▼1115号(百伝15) 鳥海山「タツノオトシゴとクロユリと飛島伝説」
【本文】
鳥海山(標高2229.2m)は、山形県と秋田県との境にそびえて
います。しかし山頂は山形県飽海(あくみ)郡遊佐町に属してい
ます。この山は福島県の燧ヶ岳についで東北第二の高さを誇り、
その美しい姿形が印象的です。
鳥海山の山頂は、多くの寄生火山を抱える複式火山で、「旧火山」
と「新火山」に分かれています。「旧火山」は笙ヶ岳(しょうがだ
け)・扇子森(せんすもり)・月山森(がっさんもり)を連ねて南
西にU字形に火口が開け、中央火口丘の鍋森(なべもり)、火口湖
の鳥ノ海があります。
また「新火山」は、七高山(しちこうさん)、伏拝岳(ふしおが
みだけ・ふくはいだけ)の外輪山が新山(しんざん)・荒神ヶ岳(こ
うじんがだけ)の中央火口丘を囲んで複雑な地形になっています。
最高点は新山(2236m)で、1801年(享和元)の噴火でできた山。
享和岳とも呼ばれています。
この山は、出羽富士、鳥海富士、秋田富士、飽海山、羽山(う
ざん)、鳥海山、葉山、とりのうみやまなどの異名も盛りだくさん
です。
鳥海山という名は、ふつうには御浜(おはま)宿舎そばの池・
鳥海湖(鳥ノ海)からついたのだされています。そのほかにも説
があります。平安時代の陸奥国(むつのくに)の豪族安倍一族の
総大将に安倍貞任(あべのさだとう)という人がいました。
その弟・鳥海弥三郎(安倍宗任)の出生地・岩手県胆沢郡(い
さわぐん)金ケ崎町の鳥海柵(とのみのさく)の「鳥海」が、山
名になったものだとの説もあります。出典により「鳥海三郎」と
する説もありちょっと複雑です。
その安倍宗任の子孫の勢力が、あちこちへ移動するに従って、
同じ「鳥海」という地名を各地に残していきました(『東北の山岳
信仰』)。ここ鳥海山の名も、そのうちのひとつだろうというので
す。そのほかアイヌ語の「チュッカイ」(太陽の山)説もあります。
鳥海山の山頂からの展望はなんとも絶景です。南方に月山、朝日
連峰、その東方には蔵王連山、そして神室山地(かむろさんち)に
栗駒山。北方には駒ヶ岳、岩手山、八幡平、北の彼方には岩木山も
控えています。そして西側眼前が日本海で、飛島も見えます。ご
来光の時には、朝日をうけて鳥海山が海上に影を落とす「影鳥海」
が有名です。
また高山植物もたくさん生えていて、チョウカイフスマ、チョ
ウカイアザミ、チョウカイチングルマなど、鳥海の名のついたも
のも多く分布しています。この山の植物は、早くから注目されて
いたらしく、享保6年(1721)に江戸幕府による採取登山が数回
行われているそうですから、その特異性は知れ渡っていたのでし
ょうね。
この山も役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)が開いたと伝
える山。「出羽一宮鳥海山縁起」という文書に、白鳳(はくほう)
年中(※通説では白雉(はくち・650年?654年)の別称)、役行
者が来てここをすみかにしていた魑魅魍魎(ちみもうりょう・妖
怪変化)を退治して、岩や石を切り開き、参詣の道を作ったとあ
ります。さらに「役君(えんくん・役行者)自ら岩を彫り、像及
び従者の姿を後代に残し給う。行者岳是(これ)なり」ともあり
ます。
この山にも次第に多くの修験者が入るようになり「鳥海大権現」
がまつられ、平安期になると鳥海山は修験道場として栄えていき
ます。山ろくには矢島・吹浦(ふくら)・杉沢蕨岡・小滝・滝沢の
登山口があってそれぞれに修験がおり宿場がありました。修験者
は「本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説」により、大物忌神を「鳥
海大権現」としました。
さらにその本地を薬師如来、垂迹を豊玉姫の命とし、方式を定
めて入峰し、在俗の参詣人を山上に案内しました。本地垂迹(ほ
んじすいじゃく)説というのは、仏や菩薩が世の中の人たちを救
