伝説伝承の山旅通信【ひとり画っ展】とよだ 時

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1079号三重県滋賀県境鈴鹿峠の鬼と岩手山

【略文】
鈴鹿峠は、山賊や鬼のすみかとして有名なところ。伊勢りの旅人や、
行商人、都へ献上品を運ぶ人たちなどはたびたび襲われたというこ
とです。とくに平安末期の朝廷の衰退した乱世期には、多くの盗賊
が出没し、それにまつわる伝説も多く、坂上田村麻呂の鬼神退治、
恵心僧都の化蟹退治など、鈴鹿と山賊の関係は有名です。
・三重県亀山町と滋賀県甲賀市との境。

1079号三重県滋賀県境鈴鹿峠の鬼と岩手山

【本文】
 鈴鹿(すずか)峠は、三重県亀山町(旧鈴鹿郡関町)と滋賀県甲
賀市土山町との境、鈴鹿山脈南端の峠です。地名はスズタケが密生
していることに由来しているそうです。山賊や鬼のすみかとして有
名なところで、伊勢参宮の旅人や、伊勢水銀売りなどの行商人、都
へ献上品を運ぶ人たちなどはたびたび襲われたということです。と
くに平安末期の朝廷の衰退した乱世の時代には、盗賊が多く出没し
たといいます。

 それにまつわる伝説は多く、女盗賊鈴鹿御前や、坂上田村麻呂の
鬼退治、『今昔物語集』巻第27や巻第29、恵心僧都の化蟹退治な
ど、鈴鹿と山賊の関係は有名です。また峠には、いまも鏡肌岩と呼
ばれる岩があって、その昔、山賊がこの岩にうつる人影を見ては襲
っていたと伝えられ、三重県指定の天然記念物になっています。

 この峠は、京などでも昔からすでに知られており、「思ふ事なる
といふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく」(村上天皇・拾遺集)
や、「鈴鹿山浮世をよそに振捨てゝいかになり行く我身なるらん」(西
行・新古今集)などなどと、鈴鹿の関・鈴鹿川・鈴鹿山などは古歌
の歌枕で数多く歌われています。しかし、このようによく「鈴鹿山」
といいますが、鈴鹿山という山はなく、鈴鹿峠東側あたりの山をさ
しているのだそうです。

 さて、江戸時代には江戸と京都を結ぶ幹道として整備され、参勤
交代で多くの大名行列も通るようになりました。このあたりは天候
の変化が激しく、鈴鹿馬子歌に「坂は照る照る鈴鹿はくもる、あい
の土山雨が降る」とあります。

 滋賀県側の土山地区は、雨の多い場所として知られ、歌川広重の
浮世絵にも、東海道五拾三次のうち、「土山 春之雨」(つちやま は
るのあめ)というのがあります。しとしとと降る春雨に打たれなが
ら、大名行列が続いている様子を描いています。「坂」は三重県側
の坂下宿の意味らしい。

 ところで、鈴鹿峠の鬼や山賊の話がよく出てきます。『今昔物語
集』「巻第27」にはこんなことが出ています。今は昔、……。ある
時、鈴鹿の山のなかの古いお堂に下賎(げせん)な3人の男が泊り
ました。ここのお堂には鬼がすんでいるといわれ、誰も近寄らない
ところ。3人は夜話のはずみに、ひとりが深夜雨のなか、山中で先
ほど見た死人を、取りに出かけることになりました。…

 …するともうひとりの男が、先回りしていき、死人を谷底に投げ
捨て、身代わりなって横になって待っています。そこへ男がやって
きて、身代わりをかつごうとしたとたん、男が肩にがぶりと噛みつ
きました。男は「死人さま、そんなに噛みつきなさるな」といって、
悠々と背負ったまま走り出しました。…

 …やがてお堂まで来た男は、戸の外におろして「おーい、担いで
きたぞ」といいながら中に入っていきました。その隙に担がれてき
た男は隠れてしまいます。男が戻ってみると死人がいません。「あ
りゃ、逃げられたか」。そこへ逃げた男が出てきて事情が分かり「と
んでもない奴だ」と笑いあいながら、ふたりでお堂の中に入ってい
きました。…

