▼1113号(百伝13)岩手山「鬼とおろちと山の三角関係」
【説明本文】
岩手山は、岩手県の雫石町と八幡平市(旧松尾村・旧西根町)・
滝沢村との境にそびえる山(標高2028m)です。一目で分かる男
性的で雄大な、この山は南部地方のシンボル、古い時代からふも
と人々に愛されてきました。
岩手山の形は、古い時代にできた「西岩手山」と、新しくできた
「東岩手山」からできています。その姿は、「西岩手山」火口の東
壁の部分を、新しい「東岩手山」が覆いかぶさる形になっています。
「西岩手山」は、頂きに東西3キロ、南北2キロもの大きな火口が
あり、その中に「お釜湖」と「お苗代湖」と呼ばれるカルデラ湖が
ふたつあります。
さらに外輪山の北側を「屏風尾根」といい、南側を「鬼ヶ城」と
呼んでいます。一方「東岩手山」には直径700mの「御鉢」と呼ぶ
噴火口があり、その中に第2次火口の御室と、中央火口丘の「妙高
山」があります。
その呼び名も多く、岩鷲(巖鷲・厳鷲・がんじゅ)山、岩手富
士、南部富士、南部片富士、厳手山、磐手山、岩堤山、霧山岳、薬
師岳、薬師ヶ天井などなどとも呼ばれるそうです。
また、山の姿はふもとから眺める角度によって、まるっきり別の
形に見えたりします。岩手山も東の方から見るとすそ野が長く、富
士山に似ているので岩手富士とか南部富士と「富士」の名をつけて
呼ばれます。しかし、西の方からは、全く別の形に見えるために、
「南部片富士」の名もあります。
さて岩手山の山名由来には、いくつもの説があるようです。凶
暴な鬼が改心して、その証拠として岩の上に手形を押したとする
説があります。また、玉山村渋民(いまの盛岡市渋民)にある突き
出た巨岩にちなんだ、「岩出の森」からの説もあります。そのほか、
アイヌ語のイワァ・テェケ(岩の手・枝脈)説や、イワァ・テェ(岩
地の森林)によるなどの説があります。
異名の岩(厳)鷲の由来については、残雪の雪形がワシの形に
似ているからとの説があります。また明治7(1874)年の「岩手山
神社考証書」という文書に、平安時代の長治年中(1104〜06)こ
ろ、「山上ノ岩ニ鷲?(たびたび)現レテ、其レヨリ厳鷲山ト称シ
来(た)レリ」としています。でもこれはあくまで明治時代になっ
てから出た文書で言い出したこと。
また江戸時代の旅行家の菅江真澄(すがえますみ)は、厳鷲山に
ついてこんなことを書いています。「嵩(かさ・高い所)に鷲のす
がたしたる岩の在(あ)れば厳鷲山(ガンジュサン)ととなへ(唱
え)、おいはわし(御岩鷲)といふべきを、もはら語路(語呂)あ
しく、はぶきていへり」とあり、本来なら「御岩鷲」(おいわわし)
というのを語呂が悪いので「いわて」といったのだと記しています。
一方、岩手県出身の石川啄木も故郷の岩手山を詠んでいます。有
名な「ふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山はあ
りがたきかな」の歌は、啄木の歌集『一握の砂(いちあくのすな)』
に収められており、岩手山を詠んだものだそうです。
岩手山の信仰はもともと、自然豊かな山そのものを神体とする
自然崇拝にはじまっており、社殿はありませんでした。が、岩手山
の外輪山南東側には岩手山神社の奧宮があります。しかしこれは
明治の神仏分離令が出た後、岩鷲山(巖鷲山・厳鷲山)大権現か
ら改名後に建てたものだといいます。
ここにはもともとは岩鷲山大権現がまつられていました。この
大権現の号はあの坂上田村麻呂が平安時代の延暦20年(801)、蝦
夷(えみし)を征伐し、大己貴命(おおなむちのみこと)・倉稲魂
命(うかのみたまのみこと)・日本武尊(やまとたけるのもこと)
の3神を勧請して奉ったものということなっています。
ところがこれは、あくまで岩手山神社の縁起によるもの。これ
