰のとなり
の修験道として有名な「出羽三山」があります。出羽三山側から
見ると、となりの朝日修験の勢力が強大になっていくにつれ、目
障りでたまりません。ことあるごとに意地悪をし、邪魔だてしま
す。
時には、朝日修験のお堂をこわしたり、仏像を朝日川に投げ捨
ててしまうという腹黒さ。そして裏でひそかに暗躍、元鎌倉幕府
第5代執権で出家した、最明寺時頼(北条時頼)に取り入って、
朝日修験を弾圧するまでにもっていきます。その「朝日修験つぶ
し」はかなりの間つづき、ついに朝日修験の行者たちをことごと
く出羽三山参詣へと誘導してしまったということです。室町も末
期のことであります。
話は前後しますが、朝日修験盛んなころ、その総元締めの大行
院(いまの浮島稲荷神社)には「大沼大行院系図」というものが
残されています。それには、当山は斉明天皇(さいめい)6年(西
暦660・飛鳥時代)に、役行者小角が開基したと系図つきで記され
ているとか。
実際に『山岳宗教史研究叢書7』に「大沼大行院系図と朝日岳」
と題して渡辺茂蔵氏が「当山 開基役証覚 自本修験之元祖也、
斉明帝治天六庚申摂之箕面ニ於テ竜寿菩薩ニ謁シテ両部……」と
あり、役行者が開いたことを記しています。
また「大行院法脈書(お血脈書)」という文書にも、役行者が白鳳
9年(白鳳とは白雉年間の美称)に、出羽国(山形・秋田県)に
来て大沼の池に大沼大明神をまつったとあります。しかし白雉は
5年までで、9年はなく記述の間違いのようです。
ちなみに「朝日岩上来由記」という文書には、朝日岩上山(い
まの祝瓶(いわいがめ)山)も、天武天皇(673〜686年)の白鳳
年中に、やはり役ノ優婆塞(うばそく・役行者)が開山したとな
っています。その時、このあたりで一番早く朝日が当たる山を「朝
日岳」と名づけ、その山に「朝日権現」をまつったのだそうです。
役行者がこの時、あたりを見渡すといまの山形県朝日町大沼地
区にある沼(大沼)が目に入りました。その水面に浮いている浮
島(国指定の景勝地)に神意があると感じたのです。行者はここ
に弟子の覚道をおいて、自身は朝日岳と浮島の間を飛行して通っ
たとしています。
突拍子もない話ですが、この時代役行者が東北へ来た記録はある
のでしょうか。そこでこの話の信憑性を調べてみました。室町時
代以降にできたとされる『役行者本記』(えんのぎょうじゃほんぎ)
という本は、行者が開山した全国の山々を年代別に記載していま
す。その「第四 小角 経歴の部」の項に、「飛鳥時代の天智天皇
九年(670)、庚午(かのえうま)、小角は37歳。7月大峯を出発し
て、3日のうちに出羽の国の羽黒山に着いた。…
…それから、出羽の国の月山・湯殿山・金峯・鳥海山、奥州の秀
峯などを巡って、22日のちに大和に帰ってきた。およそ里数にし
て三千百里…」という文があります。上記『大沼大行院系図』の
斉明天皇6年(660)や、『朝日岩上来由記』の天武天皇(673〜686
年)とは少し違っていますが、もとの参考書自体に誤記があって、
年数がずれており、そんなところを考慮すると大体合っています。
ただ話は先にも書きましたが、あくまで「室町時代以降」に書か
れた本によるものです。
【▼伝説・大沼のヌシ】
ところで、役行者が神意を感じた浮島が浮かんでいる大沼地区
の池には、お姫さまとよばれるヌシがすんでいるというのです。
このお姫さまの正体は白い大蛇だといいます。このお姫さまはけ
がれを嫌い、掃除しているのでいつも沼のまわりはきれいなのだ
そうです。
ところが、このお姫さまを見たものはすぐ死ぬといううわさが
広まりました。そのため、ヌシのお姫さまが掃除をしている早朝
は、池の付近には行ってはいけないといういましめが、いまでも
あるということです。
ここに建っている大行院(いまは浮島稲荷神社)は雨の神さま
で、干ばつの時には雨乞い祭りをする場所になっていたそうです。
かつて日照りがつづき、村人が雨乞いをする時は、銅でつくった
「の」の字型の輪にした竜をつくって、沼に沈めて祈願したそう
です。