うため、仮に神の姿になってあらわれたもの。つまり神々の本当の
姿は仏や菩薩だというのだそうです。難しい話です。
それはさておき、この山鳥海山は古くから霊山として信仰され、
山頂には大物忌(おおものいみ)神社本社がまつられています。
またふもとの遊佐町吹浦(ふくら)には吹浦里宮が置かれていま
す。同様に遊佐町上蕨岡には蕨岡口之宮置かれています。しかし
明治初年の神仏分離まではそれぞれのお寺と一体になった鳥海修
験の道場の一つでした。ですが明治の廃仏棄釈により、山上の大
権現も廃され、蕨岡口・吹浦口ともに大物忌神をまつる社とされて
しまいました。
それでは大物忌神とはどんな神さまなのでしょう。不吉な出来事
を忌み避けるのを「物忌み」といい、一定の期間、身体を浄めて謹
慎する「物忌み」の行事もあります。大物忌の神は、北方にいる外
鬼(朝廷にとっては蝦夷)の侵入を予知して、山の噴火など異変を
おこして朝廷に知らせる神だとされていました。
平安時代の元慶2年(878)、中央政権に服属している出羽国の蝦
夷(俘囚・ふしゅう)の長である安倍一族が反乱を起こしました。
その乱は3月から年内いっぱいつづき、朝廷は鎮圧に苦労しました。
そこで朝廷は鳥海山の大物忌神に期待して、神社に階級を与えはじ
め、元慶4年(880)には「正二位」という位まで昇りました。神
頼みをするにも位は「与え」るんですね。
さて、話変わってふつう県境(旧国境)というのはたいがい川
や山を通るようになっています。しかし、東北山形県・秋田県境
にそびえる名山といわれる鳥海山は、両県境が山頂を通っていま
せん。しかも、自然地形に合わない定規を使ったように真っ直ぐ
に書かれています。ちょっと不思議です。
それにはこんな分けがありました。中世に入り、鳥海山にも修
験道が入ってきました。修験としての鳥海山の登山口は、秋田県
側に矢島(矢島町)、滝沢(由利町)、小滝(象潟町)、山形県側に
吹浦口、蕨岡口、杉沢口(遊佐町)があり、それぞれに修験者が
住んでいたといいます。やがてその繁栄に伴い、天台系の本山派
(順峰)と真言系の当山派(逆峰)の間に対立が起こります。
対立の溝が深くなり、ついに山頂の支配権、峰境争いに発展し
ました。各登拝口もその争いに巻き込まれ、江戸時代の1701年(元
禄14)、矢島口は山頂の社殿の支配権と鳥海山の嶺境について蕨岡
口を三宝院に訴えました。この争いは矢島藩・荘内藩を巻き込み
大騒動。ついに解決は幕府の手にゆだねられることになりました。
宝永元(1704)年、幕府は「西ハ笙野岳腰ヨリ稲村嶽之八分ニ
至リ東ハ女郎嶺之腰迄不毛之地由利飽海両郡ニ相定」(飽海郡誌)
との裁断を下し、いまの境界線になったといいます。地図の上に
物差しでも当てて境界線を引いたのでしょうか。昔は北アルプス
はじめあちこちで山を自分の藩の領域にすべく藩同志の境界争い
が発生したと聞きます。幕府も、いちいち調停に引っ張り出され
るのでは大変ですネ。
鳥海山にも雪形が出ます。山ろくの人々は、山頂にかかる雲の
様子を見て天候を予測したり、山腹に出る雪形で農作業をいつか
らはじめたらいいかを知ったりしたそうです。鳥海山は海では猟
師の目印にもなりました。ここの雪形はとくにはっきりしていて、
西ろくの吹浦口(大平)では、山腹に「種蒔き爺」の残雪の形(雪
形)が現れると苗代(なわしろ)づくりをはじめたといいます。
自然のカレンダーになっていたわけです。
さて、山名の元になっている鳥海湖は、山頂から6キロほど下
った所にある爆裂火口に水を湛えた直径200mほどの湖。周辺は
ニッコウキスゲの大群落が咲き誇っています。そこから百数十m
上の宿舎のとなりには遥拝所があり、御浜神社をまつってありま
す。
その鳥海湖に不思議な生き物がすんでいるというのです。あの
民俗学者の柳田国男は、その著書『山島民譚集』中にタツノオト
シゴを安産のお守りにする習慣があるとする文があります。その
中で、「…出羽ノ鳥海山ハ頂上(実際は頂上ではない)ニ鳥海ト云
