山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1063号「丹沢・八菅山」

【略文説明】
八菅山は、神仏習合の信仰の聖地で、明治時代までは修験道場と
して栄えた山。役行者小角(おづぬ)や、行基菩薩が訪れたとも
いわれている山です。その役行者がこの山にきて修法を行ったと
き、池の中から8本の白スゲ(カヤツリグサ科)が生え出るとい
う不思議なことがあり、八菅山の名が生まれたという。
・神奈川県愛川町。

1063号「丹沢・八菅山」

【本文】
 八菅山(はすげさん)は、神仏混淆(こんこう・神道と仏教の
2つの信仰を折衷し、融合・調和させる)の信仰の聖地で、明治時
代までは修験道場として栄えていた山。役行者小角(おづぬ)や
行基菩薩が訪れたともいわれている山です。八菅修験はとくに歴代
将軍の保護のもと、公認の教団として隆盛しました。

 源頼朝や足利尊氏・持氏によって堂社建築、および整備も行われ
たともいわれています。山内には七社権現(しちしゃごんげん)と
別当(寺務を治める)光勝寺の伽藍のほか、50あまりの院や坊が
ありましたが、明治4年(1871)の神仏分離令で光勝寺は廃止とな
り、七社権現は八菅神社と改めさせられました。

 この山は、神奈川県北西部につらなる丹沢山系の東端、愛川町
の中津川の右岸の狭い河川段丘の上にこんもりとしており、標高2
25.7mです。山の中腹に八菅神社(別称八菅の七社権現)があり
ます。

 その祭神は、本殿には国常立命(くにとこたちのみこと)ほか
6神、北社には伊弉那伎尊(いざなぎのみこと)、金山彦命(かな
やまひこのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)ほか6神、
南社には、伊弉那美尊(いざなみのみこと)、大己貴尊(おおなむ
ちのみこと)、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)ほか6神
となっています。

 この神仏分離令が出る以前、八菅山は丹沢では昔から日向山と
ともに、修験の山として知られてきました。これら丹沢の大山を行
場とした修験は、大山修験(当山派)のほかに、大山の東方山中
の日向修験(本山派)と、東北東山ろくにあるこの八菅山の八菅
修験(本山派)があります。

 日向修験が丹沢の表尾根からさらに、奥深く入って修行したの
に対して、八菅修験は丹沢東端の山々から、「奥駆(が)け」と呼
ばれた大山までを修行の場にしていました。ここ八菅の山は、熊
野権現を中心に、蔵王、箱根、男山八幡、山王、白山、伊豆走湯の
七社をまつる七社権現に、別当(寺務を治める)光勝寺の名のもと
にまとまった本坊二十四坊、脇坊二十二坊の修験者が、奉仕すると
いう形態の一山組織を作っていました。

 八菅山はかつては蛇形(じゃぎょう)山といいました。その昔、
かの日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の途中、いまの中津
坂本あたりに来たときにこの山を眺め、「北の方が頭で、竜の形に
見える」というので、蛇形山と名づけたということです。その日
本武尊の足跡をたずねて大宝3年(703)、入山した役小角(えん
のおづぬ・役行者)が修法を行いました。

 その時天空より玉幡一流が降り、突如8本の白スゲが地中から
生え出たので、寺を八菅寺と称するようになりました。その後、
行基が登り七社権現をまつったと伝えています。そのあたりのこ
とを江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』には次のように載って
います。

 「○七社権現社 社蔵顛末秘蔵記(※『役行者顛末秘蔵記』のこ
と)曰、大宝三?癸卯(みずのとう)行者、自一日一夜往関東相州
八菅山三七日修秘法、其間天人降、指桂天蓋於小角守護之、相模一
国樵蘇農夫視之低首揮泪拝旃行者、動了一夜皈洛矣」。また、「徴業
録(※『役公徴業録』のこと)を引て曰、(行者は)遂に当社を勧
請す、其後和銅二年行基神体及本地仏を彫刻し(応永勤進状曰行基
令造立釈迦阿弥陀薬師三仏)一山の伽藍を建立す」。

 さらに別当光勝寺の項には「応永二十六年(1419)の勧進帳(※
『光勝寺再興勧進帳』のこと)に当山者恭行基菩薩草創之地、天
人聖衆遊化場也、宜哉、うんぬん……」とあります。これら3つの
文書を分かりやすく書いてみますと、以下のようになるようです。

 まず、『役行者顛末秘蔵記』(えんのぎょうじゃてんまつひぞうき)
には、おおよそ次のようなことが書かれています。「一、大宝三年
癸卯(みずのとのう・703)。行者は都から一昼夜のうちに関東の相
州にある八菅山に行き、三十七日間の秘法を修めた。その間、天人
が降りてきて小角に天蓋(てんがい)をさしかけて守護した。(※
天蓋とは尊い者を守る覆いのことらしい)。

 これを見た相模の国の杣人や農夫たちは、頭を下げて涙をぬぐい
ながら礼拝した。行者は勤めが終わると、また一夜のうちに帰洛し
た」というのです。なにしろ空を飛んで行くのですからスゴイ。こ
の書物は奈良時代の天平宝字7年(てんぴょうほうじ・763)、弓削
道鏡が官を離れてから弓削の里で書いたものとされています。しか
しどうも怪しく、実際は江戸時代ではないかとのうわさもあります
が、まあそのへんはムニャムニャ……、いいことにしましょう。