こんな修験が盛んだった朝日連峰も、鎌倉幕府に弾圧されてか
らは急激に消滅。この山地で、神社や祠などの信仰のあとはほと
んどなくなっています。いまその後をうかがわせるものは、鳥原
山の朝日神社と、1955年(昭和30)に大朝日小屋に分祀されたも
のと、連峰の一番南にある祝瓶山(いわいがめやま)の祈祷壇の
跡だけになっています。
【▼伝説・姉妹姫】
朝日岳にはこんな伝説があります。大昔、お天道さまのこども
に2人のお姫さまがいました。ある時、父の神はこの2人を朝日
岳と月山の神として、鎮座させることにしました。その話を聞い
た姫たちは、どちらも月山にいきたいといってゆずりませんでし
た。
困った父のお天道さまは2人にサクラの木を1本ずつ与え、「ど
ちらが早く咲くか、早く咲いた方が月山に行くがいい」といいま
した。日に日に桜の木は大きくなっていきました。ある日、姉姫
のサクラのつぼみがふくらみはじめました。
それを知った妹の姫は、夜中にこっそり、自分のサクラの木と
取り替えて植えてしまいました。やがてサクラの花が咲き、妹の
姫は「木花開耶姫」という名をもらい、月山にまつられました。
姉の姫は朝日岳にまつられることになりましたが、それ以来、姉
姫はことごとく盗みをする人を嫌い、この山には絶対近づけない
ということです(『山岳宗教史研究叢書16』)。木花開耶姫ってこん
な姫でしたっけ。
【▼伝説・天狗角力取山】
話は変わって、この山域には天狗が相撲をとる山があります。
北寒江山(かんこうざん)北の三方境から派生する尾根を二ツ石
山経由で、北東に行くと天狗角力取山(てんぐすもうとりやま)
というのがあります。ここには相撲を取る土俵のようなところが
あります。地元のいいつたえでは、正月の10日未明に、置賜地方
(おきたまちほう)と庄内、村山地方の天狗たちが相撲をとるた
めここに集まってくるといいます。
そして、またはるばる京都の鞍馬山から行司をつとめる天狗が
やって来るというのです。そして相撲が終わったら餅をついて食
べるため、村人は間違っても正月の10日はこの山に登らないよう
固く戒めているということです。
さらに、天狗角力取山の手前にある「二ツ石山」という山は、
昔、ここは朝日権現の天狗と、月山権現の天狗が法力くらべをし
た所だそうです。両天狗は秘術をつくし、ありとあらゆる技でわ
たりあいましたが勝負がつきません。ついに両方とも精根が尽き、
それぞれに石になってしまいました。それがここにある二ツ石で、
本当は「天狗石」というべきなのだそうです。
【▼伝説・蓮華往生】
そのほかこの山にはこのような言いつたえがあります。山形県西
村山郡大江町には、朝日権現へお参りに登る登拝口として栄えた
古寺集落があります。ここには「センゲン寺」という大きなお寺があ
り、その門前には千軒もの家ができるほどのにぎやかだったとい
います。
その大寺に住む修験者たちは「蓮華往生」という安楽死ができる
行をおこなっていました。安楽に往生できるというので、興味を持
つ人々が集まり、ますます繁昌していました。そのころ、もと鎌倉
幕府第5代執権だった北条時頼が出家して諸国めぐりをしていまし
たが旅の途中、「蓮華往生」の話を聞きつけました。
疑問を持った北条時頼が「センゲン寺」にやってきて様子をさぐ
ると、どう見てもこの行は村人の心をまどわす悪行です。時頼はた
だちにその寺を閉山させたということです。いまでもこの集落に
は「寺屋敷」とよぶ小さな台地があるそうです。
【▼天狗の爪】
また大沼の池に浮く浮島にある大行院(いまの浮島稲荷神社)
には「天狗の爪」というものが納められているそうです。大昔は
朝日岳につながる各峰々には天狗がたくさんすんでいたそうで、
この爪はそれに関係があるのか、朝日権現の使いということにな
っています。
【▼天狗の爪と髪】
ただこの爪の伝説は、納められている大行院の爪の伝承と大分
ちがい、ここにあるのは「爪と髪の毛」だというのです。大行院
の伝説では江戸時代前記のころ、月山のふもとの(いまの山形県
西川町)月山沢集落の山奥にすんでいた角力の名人(白髪の老人)
