▼1116号(百伝16) 月山「月山と出羽三山」
【説明本文】
各地の町や村を歩いていると神社やお寺に「出羽三山」の石碑が
目につきます。これは出羽三山の講社が参拝記念として供養塔を建
てたもの。東北や関東、新潟、長野県に多く分布しており、とくに
千葉県下総地方で盛んで、最近でも講を組んで行っていると聞きま
す。
私の生まれた千葉県八千代市にもたくさん「出羽三山」とか「羽
黒山」、「湯殿山」、「月山」の供養塔が建っていました。学校の帰り
に、ヤマブドウやガマズミなどをほおばりながら、塔のまわりでよ
く遊んだものでした。
出羽三山は、月山を中心に羽黒山、湯殿山の総称ですが、山らし
きものは月山だけです。羽黒山は月山のふもとの出羽丘陵の頂で、
湯殿山は月山山腹の崖から湧く温泉を神としています。三山のうち
最初に信仰されたのは月山だそうです。ここは万年雪が多く、夏ス
キー場としてもら有名な山。
月山は山形県東田川郡立川町、羽黒町と西村山郡西川町との境に
ある山。三角点は1979.8m(一等三角点)ですが、最高地点は1984
m(標高点)とになっていて、ともに月山神社の近くにあります。
また高山植物も豊富で、仏ヶ原、弥陀ヶ原などにオゼコウホネや
ミヤマキンバイ、ハクサンイチゲ、チングルマなどの群落が見られ
ます。とくに山頂付近のクロユリの群生は見事です。
月の神のこま犬はウサギ
月山の名は、農業の神の月読尊(つくよみのみこと・月読之命と
も)をまつったことによるということです。そのためか、8合目に
ある月山神社中之宮(中之宮神社)のこま犬はお使いのウサギでし
た。月にウサギはつきものですね。なるほど、なるほど。
月山は、異名を犂牛山(くろうしやま)、臥牛山(がぎゅうざん)
といい、山名は遠くから見るとウシが寝た形に似ていることに由来
するとこと。その首にあたるところが牛首。柴灯森、姥ヶ岳と下っ
て、装束場から月光坂を少し登ったところにあるのが湯殿山です。
山頂にまつられている月山神社は、奈良時代の宝亀4年(773)
には、お上から神封(じんぷ・神社に対して寄進された封戸・ふこ)
二戸を寄せられ、平安時代の貞観6年(864)2月、出羽国正四位
上勲六等月山神は従三位(み)に授けられたといいます。
同18年8月正三位という位をを叙(じょ)せられ、元慶2年(87
8)7月には鳥海山の大物忌(おおものいみ)の神ともに神封を2
戸加増され、翌8月には勲四等に進められたとものの本にあります。
また平安時代の『延喜式神名帳』(養老律令に対する施行細則を
集大成した古代法典)には、飽海郡(田川郡ではなく)の明神大社
として、鳥海山の大物忌(おおものいみ)神社と月山神社が記載さ
れているそうです。つまり格付けですね。ま、むずかしい話はとも
かく、それだけ月山は重要視されていたわけです。
月山神は「お父さん」から生まれた?