 また、江戸時代宝暦8年(1758)の役行者の業績を記した『役公
徴業録』(えんこうちょうごうろく)という書物にも「公が、相模
の八菅山に登って修練した時に、天上から天童が降りてきて天蓋を
執って奉仕した」と記載されています。さらに八菅山に現存する最
古の文献史料(室町時代の応永26年・1419)で、役行者が八菅山
で修法したことを記す『光勝寺再興勧進帳』(八菅山住職盛誉著)
という文書があります。

 それでは、「夫以、当山者、忝行基菩薩草創之地、天人聖衆之遊
化場也、宜哉、昔八丈八手之玉幡、自(二)都率天(一)降(二)臨此
山(一)、時八本之菅根、忽然出生受(二)之、故稱(二)八菅寺(一)
也、云々、故称八菅寺者也、」とあります。つまり、昔、八丈八手
の玉旗(たまはた)が天から降りてきて、神座のスゲでつくられた
菰(こも)から不思議にも8本の根が生えてきた。そこで八菅山と
呼ぶようになったというのです。

 ただこの文章の「自都率天降臨此山」とあるなかの「率」が、『山
岳宗教史研究叢書』では「卒や率」に、『新編相模国風土記稿』で
は「?(ぼう)の字の矛のところが牙」になっていて迷います。こ
の8本の白スゲに関しては、異説もあって八菅の集落付近に生えて
いた山スゲにちなんでいるという説もあります。

 地元の村ではふだん、山スゲを草履やものを縛る材料に使用し
ていました。いまでも麦・稲などを束ねるための材料として、山
スゲを「ハスゲ」といって使っているそうです。この「はすげ」
が採れる山として、八菅山の山名が生まれたと伝えます。

 さて、『山岳宗教史研究叢書』によれば、修験者たちは、八菅か
ら大山まで山中の30ヶ所の行所をひとつひとつ拝しながら、回峰
行を行っていたとらしい。その行所は、(1:八菅山禅定宿(白山
権現、大黒、弁財天)。(2:幣山(へいやま)荼吉尼天岩屋(荼吉
尼天神、倶利加羅明王、毎年3月7日に修験者がここの秘水を用い
て灌頂(かんじょう)の儀式を行ったという)。

 (3:屋形山(地蔵菩薩、愛宕権現)。(4:平山、多和宿(七社
権現、不動明王)。(5:滝本、平持宿(飛竜権現、不動明王)。(6
:宝珠岳(天童、薬師)。(7:山神(天童、十一面観音)。(8:経
石岳(釈迦如来)。(9:華厳岳(大黒石天童、熊野権現、千手観音、
熊野権現の宿所で奧院といわれる)。(10:寺宿(七所権現、不動明
王、竜洞寺という寺が宿になっている)。

 (11:仏生谷(金剛界胎蔵界両部の大日如来)。(12):腰宿(七
所権現、不動明王)。(13:不動岩屋(七所権現、不動明王、児留園
地宿がある)。(14:五大尊岳(五大尊岳天童、五大力菩薩)。(15:
児ヶ墓(児ヶ墓天童、大山修験が入峰の時稚児を葬ったとの伝承が
ある)。(16:金剛童子岳(天童、大黒天)。(17:釈迦岳(天童)。(18
:阿弥陀岳(天童、三峰の北峰)。

 (19:妙法岳(天童、五大力菩薩、愛染明王、三峰の中央峰)。(20
:大日岳(天童、聖天、三峰の南峰)。(21:不動岳(天童、石形不
動、八菅修験が碑伝を打ちつけた樫の木がったという)。(22:聖天
岳(天童)。(23:涅槃(ねはん)岳(天童)。(24:金色岳(天童、
四天童子)。(25:十一面岳(帝釈天童)。

 (26:千手岳(天童、ここは日向修験の行場でもある)。(27:空
鉢岳(天童、通称地蔵平という平地)。(28:明星岳(天童)。(29:
大山寺本宮、雨降山)。(30:大山寺白山不動(白山権現、不動明王、
山王権現、蔵王権現、三十六童子并二天童、大山不動堂をさす)の30
ヶ所だったそうです。

 八菅山の祭礼には、境内に市がたち村人は参詣の帰りに豊作祈
願のためも菅笠を買ったという。それが明治4(1871)年、明治
政府による神仏分離令が発布、七社権現(八菅神社)を支配して
いた英勝寺は廃寺にされてしまい、八菅神社として独立しました。
当時の修験35坊の修験者は、みな神職という身分になりましたが、
神職ではどうしても生活がなりたちません。1戸を残してほかの
人たちは農業に帰ってしまったそうです。


▼八菅山【データ】
▼【所在地】
・神奈川県愛川町八菅山。小田急本厚木駅からバス一本松下車。
約1時間。
▼【地図】
・旧2万5千分1地形図名:上溝


▼【参考文献】
・『あしなか復刻版・第4冊』:「あしなか第80輯』(山村民俗の会)
1981年(昭和56)
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『神奈川県史』(各論編5・民俗)神奈川県企画調査部県史編集室
(神奈川県)1977年(昭和52)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・
宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新編相模国風土記稿3』(大日本地誌大系21)校訂・蘆田伊人
(雄山閣)1980年(昭和55)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)ほか

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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