のものだといいます。
当時、その月山沢集落にすんでいた青年が、白髪の老人から角
力に勝てる秘術を受け、別れ際に「今後ともよりいっそう精進努
力せよ」といって、爪と髪の毛を渡されたとしています。これは
浮島稲荷神社神官の談話らしい(『山岳宗教史研究叢書16』)。
【▼伝説・弁慶の大笈】
そのほか、京から奥州へ都落ちした源義経主従のうち、弁慶ひ
とりが朝日岳へ登り、朝日権現を登拝したといいます。その帰り
にふもと大沼集落の修験の総元締めの大行院に、「弁慶の大笈」を
奉納していったという話もあります。
【▼伝説・姥様の石像】
さらに山形県朝日町の木川集落にほど近いところに「姥」とい
う地名の話です。ここは昔、朝日権現参りの盛んな時代、女人禁
制の禁を破って朝日岳に登ろうとして都から下ってきた貴人がい
ました。その付き添いの姥が行方不明、いくら探しても見つかり
ません。村人はあわれみ、姥の石像を建てて「姥様」と呼んで供
養した跡だそうです。
ある年の7月末、山形県朝日鉱泉への林道手前の白滝から鳥原
山へ登りはじめました。ことしの暑さは特別で、鳥原山までの樹林
帯の中のつづら折りの登山道。流れる汗は一通りではありません。
やがて朝日鉱泉、朝日岳神社からの道に合わさります。鳥原山を過
ぎると、日光をさえぎるものもなく、あまりの暑さにへばり気味。
同行者が登山道の途中で寝ころがる始末。
仕方なく大朝日岳手前の小朝日岳にテントを張りました。夕方、
赤トンボの群れがやけになれなれしく頭や手に止まります。前方に
大朝日岳がそびえています。翌日、銀玉水(ぎんぎょくすい)の水
場で水筒を満タンにし大朝日小屋へ。さすがお花畑が広がる金玉水
(きんぎょくすい)の水源あたり。花々をめぐる昆虫が多く、小屋
の入り口の戸は虫で真っ黒になっていました。
▼大朝日岳【データ】
【所在地】
・山形県西村山郡朝日町・同県西村山郡西川町と同県西置賜郡小国
町との境。JR左沢線寒河江駅バスターミナルからバス、宮宿待合
所からバス乗り継ぎ、朝日鉱泉下車歩いて5時間で大朝日岳。二等
三角点(1870.3m)がある。
【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステムから検索」
・三角点:北緯38度15分37.85秒、東経139度55分20.3秒
【地図】「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・2万5千分の1地形図「朝日岳(村上)」
▼【参考文献】
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『朝日岩上来由記』:@『山岳宗教史研究叢書16』に所収。:A『山
岳宗教史研究叢書17』に所収。
・『大沼大行院系図』:『山岳宗教史研究叢書7」に所収。
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)1981
年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書7」(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編
(名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修験道史料集1・東日本編)五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『修験の山々」柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「大行院法脈書」(お血脈書)『山岳宗教史研究叢書16』に所収
・『日本山岳風土記5・東北・北越の山々』(宝文館)1960年(昭
和35)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
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