▼1112-(百伝12)八幡平「山名と秋田県側の伝説」
【説明本文】
岩手県と秋田県にまたがる八幡平(はちまんたい)は、名前のよ
うに平らで、明るく開けた草原状山。その地名の由来はいくつか
あるようです。
まず坂上田村麻呂説。平安時代初期、坂上田村麻呂が蝦夷(え
みし・伝説では岩手山の鬼・大猛丸)との戦いで、敵将を討ち取っ
たことを神に感謝、また敵将の大猛丸(おおだけまる)の供養を弔
(とむら)って八つの旗(すなわち八幡)を立てて八幡神社を勧請
(かんじょう)したとの説。
また平安時代後期、源氏の八幡太郎義家が父親の頼義とともに、
安倍一族との戦ったの時(前九年の役)にここに登ったことに由来
するとの説。さらにここは湿地で、地面が柔らかい所のため、柔(ヤ
ワ)と所を意味する(タ)、それに、山上の湿原の意味「タイ」を
合せたという説です。
ところで、ここ八幡平は奥羽山脈に連なる大火山高原です。こん
なところですから、温泉があちこちにあり、岩手県側には藤七(と
うしち)・草ノ湯・安比(あっぴ)などの温泉が、秋田県側には熊
沢川やその支流域に蒸ノ湯(ふけのゆ)、大深(おおぶか)、後生掛
(ごしょがけ)、大沼などの温泉があります。
八幡平アスピーテラインを、八幡平山頂を越えて秋田県鹿角市に
入ると「ふけの湯温泉」があります。「ふけの湯」は、子宝の湯と
して有名で、こどもが授からない女性が、浴衣一枚でムシロの上に
寝て、下からの蒸気で身を蒸(ふ)かす温泉です。湯槽には男性の
象徴である木製の金精(こんせい)さまがたくさんあって子宝の湯
にふさわしい所。
ここには金精さまのお祭りもあります。毎年6月10日に行われる
金精大明神の祭典の行列には、ほら貝を吹く烏帽子(えぼし)姿の
人を先頭に、猿田彦(さるだひこ)神、神主、そのあとには、金
精さまを抱いた女性がつづきます。金精さまは全身を白布につつ
まれ、ふたりの女性に一体ずつ抱かれて、山中の「ふけ湯神社」
に向かって登っていきます。
ふけの湯神社に着くと、金精大明神に祝詞(のりと)をあげ、
金精さまの白布をとって奉納します。あとはお神酒、お菓子が配
られて式が終了。その後、出発した湯治場(とうじば)前の広場
に帰り、仮装行列やのど自慢を楽しむということです。さぞかし
ご利益がありそうです。
この山も伝説がたくさんあります。その1「オナメ・モトメ伝
説」。オナメとは愛人のことで、モトメとは本妻のことだといいま
す。八幡平アスピーテラインを、頂上のバス停を越えて鹿角市に入
るとあらわれる温泉のなかに、後生掛(ごしょがけ)温泉がありま
す。
「オナメ・モトメ伝説」はここに伝わる話です。この温泉の地獄
谷には、熱湯と蒸気がすさまじい噴出口がふたつ、競い合うように
してならんであります。江戸時代中期のこと、いまの岩手県雫石(し
ずくいし)から、秋田県の生保内(おぼない)方面に荷物を運ぶ、
喜平という名の牛方(うしかた・牛飼い)がいました。
ある時喜平は、仙岩峠(せんがんとうげ・雫石町と秋田県仙北市
・標高895m)に差しかかった時、追いはぎに襲われました。深い
傷を負った喜平は、後生掛の湯までたどりつき、ここで養生するこ
とになりました。ある日ひとりの巡礼娘が、ここにたどり着きまし
た。親の供養のため、青森の霊場として有名な「恐山」や「仏ヶ浦」
をまわっての帰りでした。
巡礼娘が後生掛の湯に着いたのは、ちょうど喜平が露天風呂で全
身傷だらけの体を休めているところいるところでした。喜平の姿を
見た娘は、あまりの痛々しさに放っておけず、看病や世話をするよ
うになりました。そのお陰か、喜平は元気が戻りふたりは夫婦にな
り、喜平は夏は牛方、冬はマタギをして幸せに暮らしていました。
ところが喜平には故郷の岩手の雫石(久慈とも)に妻がいたので
す。妻は帰らない夫を心配しながら探し歩き、人づてに後生掛(ご
しょがけ)の温泉いることを知り訪ねてきました。しかしそこには
仲睦まじく暮らしているふたりの姿があったのです。雫石から来た
はびっくり。
しかし幸せそうな夫と娘の姿を見るにつけ、妻は夫がすでに巡礼
娘に心を移していることを知りました。妻は大いに悲しんで、近く
の熱湯噴出する大湯沼(※後生掛温泉の南側にある)に飛び込んで
しまいました。一方、何も知らなかった娘も、人の夫を奪った罪の
深さを悔いて、あとを追うように身を投げてしまったのです。
その時です。突然ドーンと大音響とともに、新しくふたつの噴泉
が出現しました。それ以来、ふたつの噴泉は、競争するように「ゴ
ボー、ゴボー、ゴー」という不気味な音を立てて、熱湯を噴出し続
けています。喜平も自分の罪の深さにおののき、二人の女の後生を
弔(とむ)いつづけたということです。そしてそんなことから、ふ