月山の山頂には月山神社があります。祭られている月読尊(つき
よみのみこと)という神さまの神話伝説に出てくる話です。天神七
代の最後の神であり、わが国最初の夫婦神ともいわれる神さまに、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと・夫)・伊弉冉尊(いざなみのみこと
・妻)がいます。伊耶那岐神・伊耶那美神とも書くそうです。
その妻神である伊弉冉尊(いざなみ・以下イザナミ)が火の神、
迦具土(かぐつち)の神を生んだため、大事なところを火傷してし
まい、それが原因で亡くなってしまいました。夫神の伊弉諾尊(い
ざなぎ・以下イザナギ)は妻が恋しく、黄泉(よみ)の国(あの世)
に逢いに行きました。
伊弉諾尊(イザナギ)が黄泉の国に着くとそこには御殿があり、
扉が閉じられていました。扉越しに「まだ国作りが終わっていない。
ふたりで一緒に帰ろう」と声をかけました。すると伊弉冉尊(イザ
ナミ)の声がして「私はすでにこの国(黄泉の国)の食べ物を食べ
しまいました。こちらの世界の住人になってしまいました」。
「でもあなたが、せっかく連れ戻しに来てくれたのですから、もと
の世界に戻れるかどうか、この国の神々に相談してみますのでちょ
っと待ててください。でもその間は決してこちらを見ないで下さ
い」。伊弉册尊(イザナミ)は念を押すようにいいました。
伊弉諾尊(イザナギ)は、いわれたとおり待っていましたが、い
くら待っても伊弉册尊(イザナミ)はあらわれません。待ちきれな
くなってしまった伊弉諾尊(イザナギ)は、約束を破り扉を開けて
御殿の中に入っていきました。そこでとんでもない妻の姿を見てし
まったのです。体中が腐敗し全身からウジがわいた見る影もなく変
わり果てた伊弉册尊(イザナミ)の姿。
その上、頭や胸、腹など、あらゆるところから恐ろしい形相の雷
神(いかづちがみ)が飛び出ていて、妻神はまるで鬼のようになっ
ていたのです。……伊弉諾尊(イザナギ)は、恐ろしくなって必死
にもとの世に逃げ帰りました。そして日向(ひむか)の橘の小門(お
ど)の阿波岐原(あわぎはら)とい所でまで来て穢(けがれ)を洗
い流しました。
そこで右の目を洗い清めたとき、月読尊(つきよみのみこと)が
生まれたというのです。この神は月暦を司る月界の主祭神というの
ですが、すると伊弉諾尊(イザナギ)はお母さんでもあるのですね。
この神、月読尊(つくよみのみこと・月読之命とも)は、五穀豊穣、
海上安全、家内安全にご利益があることになっているそうです。
出羽三山の開山
この三山を開山したのは、崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子とさ
れる蜂子皇子(はちのこのみこ・562年?生まれ)という人だといい
ます。この人は後に能除(のうじょ)太子と呼ばれています。山形
県鶴岡市の羽黒山山頂近くには蜂子皇子の墓もあります。蜂子の皇
子にはいろいろ伝説がありますので後述します。
ただ、羽黒山側の記録では、湯殿山の開山は、能除太子であると
していますが、湯殿山側の記録やその伝承では、すべて「弘法大師
空海」となっているそうです。出羽三山の中でも、その中に入ると
いろいろと確執があるのでしょうか。
同じ崇峻天皇のころ、聖徳太子が出羽の国の紫雲たなびく山中の
大スギの根元で正観音を発見、あたりを整地し懇ろに供養しました。
このころ、同じ崇峻天皇の皇子で、出家して能除(のうじょ)上人と
呼ばれる人がいました。ある日、能除上人は聖徳太子の言いつけで、
出羽の国に行き羽黒山を開山したというのです。
その後、役行者(えんのぎょうじゃ)がここに来て、能除仙人の
秘法を学び、奈良に帰り大峰修験の祖になったともいいます。(し
かしこれは中世以降、羽黒修験が権威づけのためにつくりだした話
だという人もいますが…)。
役行者も引き返した「行者返しの坂」
役行者の名が出てきましたので、ついでにここで、その脱線ばな
しを書かせて戴きます。月山周辺の地図を見ますと、月山の山頂北