う湖水アリ。不思議ナルコトニハ海馬(タツノオトシゴ)マタ此
ノ湖水ニモ住シ、全ク海ニ居ル竜ノ荒児ト同物ナリ」と書いてい
ます。
さらに享保(きょうほう)年代の『荘内物語附録』(小寺信正)
という文書からの一文を引用し、海気の雨を醸すときこれが雲に
乗って天に昇り、山の岩に降りてくると伝える。土地の人は難産
の女性にこれを持たせるとあると書いています。また『観恵交話
上巻』という古書から引用して「古書ニハ之ヲ記シテ鳥海山頂ノ
池ニ長サ六七寸ノ竜アリト云エリ」とあります。
またまた、一般の人は山に登らず、行者だけが行って海馬を捕
まえてくる。一年くらいは生きているとみえて、座敷に置いて扇
であおぐとヒラリヒラリとたてや横に舞い、まるで絵に描いた竜
のように飛ぶ。1年以上たつと死んでしまうのかあおいでも舞わ
ないというと書いています。六、七寸といえば20センチくらいの
大きさ。いまでも棲んでいるのでしょうか。まさに天然記念物も
のです。世の中には不思議な話があるものです。
鳥海山の南面に、鶴間池という神秘的な池があります。鎌倉時
代、奥州平泉・藤原秀衡(ひでひら)が、源義経をかくまい、鎌
倉の頼朝に滅ぼされてしまいました。秀衡は1187年(文治3)没、
義経は1189年(文治5年)没になっています。秀衡の妹の万徳御
前は、自分の身を嘆き悲しんで、鳥海山に登りました。そして、
鶴間池のほとりに、「女別当の宮」を建てて、池の主の竜王のお使
わしめ(お使い)になってしまいました。
時代は移って室町時代、万徳御前の末裔(えい)で、由利十二
党の旗頭矢島満安(みつやす)の娘に、小百合(さゆり)姫とい
う美しいお姫さまがいたそうです。姫の父矢島満安は、同族の滝
沢城主の讒訴(ざんそ)が原因で、仁賀保城主の兵庫に城を攻め
られ、自刃(じじん)させられました。小百合姫がまだ5歳の時
だったそうです。
小百合姫は、山形の大名の一門最上内膳のところで養育されま
した。成長した姫は、ますます艶やかになり、16歳の時、大名に
召されて、館の奥勤めになったということです。小百合姫は、若
者の間でも、評判でした。そんななか、姫のもとに一枚の色紙が
届きました。それには「夏草の、茂きがなかに、ひともとの、姫
百合の香りぞ、ゆかしかりける」(あげ羽の蝶)とあったそうです。
そんなこんなで、「小百合姫」と「あげ羽の蝶」の二人仲は、(資
料の原文のママにいいますと)「吹く春風も和(なご)やかに、露
も情と結ばれる仲」になったのだそうです。それから間もなく姫
は、自分の身の上を知らされ、父祖(ふそ・祖先)の無念を晴ら
すさんと、決心することになります。
小百合姫は、鶴間池のほとりの宮にこもって、33人の行者と、3
3人の巫女を相手に武芸や、手裏剣の術を一心不乱に修行しました。
しかし、その時にはすでに、「あげ羽の蝶」との間の子供を妊娠し
ていたのです。「ああ、この大事をおこそうとする時に……」。し
かし、姫は泣いても悔いても詮ないことと悟り、鶴間池の竜神の
御宝前に、身を投げかけて、「この本望、遂げべくんば、鶴間池に
咲く山百合の花を、黒染めの色に染め給え」と祈りました。
翌年、姫は玉のような男の子を産みました。同時になんと、鶴
間池のまわりに生えたユリが、みんな黒ユリになって咲きはじめ
ていたのです。「これは神からの予兆に違いない。父の仇討ちの本
願成就、疑いなし」とばかり、巫女や行者ともどもに勇みに勇ん
で、滝沢城に攻め入り城を落とし、さらに宿敵の仁賀保の城にも
せまり、見事、二の丸の軍勢を討ち取りました。
すると、本丸から二人の老臣があらわれました。「しばし待たれ
よ。当主は先月病死。嫡男(ちゃくなん)は家督を継ぐひまもな
い。降伏して城を明け渡したい」というのです。間もなく、しお
しおと当家の嫡男があらわれました。嫡男は、小百合姫の前に両
手をついています。戦わずして降伏すると眼前で両手をつく当家
の嫡男。それを見て「あっ。この嫡男こそ、あのあげ羽の蝶の君