たつの大噴泉を「オナメ、モトメ」と名づけ、地名を「後生掛」と
いうようになったということです。一人の男に「後生を掛」けた女
性の悲しい物語です。
その2「だんぶり長者」。昔、出羽国(北秋田郡)独鈷(とっこ)
村(いまの大館市比内町独鈷)に、気だての優しい美しい娘が住ん
でいました。ある夜夢に老婆があらわれ、「汝の夫になるべき男は
この川(いまの米代川)の上流の小豆沢という所にいる。そこへ訪
ねて行き結婚せよ」といいます。娘は夢のとおり、川上の小豆沢村
(いまの鹿角市八幡平小豆沢)に行って結婚、仲睦まじく住んでい
ました。
ある年の元旦、夢にふたたび老婆があらわれて、「われは大日神
霊なり。汝さらに川上に行きて住むならば有徳の人となるべし。わ
れはこの地に鎮座して人民を守護するなり」とのお告げを受けまし
た。素直な夫婦はお告げとおり、そこに土で祭場をつくり大日神を
まつり、自分たちは米代川の上流の田山村(いまの岩手県安代町田
山)の奧の平間田という所に移転、田畑を耕して仲良く暮らしてい
ました。
ある日、野良仕事で疲れた男がウツラウツラしていたとき、岩か
げからトンボ(方言ではだんぶり)が男の鼻に2,3度尾を触れま
した。そこで目をさました男は突然、「夢のなかで、いままで飲ん
だこともない甘い酒を飲んだ」と話しました。
不思議なことがあるものだ。男は同僚から、トンボが自分が寝て
いる間に不思議なことをしたことを聞き、トンボが飛んでいった方
へ行ってみました。するとそこには、泉がわき出ていてトンボがた
くさん飛んでいる場所がありました。泉の水をちょっと飲んでみる
と、まさしく夢の中で飲んだ酒でした。夫婦は神さまからの授かり
ものだと喜んで、これを村の人たちにも分けました。
すると病人がたちまち治り、寿命が延びるというありさま。この
評判が広まり、大勢の人がここに引っ越してきました。それからは、
その人たちの米のとぎ汁で川が真っ白になり、「米白川」の名がつ
きました。これがいまの「米代川」だそうです。その後夫婦はどん
どん長者になっていきました。
長者には秀子という評判の美しい娘がおりました。このうわさは
遠く京の継体天皇(けいたい・第26代とされる天皇。在位507〜
531)の耳に入り、娘は「吉祥姫」と名を変えて帝の妃になりまし
た。夫婦は「長者」の称号を与えられ、トンボ(だんぶり)のお陰
で長者になったので「だんぶり長者」と呼ばれ、幸せに暮らしたと
いうことです。
ただ、不思議なこの泉の水は、長者や夫婦が亡くなると普通の水
に変わってしまい、いまはその旧跡だけが残っているということで
す(「旅と伝説」第十二巻三号)。(※類話多し)。
▼八幡平【データ】
【所在地】
・岩手県八幡平市各地区名(旧岩手郡安代町)と岩手県八幡平市
各地区名(旧岩手郡松尾村)、秋田県鹿角市と秋田県仙北市田沢湖
(旧仙北郡田沢湖町)との境。いわて銀河鉄道大更駅の西22キロ。
JR東北新幹線盛岡駅からバスで八幡平終点。二等三角点(1613.3
m)がある。地形図に三角点の標高の記載あり。三角点より南東3
05mにガマ沼、910mに八幡沼がある。
【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・三角点:北緯39度57分28.14秒・東経140度51分14.69秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「八幡平(秋田)」
【山行】
・某年7月28日(金・ガス)
▼【参考文献】
・『岩手の伝説』平野 直著(津軽書房刊)1983年(昭和58)
・『角川日本地名大辞典5・秋田県』新野直吉ほか編(角川書店)
1980年(昭和55)
・『角川日本地名大辞典3・岩手県』高橋富雄ほか編(角川書店)
1985年(昭和60)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平
成17)
・「旅と伝説」三元社編(三元社)1039年(昭和14):「民俗学
資料集成」第十二巻三号(岩崎美術社)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成
9)
・『日本伝説大系2・中奥羽編』(岩手・秋田・宮城)野村純一編(み
ずうみ書房)1985年(昭和60)
・『日本歴史地名大系3・岩手県の地名』森嘉兵衛(平凡社)19
90年(平成2)
・『日本歴史地名大系5・秋田県の地名』今村義孝ほか(平凡社)
1980年(昭和55)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成2
1)
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