は明治になって出版した『日本名勝記』に書いてある年代と、縁
起の年代とが同じ「延暦20年(801)」と同じです。まるで写し書
きしたようになっています。実際に岩手山神社ができたのと、坂上
田村麻呂伝説が世間に広まったのは、神仏分離令ができた明治時代
になってからです。
この3神のもとになっている仏(本地仏・ほんじぶつ)は、阿
弥陀、薬師、観音の三尊だそうなのです。これは神仏混淆(こん
こう)の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)による三尊。つま
り、世の中の人たちを救うため、仏・菩薩が神の姿になってあら
われるというものです。先の三神の本当の姿は、阿弥陀、薬師、
観音の「三尊」だというのです。この「三尊」が次第に人々の信
仰を集めるようになり、修験道とも結合していきます。
修験道が盛んになるにつれ、岩手山の山頂を御殿と呼び、ここに
「岩鷲山大権現」をまつるため、奥宮を建立しました。そして山の
東、南、北の三方のふもとの3ヶ所の登山口に遙拝所・登山の基地
として御堂をが設けるようになりました。
その遙拝所というのは、岩手山の東方は柳沢口新山堂、南方は雫
石口新山堂、北方は平舘口新山堂です。それぞれが岩鷲山を「山号」
としました。これが明治時代になってからはみな、岩手山神社、雫
石町長山の岩手山神社、西根町平笠の岩手山新山神社に改名させら
れました。
蛇足ながら、この阿弥陀・薬師・観音の三尊についての伝承もあ
ります。鎌倉時代初頭に書かれた「陸奥州岩手郡厳鷲山縁起」(建
久元年・1190)という文書に、次のような記述があります。これも
鎌倉時代この文書から言いはじめたことです。
つまり、「本尊阿弥陀、薬師、観音鎮座の由来を尋ぬるに、聖武天
皇の世(724〜749年)大和国宝積寺に行基登りければ、大木の根
本より光さして百歳ばかりの老人がおり、行基に向かい其方を待
つこと百年余りなり、この大木で阿弥陀、薬師、観音の三尊を刻
めといってから辰巳(たつみ・南東)をさして飛び去った」と、
ここも行基菩薩と関係性を持たせようとしています。
【▼伝説・座頭清水】
さて伝説の話に移ります。岩手山は、ふもとの古くから人々に愛
された山。そのため、いろいろな伝説が生まれます。この岩手山の
北側山ろくには、「座頭清水」と呼ばれている七つの泉群が湧き出
していて、環境庁の「名水百選」に選ばれています。これらの湧水
は、岩手山の滝水が伏流水となってわき出ています。
その昔、この清水から落ちる滝のヌシで、七つの頭をもつ大蛇が
すんでいました。ある日大蛇は、山里に下りるため、地面の中にも
ぐりました。地中をあてずっぽうに進んでいくうちに、地表にあら
われてしまいました。その頭が飛び出たところから水が湧きだしま
した。蛇が頭を出したそこは「蛇頭清水」と呼ばれました。それが
なまっていまの「座頭清水」になったのだそうです。
この清水で目を洗うと、見えない目が見えるようになるという話
があります。かつてここには暴れものの鬼がすんでいたといいます。
村人は田畑は荒らされ、暮らしが脅かされ、それは困っていました。
ある時、たまりかねた人々が集まって相談。鬼に立ち向かい、灰の
つぶてを鬼に投げつけて目をつぶしてしまいました。鬼はその痛さ
に苦しみもだえています。
そこへ清水の神さまがあらわれました。鬼は自分の悪業を悔いて
あやまり、神さまにすがりつきます。清水の神は、鬼の悪業をさと
し、この清水の冷水で目を洗えば治ることを教えてやりました。以
来この清水は、ジャド(盲人)(座頭)が治る清水、「座頭清水」と
呼び霊場になったということです。
【▼伝説・大猛丸と鬼ヶ城】
またかつて岩手山には、大猛丸(おおだけまる)という鬼がす
み、その奥の館があったと伝承します。いまでも山頂南側の外壁