ではないか!」。
そのチョックたるや。「こんな男に身を任せ、子供まで」。それ
からというもの、小百合姫は、山里に庵をくみ、法華経の読経に
あけくれて、一生を終えたということです。人々は、小百合姫を
「黒百合姫」と呼び、鶴間池には、いまも黒い花のユリが咲いて
いるということです。
しかし、実際にはこのあたりでは月山以外には、クロユリは見あ
たらないといいます。もちろん、鳥海山にクロユリはないそうです。
まして、鶴間池は標高1000mという低い標高です。あるはずのな
い鶴間池にどうしてこのような伝説があるのか不思議なことです。
こんな伝説もあります。昔々、鳥海山には「手長・足長」とい
う怪物(鬼・悪魔)がすんでいたといいます。「手長足長」は街道
を通りかかる人間を捕まえては食べたり、里に現れては田畑を荒
らしていました。鳥海山の神・大物忌(おおものいみ)神はこれ
を見て、3本足の霊鳥(カラス)をつかわしました。(3本足のカ
ラスは和歌山県熊野本宮のお使いと同じですね。)
そして山に鬼がいて危ないときは「ウヤ」、鬼がいなくて安全な
ときは「ムヤ」と鳴かせました。そこで里人は鳥海山のふもとの
街道を通るには、カラスが「ムヤ」と鳴く日まで待ってから歩い
たということです。このことから山形・秋田県境の三崎山の関を、
「有耶無耶の関」というのだといいます。ここは、鳥海山から流
れ出た溶岩流が海側に突き出た場所。その上、海側から浸食をうけ、
馬も通れないほどの地形で交通の難所だったといわれています。
平安時代も初めになり、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)
が、手長足長退治のため山形県吹浦に大護摩壇をつくって火散の
修法を行いました。21日目(山形側では100日目だという)になり、
大地がゆれて大音響とともに鳥海山が破れると、怪物の手長足長
は山の頂とともに吹き飛びました(秋田県側ではあわてふためく
手長足長めがけて、慈覚大師が村人を連れて山に登って火をかけ
て退治したことになっています)。この時、悪魔の尾が落ちてきた
ところが尾落伏(いまの落伏地区)になり、吹き飛んだ鳥海山の
頂きは、日本海に落ちて飛島になったということです。
一方、有耶無耶(うやむや)の関は、蝦夷の侵入を防ぐために
9世紀頃に築かれたという説もあります。いまの有耶無耶の関址の
場所は、山形県遊佐町側になっていますが、本当は山形、秋田の
県境の三崎峠だったとするほかに、国道286号線が通っている笹谷
峠(宮城県と山形県の県境)付近だとする説もあるといいます。「武
士(もののふ)の 出(いつ)さ入(い)るさに 枝折(しをり)
する とやとやとほりの むやむやの関」という歌も詠まれていま
す。
さらに鳥海山高さくらべの伝説です。昔々、よい日和のある日、
鳥海山はゆったりと碧く広がる日本海を眺めていました。出羽の国
の端々までよく見渡せました。鳥海山は思わず「見渡す限りワシよ
り高い山はないようだなあ」とつぶやきました。
するとそれを聞いたまわりの山々が「ホントだ。鳥海山はみちの
く一かも、いや日本一高い山かも知れんゾ」。それを聞いた鳥海山
は嬉しくなって「確かに、見渡してもワシより高い山はないな。う
ん、ワシが日本一の山なのだ」と勝手に思ってしまい、鼻高々と、
胸を張ってそびえていました。
そんなある時、ふもとを旅人がひとり通りかかりました。道ばた
の石に腰をかけ、弁当を広げてふと見ると、目の前には大きなすそ
野の向こうに天をつくような鳥海山がそびえています。「これが鳥
海山か。うわさ通り高いし美しい山だ」。鳥海山はますます嬉しく
なりました。
「そりゃそうだろ。ワシこそが日本一の山だからな」と、鳥海山
は思いました。次ぎに旅人はつぶやきました。「しかし富士山はも
っと高いぞ。もっともっとな」。それを聞いた鳥海山はショックで
す。「そんなはずはない。ワシが日本一の山のはずだ」。旅人の言葉
に鳥海山はいたたまれなくなり、ワナワナと震えだしました。
