山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1058号天狗の原形トビ姿・四国白峰の相模坊

【略文】
昔の天狗といえばトビ姿のカラス天狗だったという。その天狗のこ
とを書いた本に『雨月物語』があります。平安時代西行法師が香川
県白峰山、崇徳院の墓に詣でた時、崇徳院の前に「相模」という名
のトビ姿の化鳥があらわれたとあります。この天狗こそ、もと神奈
川県相模大山にいたとされる大天狗相模坊らしい。
・香川県坂出市。

1058号「天狗の原形トビ姿・四国白峰の相模坊

【本文】
 各地の山々に伝わる得体の知れない妖怪なのに、親しみやすい妖
怪がいます。おなじみの天狗です。また天狗かといわれそうですが、
しばらくご容赦をお願いします。天狗といえば赤ら顔に、高下駄を
履いて鼻が高い山伏姿のイメージです。ところが、昔はトビの形を
したカラス天狗を思い浮かべていたという。室町時代の戦記物『太
平記』巻第五「相模入道田楽をもてあそび並闘犬の事」に出てくる、
北条八代執権高時がなぶりものにされた場面(歌舞伎浄瑠璃の外題
になった「高時天狗舞い」)や、また同じ『太平記』巻第二十五「天
狗評定」に出てくる天狗たちはみなトビの姿のカラス天狗です。

 それがいまのように鼻の高い天狗になったのは室町時代の末期だ
という。時の足利将軍(※9代〜13代の間は空位があったり、再
位があったりで何代めかは不明)の夢枕に、牛若丸に兵法を教えた
天狗・鞍馬山魔王大僧正坊があらわれました。そして「自分の姿を
日本画の狩野派2代目・狩野元信に描かせて、鞍馬寺に安置するよ
うに」とのご神託がありました。将軍は早速元信に、鞍馬山魔王大
僧正坊天狗の画像を描くよう命じました。

 元信も先日同じ夢を見たという。元信は何日も悩み苦しんだとい
う。こうして出来上がった天狗像は、いままでの馬糞トビ姿の醜い
カラス天狗とは違い、比べものにならない立派な山伏姿の大天狗像。
それを見た全国あちこちの天狗の山々の信徒たちは、「おら方の山
の天狗様もこの姿にしべえ」と、次々にこの天狗像に乗り換えしま
い、いまでは天狗といえば山伏姿の鼻高天狗をいうようになってい
ます。

 この鼻高天狗の以前の姿・トビ姿の天狗のことを書いた本があり
ます。江戸中期の読本『雨月物語』巻之一白峰の項がそれ。平安時
代の仁安(にんあん)3年(1168)、西行法師が四国讃岐(香川県)
白峰山にある崇徳院の墓に詣でた時、崇徳院の怨霊と会って話した
というのです。崇徳上皇は平安時代の第75代天皇(1123〜1141)
とされている人。「保元の乱」に敗れ、ここに流され失意の中で亡
くなっています。

 そもそも白峰山は弘法大師空海が開いた山。平安時代前半弘仁6
年(815)に、この山に登り峰に如意宝珠を埋め、仏に供える水を
汲む閼伽井(あかい・井戸)を掘って、衆生救済の請願をしたとこ
ろ。その後、円珍和尚(智証大師)が中腹に白峰寺を創建したとい
う。白峰寺は四国霊場第八十一番札所で、崇徳上皇陵はその境内に
あります。

 ここに出てくる崇徳上皇くらい気の毒な人はありません。崇徳の
父は第74代鳥羽天皇でその第一皇子で、母は中宮璋子(しょうし
・待賢門院・たいけんもんいん)ということになっています。しか
し、実は鳥羽天皇の父堀河天皇(73代)の父、つまり父鳥羽天皇
の祖父にあたる、第72天皇だった白河院が、孫の妻・璋子(待賢
門院)に産ませた子だといわれています。爺さまになっても元気で
すねえ。

 また母親である中宮(皇后)の璋子は、これもなかなかの「魔性
の女」。白河院と通じていただけでなく、身分の低いものまで屋敷
に引っ張り込んでいたとの噂もあるくらいです。そして白河院は絶
対的権力のもと、自分の子を宿している璋子(待賢門院)を強引に
鳥羽天皇の妻にし、生まれてきた顕仁親王(あきひとしんのう・崇
徳)を次の天皇にしたのです。やはり自分の子としての崇徳の身の
上を気にかけていたんでしょうね。

 こうして1123年(保安4)、顕仁親王は崇徳天皇として即位、鳥
羽天皇は退位し上皇になります。しかし鳥羽上皇は、新天皇の崇徳
が自分の子ではないと知っていたらしく、うとましく思っていまし
た。白河院が生きているときはまだよかったのですが、祖父が没し
て鳥羽院政の時代に入ると、崇徳天皇と間の対立が表面化します。

