伝説伝承の山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

……………………………………

1076号山梨県道志村モロクボ沢の頭・的さま

【略文】
畦ヶ丸の北西600mのところにモロクボ沢ノ頭というピ−クがあり
ます。その北側、山梨県道志村から突き上げる、その名もモロクボ
沢の上流に、矢の的(まと)のような標的模様の一枚岩があります。
昔、鎌倉の源頼朝が富士の巻狩りのおり、道志村に立ち寄り、やぐ
らの上から的を射たという。
・神奈川県山北町と山梨県道志村との境。

【本文】
 山梨県道志村と神奈川県山北町との境、「甲州・相州国境の尾根」
は、大室山から菰釣山・三国山までつづいています。このあたりは
よい木材が採れる山だったという。かつて小田原北条氏の命令で伐
り出された木材は、城のある小田原まで運搬されていたそうです。
江戸時代になると御木となって保護され、明治には御料林に指定さ
れます。

 こんな山林ですから、相模の国(相州・神奈川県側)・甲斐の国
(甲州・山梨県側)、それに一部駿河の国(駿州・静岡県側)も加
わり、自分の領地に有利にしたいところ。そんなことからこの尾根
を中心に、主に相模と甲斐の間で永い間紛争が絶えなかったそうで
す。

 いまでもこの尾根には、当時の国境紛争を説明した掲示板が見受
けられます。その尾根のなかで、かつて「丹沢の秘峰」といわれた、
畦ヶ丸から北西600mのところに、モロクボ沢ノ頭というピークが
あります。

 神奈川県側からここに突き上げるその名もモロクボ沢が山名の由
来だといいます。ところが、モロクボ沢ノ頭の北側・山梨県の道志
川からも、同じ名前のモロクボ沢(室久保沢)が突き上げています。
ちょっと紛らわしいですが、道志村にはモロクボや何とかクボなど
という地名が多くあります。大久保、室久保、小室久保、蜂久保な
ど、久保などなど。どれもくぼ地をあらわしているそうです。

 その道志村からのモロクボ沢の上流で、加入道山方面への湯ノ花
沢を分けたすぐ上流に、的様(まとさま)という神社があります。
その川底には、矢の的(まと)のような丸い標的のような模様の一
枚岩があります。この神社には次のような話が伝えられています。

 昔、鎌倉の源頼朝が富士の巻狩りのおり、ここ道志村に立ち寄り
ました。頼朝は、はるかモロクボ沢上流に的(まと)になる岩があ
るという話を聞き、高櫓(やぐら)をしつらえさせました。その上
に登った頼朝は、沢床にあるはずの標的に向かって矢を射ろうとし
ました。

 ところが、矢の通り道には、ヒノキやカシなどの木々が、薄暗く
生い茂っていて、的がぜんぜん見通せません。そこで頼朝はやぐら
の上から樹木をにらみつけて、「暗かろうゾ!」と一喝したのでし
た。驚いたのは樹木たち。四海天下に名だたる頼朝公の大声に、恐
れ縮み上がり、木々の葉っぱはしなびはじめ、枝は垂れ下がり、幹
は折れて傾き、みな枯れてしまいました。

 そして的になる一枚岩が、見通せるようになったのです。頼朝は、
さもありなんと、ゆうゆうとして強弓を放ち、みごと的を射たので
ありました。その距離一里余りもあったというから驚きです。おか
げでいまでもモロクボ沢すじには、ヒノキ、サワラ、カシ、ツバキ
などの木々は生えていないということです。ホントかいな。

 そのやぐらをしつらえたところを「ヤグラケイト」と呼び、いま
は山畑地に開墾されているとか。この「ケイト」とは、平地を意味
する方言だそうです。このこと以来、戸板集落から北西に登る沢を
櫓(やぐら)沢と呼び、その名を残しています。

 一方モロクボ沢上流の的神社の近くには、この谷唯一の滝があり、
滝の上の沢底は美しい花崗岩の一枚岩になっていて、3つの的さま
が刻ざまれています。それはひとつの黒点を中心にして、三重の白
い標的の同心円が描かれ、左右に2本の房を垂らした的形の層紋に
なっています。

 一の矢、二の矢、三の矢と射る大弓の的のようになっています。
こんな的さまに対し、地元の人々は神として敬い、神聖視し合掌す
るのでありました。このあたりの木材を伐採する時も、この的さま
には触れないように気をつかいながら搬出するという。

 ある時、江戸の木材問屋の信濃屋が、搬出作業にあたっていた時
のこと。使用人の中にひとりに荒くれ男がいました。男は、的さま
を馬鹿にし、罵(ののし)りながら紋層を足蹴(あしげ)にして、
高笑いまでしたのでした。すると急に、足蹴にした男の足が痛み出
し、七転八倒、苦痛に堪えかね転げまわる状態になりました。

 ほかの使用人も大勢集まって大騒ぎ、この男を熱海の湯河原まで
かついでいき、湯治治療をさせたという。「これは的さまの神罰に
違いない」。材木問屋の信濃屋は、石の祠(ほこら)をつくり、こ
こにねんごろにまつったという(『道志七里』)。的さまは、いまは
五穀豊穣と、雨乞いの神さまとして、村人たちに親しまれているそ
うです。

 またその下にある「的さまの滝」は、毎年4月に祭礼が行われ、
滝壷にある白砂の量の多いか少ないかにより、その年の作物の出来
不出来を占っているそうです。ここ道志村はかつては山奥の辺境の
村、とくに作物の出来具合は村の存亡にかかわる重大事だったに相
違ありません。


▼モロクボ沢の頭【データ】
★【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町と山梨県道志村との境。小田急小田原
線新松田駅からバス、西丹沢停留所下車、さらに歩いて3時間30分
でモロクボ沢の頭。

★【位置】
・モロクボ沢の頭:北緯35度28分52.61秒、東経139度01分40.1


★【地図】
・2万5千分1地形図名:中川。

★【山行】
・某年12月31日(土)

▼【参考文献】
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11年)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『丹澤記』吉田喜久治(丘書房)1983年(昭和58)
・『道志七里』伊藤堅吉(山梨県道志村役場)1953年(昭和28)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

 

……………………………………

 

【とよだ 時】山の伝承探査
……………………………
 漫筆画文・駄画師・漫画家
(蕪)【ゆ-もぁ-と】事務所
山旅【画っ展】の会

山旅【画っ展】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ
【戻る】