その上旅人の話を聞いたまわりの山々が、「な〜んだ鳥海山が一
番じゃなかったんだ」。「富士山が日本一だってよ」とひそひそと話
しています。鳥海山はくやしいやら恥ずかしいやらで、カーッと頭
に血が上りました。ぶるぶる震えながら頭のテッペンから火を吹き
だしはじめました。そしてついに自分の頭を吹き飛ばしてしまった
のです。
ボ、ボオ〜ンという音と一緒に鳥海山の頭は、すそ野を越え、村
々を越えて海の沖合に飛んでいったのでした。やがて山の火もおさ
まり波間から顔を出した頭は、いまでは穏やかに「飛島」と呼ばれ
ています。飛島は、酒田港の北西約40qの日本海に浮かぶ島。鳥
海山との関係が深く、鳥海山頂上の大物忌神社に対し、飛島には小
物忌神社(おものいみじんじゃ)をまつっています。
▼鳥海山新山荒神ヶ岳・【データ】
★【所在地】
・山形県飽海郡遊佐町。羽越本線酒田駅の北東28キロ。JR羽越
本線象潟駅からバス、鉾立停留所下車、さらに歩いて5時間半で鳥
海山頂新山。写真測量による標高点(2236m)がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・標高点:北緯39度05分57.83秒、東経140度02分55.95秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「鳥海山(新庄)」
▼【参考文献】
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出版)1977年(昭和52)
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摩書房)1989年(平成1)
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摩書房)1989年(平成1)
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・『続・植物と神話』近藤米吉編著(雪華社)1976年(昭和51)
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(みずうみ書房)1985年(昭和60)
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行ほか(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
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・『日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
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・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
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(江戸中期初頭・1712(正徳2)年の図入り百科事典):(東洋文庫
481・『和漢三才図会9』(全18巻)島田勇雄ほか訳注(平凡社)1988
年(昭和63)
・「植物の世界・002」(週刊朝日百科)(朝日新聞社)1994年(平
成6)
・『日本の野草』(山と渓谷社)1983年(昭和58)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『牧野新日本植物図鑑』牧野富太郎(北隆館)1974年(昭和49)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)
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