側に「行者返しの坂」というところがあります。ここは、その役行
者が月山に登ろうとここまできたとき、月山の神があらわれたとい
います。
月山の神は「この山に登るなら、荒沢のの常火塔(鶴岡市羽黒町
の荒澤寺正善院?)で身を浄めてまいるがよい」と行者を戒(いま
し)めました。それを聞いた役行者は途中で引き返し、いわれたと
おり行をしてから改めて登ったという逸話のあるところだというこ
とです。
蜂子の皇子の逸話(1)
さてここに「出羽国羽黒山建立之次第」という文書があります。
これは、出羽三山開山関係の旧記・縁起書の中で最も古いといわれ
るものだそうです。それによればこの時代、聖徳太子は仏教の聖地
を求めて全国を回っていたことは前に書きました。聖徳太子がたま
たま夕暮れの峰に吉兆される紫色をした雲がたなびいているのを見
ました。そこへ行ってみると、突然、大スギの根元に正観音霊像が
湧出しました。聖徳太子は付近の草木を払って供養しました。
このころ、例の崇峻天皇の第三皇子参弗理(さんふり)の大臣と
いう皇子がいたのでした。この人は「御顔醜く、眦(まなじり)長
く髪の中に入り、うちは脇深く耳の根を通り、鼻は下ること一寸、
面の長さ一尺」もの異相の持ち主だったといいます。
そんな中で、父の崇峻天皇が曽我氏に殺されてしまいました。参
弗理の大臣は出家し、世をのがれ山中に籠もり般若心経(はんにゃ
しんぎょう)を読みながら命がけの修行をした末、人々から崇敬さ
れて、一切の苦を除くというので、その名を能除(のうじょ)と呼
ばれていました。
ある日、聖徳太子は能除上人に向かって、「出羽国歌連の里(※
どこか不明?)、暮黎の峰に観音湧出の霊地がある故、彼の地に下
って勤行(ごんぎょう)すべし」といいました。能除上人は出羽国
に行きましたが、「歌連の里」への道がなく困っていたところ、八
尺の霊鳥(片羽八尺(2.424m)とも)があらわれて道案内をして
くれました。そして大スギの根元で観音さまを仰ぎ修行に励んだと
のことです。この間中、かの霊鳥は翼を広げ上人を覆い、風雨を防
いでくれた。
蜂子の皇子の逸話(2)
また江戸中期の『羽黒・月山・湯殿三山雅集』(野衲東水選)に
も同じようなことが書かれています。それには「崇峻天皇第三ノ皇
子(本当は第一子)、一名参弗(払)理(さんふり)、形質頗ル募荒
ノ相タルニ依テ、北海ノ浜ニ放ツ。然ルニ太子直チニ仏門ニ帰シ、
詣テ聖徳太子ヲ師トシ、以テ薙髪(ていはつ・剃髪)染衣ス。法名
弘海(こうかい)、性勇猛ニシテ偏(ひと)エニ凌雲ノ志有リ…」
うんぬん。
つまり、大ざっぱにいうと、崇峻天皇の第三皇子参弗理(さんふ
り)は、「形質頗(すこぶる)ル募荒ノ相タル」によって、北海の
浜に捨てられました。その後皇子は仏門に入り、聖徳太子を師とし
て修行に励み、法名を弘海といったとあります。欽明天皇から崇峻
天皇に移るころ、神のお告げで出羽の国に行きました。
そして、片羽八尺の霊鳥に導かれて出羽の峰に登り、生身の観世
音菩薩を拝します。菩薩は「聖者の勇猛の行を修し、普(あまね)
く世の人々を利するを讃(たた)え、さらに弥陀、大日両如来のお
わしますところを見させんとて、忽(たちまち)ち霊鳥と化し」、
能除太子を月山や湯殿山にも案内したとあります。
そして霊鳥がいうには「我は羽黒神社(いけのみたま)也。汝を
してわが山を興(おこ)さしめん」といって、太子に三面の宝火珠
を授けました。太子がこれで自らを焼くと、そこに不動明王があら
われ、こんどは明王が自分の臂(うで・ひじ)を切って法火を放ち
ました。
そして「この法火こそ清浄常火であり、いまの世に至っても、湯
殿行者はこの常火を用いざれば登拝叶い難しとしている」とあって、
能除太子は羽黒山だけでなく、月山や湯殿山の開祖であるとも記し
ています(『山岳宗教史研究叢書16』)。この霊鳥は黒カラスで、3
本足であったともいい、そのカラスの黒い羽から羽黒山の名がある
ともいっています。
月読尊は三姉妹だった?