には峻険な屏風岩があり「鬼ヶ城」といっています。大猛丸は赤
頭の高丸とも異名をとり、南西麓を流れる葛根田(かっこんだ)
渓谷にある「玄武洞」を出城にし、雫石町の大竹と呼ばれる山岳
地帯本拠を置く鬼神でした。
ちなみに本拠地大竹はタケノコの産地で、いまでも多くの人が
タケノコとりに集まるところ。大猛丸の名はこの大竹からきたな
まえなので「大竹丸」が正しいのかも知れないということです。
また出城の玄武洞は、岩手県雫石町玄武温泉から歩いて20分の所
にある大岩窟。現在、国の保存窟になっています。
突然ですが平安時代初頭のころ、伊勢の国・鈴鹿山の鬼が暴れ
まわり、住民が大変な迷惑を受けていました。延暦年間(782〜80
6)、時の天皇桓武(かんむ)天皇はその鬼を退治するよう坂上田
村麻呂に命じました。田村麻呂は清水観音のお告げで得た栗毛の
馬に乗って、鈴鹿の山に乗り込みました。
しかし鬼はおらず、いたのは神女がひとり。神女は、「我はこの山
に住む立烏帽子(たてえぼし)というものなり。日ごろ国中が騒
がしいのは、奥州厳鷲(がんじゅ)山にすむ鬼の大武(大猛丸)
がわらわを犯そうとやってくるのだ」。
「だが従わぬため、鬼は暴れまわって里人を害している。我、
汝の嫁になり援助するので、鬼の大武と戦い勝利を得よ」。といい
宝剣を田村麻呂に贈りました。田村麻呂はその宝剣を抱き、岩手
山に向かったと「厳鷲山縁起」(文化3年別当自光坊)に出てきま
す(『東北の山岳信仰』)。
こうして東北にやってきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、延暦21
年(802年)にまず胆沢城(いまの奥州市)を築き、翌年22年に森
ヶ岡(いまの盛岡)に志波城(しわじょう)を築きます。そして
大同2年(807年)、岩手山の大猛丸盗伐に向かいました(岩手県
岩手郡雫石町教育委員会の手紙)。
田村麻呂は志波城を拠点に大猛丸を攻め立てます。攻められた
大猛丸は奥の舘である岩手山の鬼ヶ城にたてこもります。当時の
岩手山は「霧隠山」ともいわれるほど常に霧深い山。舘の状態や
地形を知らない田村麻呂は手も足も出ません。そこで霧深い山に
は、同じ霧でと思ったのかどうか、配下の霧ヶ原太忠義という武将
らを山の裏側・いまの松尾村側から魔地川(現在の松川)沿いに登
り偵察させます。
源太忠義の館の様子や地形の報告を受けた田村麻呂は、霧の晴
れ間を見はからい、一挙に攻めたてます。たまりかねた大猛丸は
館を捨てて、秋田と岩手の県境にある八幡平に逃げますが、ついに
捕まり亡ぼされたということです。伝説では、平安時代になったば
かりの797年(延暦16)とも、同じく807年(大同2)のことだ
と伝えるお話です。この鬼神大猛丸は朝廷に従わぬ、このあたり
に住んでいた蝦夷を象徴し語りつがれています。
こうして東夷を平定した田村麻呂は、いまの八幡平の八幡沼の
ほとりに全軍を集合させ、神威による戦勝を感謝して、ここに応
神八幡大神を勧請。応神八幡のシンボルである八本の旗を立てて
武運長久を祈願し八幡神社を建立しました。そしてこの地を去る
におよび、地名を「八幡平」と命名したということです。いまで
も八幡平の八幡沼のほとりには「応神八幡」を祀る祠があります。
岩手山から八幡平にかけてには、源太森、松川、松尾、寄木、
時森などの地名があります。源太森は、田村麻呂の部下源太忠義
が物見をした山で、松川は、魔の住む魔地川、松尾は鬼の出る境
の魔地尾、寄木は賊の集まる寄鬼、時森は賊の大将登鬼森だとの
地名伝説もあります。
【▼伝説・女鬼】
大猛丸が八幡平で捕まった時、一人の女の鬼が捕らえられました。
田村麻呂は女鬼に命は助けてやるが、岩手山の例祭日の5月27日
には登山者のために塵ひとつないよう、山や登山道を掃除するよう