 …一方、お堂に残ったもうひとりの男の話です。ふたりが出てい
ったあと、お堂の天井の格子のひとますひとますから、恐ろしい顔
が突き出たのです。しかし男はびくとも動ぜず、太刀を抜いてきら
めかすと、突き出た顔はどっと笑って消え失せたということです。
さて「この3人のうち誰が一番肝が座っているか、いずれ劣らぬ豪
胆な男たちだ」と記しています。

 また、同書「巻第29」には、伊勢水銀商人が鈴鹿峠を根城にし
た80人あまりの盗賊に襲われた話が出てきます。襲われた水銀商
人は、ふだん飼っていた蜂の大群を呼び集め、山賊どもを皆殺しに
させました。さらに、谷にあった「盗賊が何年もの間奪ってため込
んだいろいろな宝を手に入れて」京に帰りました。そしてますます
裕福になったとあり、「されば蜂さえもものの恩は知っていたのだ」
としています。

 また立烏帽子とか、鈴鹿御前ともいう、とんでもない女盗賊がい
たという話もあります。それにはいくつもの伝説があるそうですが、
これはその中の御伽草子『立烏帽子』の話です。

 「坂上朝臣(あそん)田村の五郎利成が、勅命(ちょくめい)で、
鈴鹿山の女盗賊立烏帽子(たてえぼし)を征伐に赴(おもむ)きま
した。女は、池中の蓬莱(仙人が住む山)・方丈(仙人が住む島)・
瀛洲(えいしゅう・仙人の住む神山)の3島に、御殿をつくってす
んでいました。…

 …そこで田村は蟇目(ひきめ・射ると音を発する器具)に矢をつ
くって、玉章(たまずさ・手紙)を送り、女の射返した手紙を受け
取りました。手紙には、陸奥の国の「きりはた山」にすむ夫の悪鬼
(阿黒王)を討ってくれるならば、勅命に従って田村と結婚すると
ありました。さらに女(立烏帽子・鈴鹿御前)は、仁対玉(思うこ
とを中に吹き込める宝珠)に声を吹き込んで投げてきました。…

 …その玉が田村の前にころがってきて、あす朝、八頭五色の悪鬼、
阿黒王が、湖水のほとりに出てくるので、その時に退治するように
と告げています。田村は翌朝、いわれたとおりに退治し、鈴鹿御前
と結ばれたという」(『御伽草子事典』)のだそうです。

 またこんな本もあります。江戸時代前期の地誌『勢陽雑記』(せ
いようざっき)では、立烏帽子の夫鬼の名を「悪露王」とし、物語
は大体同じように記しています。……みちのく霧畑が嶽に悪露王と
いう鬼がおり、利成は立烏帽子から与えられた秘策で、八面八角の
恐ろしい鬼・悪露王を退治したのでした。

 しかし田村利成は、悪露王を討ち取って立烏帽子と結婚はしたも
のの、天皇からの勅令に背き、いまでは逆臣といわれても仕方ない
身。思い悩んでいると、それを察した立烏帽子は、「自らをからめ
戒めて京へ行き、天子の気持ちをなだめ給ふべし」と進言。「私を
天皇に差し出しなさい」というのです。

 利成は思い切って立烏帽子を京へ差し出しましたが、天皇は「鬼
を退治した」というので逆に感心、利成は許されたのでした。一方
立烏帽子は家来の武士たちに預けられましたが、「何とかしたりけ
ん取逃がして行(く)えも知らずうせにけり」。

 その後、立烏帽子が鈴鹿山にけってきたといううわさを聞き、利
成も鈴鹿山に戻りふたりは一緒に暮らし、やがて一男をもうけ「正
林」と名づけたということです。「その後年月経るほどに夫婦とも
に身まかりけり。其(の)化女(けじょ)を鈴鹿御前とまつり、利
成を田村堂にまつりけるとかや」(『日本伝説大系9』所収)と結ん
でいます。

 話は飛びますが、東北の岩手山は、雪どけの形が飛来する鷲の形
に見えるため、厳鷲(がんじゅう)山とも呼ばれます。その縁起を
記した『厳鷲山縁起』に、平安時代初期の延暦年間(782〜806)、
伊勢鈴鹿山の鬼退治を命じられた坂上田村麻呂が、清水観音から
授かった葦毛の馬に乗って鈴鹿山に登ったことが出ています。

 そして山中でひとりの神女に出会いました。「私はこの山にすむ
立烏帽子という者。世間に鬼が暴れて迷惑がかかっているのは、
奥州の厳鷲山にすむ鬼が私に関係を迫ってくるのですが、私が相
手にしないので怒って暴れるためです。なんとか退治して貰いた
い」。