もうひとつの伝説です。大昔天照大神(あまてらすおおかみ)の
命令で、月読尊たち三姉妹が東(あずま)の国に下りました。この
姉妹は、山形県の月山と、宮城県の刈田山(刈田嶺・蔵王山)と、
島県の花塚山(はなつかやま)に、それぞれ鎮まるのことになって
いました。
しかしまだ誰がどこに行くのかは決まっていません。そこで三姉
妹は、誰がどこの山に行くかの相談をはじめました。三姉妹のうち
一番下の月読尊は才知があり、話の上手な神さまでした。
末娘の月読尊が、一番上の姉神に「花塚山は眺めがよく、お花畑
もありとても美しい山。お姉さまにふさわしい山ではないでしょう
か」といいました。おとなしく、気のやさしい一番上の姉神は、「お
花が咲く花塚山に、私がまいりましょう」といいました。
月読尊はまた二番目の姉神にいいました。「刈田山は、とてもきれ
いで、山頂から花塚山や月山も見え、いつも3人がいっしょにいる
ような山です。如何ですか」というと、「それでは私が刈田山に行
きましょう」と二番目の姉神が承知しました。こうして末娘の月読
尊は月山に決まりました。
こんなわけで、いまでも花塚山にはお花畑があり、ほかでは見ら
れない花が咲き乱れています。一方、一番の知恵者、末娘の月読尊
は、三つの山の中で一番尊いとされる「月山」に鎮まっているのだ
ということです。しかし、月読尊は、天照大御神や須佐之男命とと
もに「三柱の貴き子」と呼ばれていますが、三姉妹との記述はどこ
にも見あたりません。ここで、三姉妹の一番末娘となっているのは
どうしたわけでしょう。
松尾芭蕉も登った月山
さて、月山には松尾芭蕉にもゆかりがあります。芭蕉は江戸時代
の元禄2年(1689)6月(いまの暦で7月下旬)、羽黒山経由で月
山に登ったそうです。その時の句を『おくのほそ道』(元禄15年(1
702年)刊)に残しています。
「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引(ひき)かけ、
宝冠(ほうくわん)に頭を包(つつみ)、強力(がうりき)と云(い
ふ)ものに道びかれて、雲霧(うんむ)山気(さんき)の中に氷雪
を踏(ふみ)てのぼる事八里…」と記し、「雲の峰幾つ崩(くずれ)
て月の山」の句も残しています。
8月はじめ、バスで月山8合目まで登り、残雪を横目に月山山頂
を目指しました。先述の「行者返し坂」近く、かなりお年寄りの先
達が大勢の白装束に身を固めた信者たちを案内して登っています。
「ここが胸突き八丁だからね…」と、まるで自分に言い聞かせるよ
うにつぶやきながら杖を頼りに歩く姿が印象的でした。
▼月山【データ】
★【所在地】
・山形県鶴岡市(旧東田川郡羽黒町)と東田川郡庄内町(旧立川町)
と西村山郡西川町との境。JR羽越本線鶴岡駅からバス、月山8合
目停留所下車、さらに歩いて2時間20分で月山。1等三角点(1979.
8m)と、写真測量による標高点(1984m)と、月山神社がある。
★【ご利益】
・月山神社:五穀豊穣、農耕神、航海漁労
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・月山神社:北緯38度32分54.74秒、東経140度1分36.89秒
・標高点:北緯38度32分56.89秒、東経140度1分37.08秒
・三角点:北緯38度32分58.03秒、東経140度1分37.31秒
★【地図】
・2万5千分1地形図名:月山
▼【参考文献】1116号
・『おくのほそ道』松尾芭蕉。元禄15年(1702年)刊:『おくのほ
そ道』(岩波文庫)荻原恭男校注(岩波書店)1993年(平成5)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平(しんぺい)著(名著出
版)1990年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書5・出羽三山と東北修験の研究』戸川安章
(とがわあんしょう)編(名著出版)1975年(昭和50):「出羽三
山と羽黒修験の展開」島津伝道。
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編
(名著
出版)1981年(昭和56)「出羽三山・鳥海山の山岳伝承」大友義助。
・『修験道辞典』宮家準(東京堂出版)1991年(平成3)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本書紀(四)』(岩波文庫)校注・坂本太郎(岩波書店)1995
年(平成7)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
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