命じて鬼ヶ城に住むことを許したといいます。何十年か経って女鬼
も次第に歳老いてきて、体力がなくなり山中を清掃できなくなりま
した。
そんな時老女鬼は、雨が降るとゴミが水に流され、山がきれいに
なることに気がつきました。それからというもの、旧暦5月27日
のお山の例祭日には、必ず雨が降ることになっているそうです(雫
石町教育委員会資料)。
【▼伝説・田村麻呂の子】
こんな話もあります。岩手山の鬼を退治した田村麻呂と、地元の
蝦夷の娘との間にできた子がいるというのです。その昔、岩手山ろ
くの村にどこからともなく若者がひとり移り住んできて、田守(た
もり)の仕事などを請け負って貧しく暮らしていました。
ある時、大きな鷲が赤ん坊をさらって、山の方へ飛んでいくのを
見て、若者は大急ぎで脛巾(はばき)をつけて、鷲のあとを追って
山に登っていきました。この鷲は岩手山の岩崖にすみ、ふもとに飛
んでいっては田畑を荒らし、時には赤子をさらうので、村人たちを
困らせていました。
鷲のあとを追った若者は、苦労の末岩手山の頂上に着きました。
すると鷲は神さまに姿を変えていました。そして若者にいいました。
「汝にノギの王子の名を与える。山を開き神をまつり、守護せよ」。
若者は驚き畏れ、頂上に祠を建てて山頂への道を開きました。
このノギの王子は実は、坂上田村麻呂と蝦夷(えみし)の阿久玉
姫との間にできた子供だというのです。この山は、ノギの王子が鷲
に導かれて開山した山なので岩鷲(巖鷲・厳鷲・がんじゅ)山と呼
ばれるようになったといいます。ちなみにノギの王子とは乞食・流
れ者・修験僧のことだそうです。
【▼伝説・山の三角関係】
さて、こんな伝説もあります。岩手山の真東、いわて銀河鉄道
好摩駅近くに姫神山(ひめかみさん・1124m)があります。この
山はなだらかな所がありなんとなく女性的な山。そして北側岩手川
口駅付近には、地元ではオクリセンと呼ぶ、山頂が平らな送仙山(お
くりせんざん・482m)があります。さらに東南には、早池峰山(は
やちねさん・1914m)もあります。
この岩手山、姫神山、早池峰山の三山は仲が悪いといいます。そ
れにはこんないきさつがあるのです。その昔、岩手山はこの地方の
独裁者だったといいます。この岩手山と姫神山とは夫婦でした。し
かし妻の姫神山はあまり美しくありませんでした。それに不満を持
ちはじめた岩手山は、次第に遙かにそびえる女神・早池峰山に思い
を寄せるようになりました。
ついに岩手山は妻の姫神山を追い出そうと考えました。家来のオ
クリセン(送仙山)に「姫神山をワシの目の届かないところに連れ
て行け」と言いつけました。さらに「首尾よく使命を果たさない時
はお前の首はないものと思え」ともつけ加えました。この無理な命
令にもオクリセンは、相手が岩手山では断ることもできません。泣
く泣く妻はオクリセンに連れられて出て行くのでした。
姫(姫神山)は永年すんだこの土地へのせめてもの形見として、
糸を玉のように巻いた「巻子(えそ)」というものを置いていきま
した。「巻子」は付近にみるみる森となって散らばっていきました。
それが送仙山近く花輪線大更駅そばに散在する「五百森」(いおも
り)と呼ばれる青草でおおわれた丘なのだといいます。
次に姫神山が自分が使っていた、お歯黒の鉄漿(かね・鉄くずを
焼いて濃い茶に浸し、酒などを加えて発酵させた液)を川に投げ込
みました。川の水は赤く染まりました。その川を赤川といいました。
そしてそこにある小石はいまも赤いそうです。こんな姫神山にオク
リセンは不憫でなりません。グズグズしているうち、とうとう夜が
明けてしまいました。
岩手山が目をさましてみるとナント、姫神山が何事もなかったよ
うにそびえているではありませんか。そればかりか朝日の光を全身
に受けて、真っ正面に突っ立っています。怒り心頭に達した岩手山