 田村麻呂はこの神女から宝剣を贈られ、彼女の案内で厳鷲山の
となりの駒嶽に陣をとり、すんでいる鬼ことごとく退治したとあ
ります(『東北の山岳信仰』)。

 東北の岩手山(2038m)は、異名を「霧山岳」、「霧ヶ岳」、「霧
隠山」などといい、外輪山の内側の噴火口内にまた妙高山があっ
て、ケルンがふたつ積まれています。それが2本の角になり、火
口壁の上からみるとまるで鬼伝説のあるとおり鬼の顔の形になっ
ています。山頂南側の外壁には険しい屏風岩があり「鬼ヶ城」と
呼んでいます。

 鬼ヶ城は、その名の通り城壁のようなゴツゴツ岩。北に八ツ目
湿原から遠く八幡平、南に雫石への裾野が広がっています。かす
かなふみあとがつづくヤセ屋根で歩きにくい。お花畑の不動平に
下ると、急に人が多くなります。歩きにくい鬼ヶ城尾根より西岩
手山お苗代湖、八ッ目湿原のコースをとる人が多いらしい。

 ところで、名高い鈴鹿関(すずかのせき)は、伊勢国(三重県
関町付近)に置かれた古代の関所です。美濃国(岐阜県)の「不破
(ふわ)関」、越前国(福井県)の「愛発(あらち)関」とともに
三関(さんかん)のひとつ。一時廃止になったものの、江戸時代に
東海道・伊賀街道・伊勢別街道の3街道が通る要地になったため、
再び置かれたという関所。

 この関の歴史は古く、飛鳥時代の646年(大化2)に設けられま
した。かの「大化改新」の詔(みことのり)に、「関塞(せきそこ)、
斥候(うかみ)、防人(さきもり)を置け」とあるのことによって
置かれたものであろうということです。当時、近江から伊勢への官
道は、倉歴(くらぶ)越が利用されていたので、はじめは三重県鈴
鹿郡関町付近にあったらしい。

 平安時代初期の886年(仁名2・参考書によっては887年)、京
都から土山(つちやま・滋賀県)を経て、坂下(三重県)に至る阿
須波(あすは)道(伊勢大路)として開かれました。下を国道1号
がトンネルで通り、旧道は東海自然歩道の一部になっており、かつ
ては都と東国を分ける境界で、東海道の要所。東国へ向かう交通の
要所で、箱根に次ぐ難所として知られたところだそうです。


▼鈴鹿峠【データ】
★【所在地】
・三重県亀山町(旧鈴鹿郡関町)と滋賀県甲賀市土山町との境。関
西本線関駅の北西7キロ。関西本線関駅からタクシー。鈴鹿峠下片
山神社山道入り口から50分で鈴鹿峠。鏡肌岩がある。

★【位置】
・鈴鹿峠:北緯34度53分33.33秒、東経136度20分21.99秒

★地図
・2万5千分の1地形図:鈴鹿峠

▼【参考文献】
・『御伽草子事典』徳田和夫編(東京堂出版)2002年(平成14)
・『鬼の研究』知切光歳著(大陸書房)1978年(昭和53)
・『鬼の研究』馬場あき子(三一書房)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典24・三重県』(角川書店)1978年(昭和53
年)
・『角川日本地名大辞典25・滋賀県』(角川書店)1979年(昭和54)
・『義経記』(作者不明):(日本古典文大系37『義経記』岡見政雄
校注(岩波書店)1959年(昭和34)
・『古今著聞集』橘成季(有朋堂書店)大正15(1926)年:国会図
書館電子デジタル
・『今昔物語集4』馬淵和夫ほか校注・訳(小学館・古典文学全集)
1995年(平成7)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系9・南近畿』(三重・奈良・大阪・和歌山)渡邊省
吾ほか(みずうみ書房)1984年(昭和59)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本百名峠』井出孫六編(桐原書店)1982年(昭和57)
・『日本歴史地名大系24・三重県の地名』平松令三ほか(平凡社)
1983年(昭和58)
・『日本歴史地名大系25・滋賀県の地名』柴田實(平凡社)1983年
(昭和58)
・『本朝神社考』(神社考)林羅山著(『日本庶民生活史料集成・第
26巻』神社縁起(三一書房)1986年(昭和61)

 

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