は、「ゴーッ」とばかり、一気に火を噴き、暴れ回れました。岩手
山からの火は、獣や鳥、草や樹などあらゆるものを焼きつくし、そ
の悲鳴に山も谷もどよめきました。
そしていったとおり、腰の剣を抜き、オクリセンの首をはねてし
まったのです。いま、オクリセンの頭が切りとられたように平らな
形で、赤い小石が散らばっているのはそのせいだといいます。それ
からしばらく、岩手山は火を噴きながら、あたりをにらみつけてい
ましたが、気がつくとあたりは夕方になっています。見るとまわり
には鳥も獣ももういません。自分吹いた猛烈な火でみんな焼き尽く
してしまったのです。
暗いなかで、焼けただれた岩だけがパチパチと火花を飛ばし、赤
く燃えているだけだったのです。岩手山は急にさみしくなり、残酷
なことをしてしまったことを悔いました。そしてせめてオクリセン
の首を自分のそばにと手を伸ばし、肩の所に置いたのです。それが
岩手山の肩にあるこぶだといいます。こんなことがあってから岩手
山は急に優しくなり、姫神山との仲を元通りに収めて、いまも一緒
に暮らしているのだそうです。
これとは別に、早池峰山が男山だという話もあります。岩手山と
姫神山は仲のいい夫婦でした。それを見てヤキモチを焼いた男山の
早池峰山は、ついに横恋慕を起こします。早池峰山はなんだかんだ
と姫神山をだまして、とうとう自分のものにしてしまいました。だ
から早池峰山と岩手山は仲が悪く、いつも姫神山を争ってケンカを
しているということです。
いまも夏など決してこの3つの山が同時に晴れるということはな
く、早池峰山と姫神山が晴れれば岩手山が怒ってくもり、岩手山と
姫神山が晴れれば早池峰山が怒りくもってしまうそうです(「日本
伝説集」)。
このような類話もあります。早池峰山と岩手山が毎日喧嘩するの
を見て神々が心配し、この2つの山の間に大きな川を投げ入れて2
つの山を分けてしまいました。その川がいまの北上川だそうです
(「東奥異聞」)。これら山の三角関係の話は、民俗学者の柳田國男
博士も「日本の伝説」の中で紹介しています。なんとも人間くさい
山の神さま、面白い話ですね。
▼岩手山【データ】
【所在地】
・岩手県岩手郡雫石町と八幡平市・岩手郡滝沢村との境。いわて
銀河鉄道滝沢駅の北西12キロ。JR東北新幹線盛岡からバス、柳
沢から歩いて5時間半で岩手山。外輪山火口壁薬師岳に一等三角
点(2038.2m)がある。外輪山南東側に岩手山神社の奧宮がある。
【位置】
・一等三角点:北緯39度51分09.39秒、東経141度00分03.6秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大更(盛岡)」or「松川温泉(秋田)」(2
図葉名と重なる)
▼【参考文献】
・『岩手の伝説』平野 直著(津軽書房刊)1983年(昭和58)
・『角川日本地名大辞典3・岩手県』高橋富雄ほか編(角川書店)1985
年(昭和60)
・「雫石町教育委員会社会教育課の手紙」
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説集』高木敏雄(ちくま学芸文庫・筑摩書房)2010年(平
成22)
・『日本伝説大系2・中奥羽編』(岩手・秋田・宮城)野村純一編(み
ずうみ書房)1985年(昭和60)
・『日本の民話2・自然の精霊』松谷みよ子ほか(角川書店)1974
年(昭和49)
・『日本歴史地名大系3・岩手」(平凡社)1990年(平成2)
・『名山の日本史』高橋千劔破(河出書房新社)2004年(平成16)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)
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