 鳥羽上皇は皇后の璋子(待賢門院)を遠ざけはじめ、新しい妻美
福門院(びふくもんいん)を寵愛します。そしてふたりの間の子・
体仁親王(としひとしんのう・のちの近衛天皇)を天皇にするため、
若い崇徳天皇に、無理に帝の位から退くよう圧力をかけます。崇徳
天皇はやむなく退位、新院と呼ばれる身分になりました。

 ところが、新しい天皇(近衛天皇)はまだ3歳という幼さ。その
上体が弱く14年後に死去してしまいます。崇徳上皇はそのあとの
「天皇の位」は、当然自分の子、重仁(しげひと)親王がなるのが
順序だと思っていました。しかし、ここでまた鳥羽上皇の「横やり」
が入ります。鳥羽上皇の第4皇子の雅仁親王(まさひとしんのう・
新院の弟・のちの後白河天皇)にお鉢がまわってしまいます。

 このような父、鳥羽上皇のたび重なる仕打ちに、崇徳上皇は心に
深い怨みが生まれました。その翌年、鳥羽上皇がなくなると新院(崇
徳上皇)は、同じように不満を抱く公家と結託、武力によって後白
河天皇から政治の権力を奪おうとする「保元の乱」をおこします。

 しかし、それをいち早く察知した後白河天皇方は、先手を打って
崇徳上皇の御所に夜討ちを仕掛け、「保元の乱」は失敗に終わって
しまいました。崇徳上皇は捕らえられ、反逆の罪で四国讃岐(香川
県坂出市)に流されました。崇徳は白峰山に近い松山で8年間の歳
月を送り、激しい怒りと怨みのうちに没したのでした。45歳の生
涯だったという。

 この悲運な崇徳上皇のそばで、その霊を慰めていた「相模坊」と
いう天狗がいたというのです。さて『雨月物語』に戻ります。その
「巻之一・白峰」の項に、当時西行法師が仏道修行のため、各地を
回っていたことが書かれています。秋も深まったころ、ここ讃岐に
も来て白峰に登り、崇徳上皇の墓にお参りしました。崇徳上皇が亡
くなってから4年後(仁安3年・1168))のことだという。

 西行が山道をたどっていくと、木立がとぎれたところに、土を積
み上げ、その上に石を3つ重ねたものがあります。イバラやつる草
がからみついた荒れ果てたみじめな上皇のお墓です。かつて天皇の
位にあって、政務を執り、多くの臣下たちに懸命な帝として敬われ
ていた上皇もいまはこのありさま。

 その前で西行は、人の世のはかなさを思い、涙を流しながら読経
します。かつて西行が若いとき、崇徳院の父君鳥羽上皇に仕えてい
ました。当時若き崇徳は天皇の位にあり、てきぱきと政務にいそし
んでいる姿を陰ながら仰ぎ見ていたのです。

 やがて西行は崇徳院の墓の前で、「松山の波のけしきはかはらじ
をかたなく君はなりまさりけり」と歌を一首詠みました。……と「円
位、円位」(西行の法名)という声。日が沈み、霊気がただよう闇
を透かして見ると、異様な姿をしてやせ衰えた人が立っています。
「松山の波に流れて来し船のやがてむなしくなりにけるかな」と先
ほどの歌に返歌しています。まさしく崇徳上皇の霊です。

 上皇は幽霊となってさまよっておられたのか。なんという情けな
いお姿かと西行は嘆きます。しかし上皇は、自分はもう都には帰れ
ない身と悟り、せめて都の寺に納めて欲しいと、お経(五部の大乗
経)を写して送ったのに、それもまかりならんと送り返してきた…
…。もう帝(後白河天皇)こそかたきと思うほかない。この経文を
魔道に捧げて怨みをはらそうと決心したのだ。

 いままで世の中で起きてきた、「平治の乱」(平氏と源氏の争い)
や、美福門院が死んだことなど忌まわしい事件は、みな私が陰で呪
ってやったことなのだ。わしはいま大魔王となって、300余もの魔
物のかしらとなっている……。わしにつらくあたった雅仁(後白河
上皇)にも必ず報いがあるものと思うがよい。と話す崇徳上皇の幽
霊は、手足の爪は長く伸びて、着物はすすけた柿色で、魔王そのま
まの姿です。

 西行は院がこれほど魔道に深入りしてしまった以上、もうなにも
申し上げますまいとさじを投げた感じです。『雨月物語』は次のよ
うに続けます。「……あさましくもおそろし。(※崇徳院が)空にむ
かひて「相模(さがみ)、相模」と叫(よば)せ給ふ。「あ」と答へ
て、鳶(とび)のごとくの化鳥(けてう)翔(かけ)来り、前に伏
(ふし)て詔(みことのり)をまつ……」とあります。この鳶(と
び)のような鳥が相模坊天狗なのです。このころはまだ天狗といえ
ば、カラス天狗(鳶)だったわけです。

 崇徳院は相模坊に向かっていいます。なぜ早く、平重盛(平清盛
の長男)の命をとって後白河上皇や平清盛を苦しめないのか。する
と相模坊天狗は、後白河上皇の命運はいまだつきておりません。平
重盛も忠義が厚く、近づいていくのが難しいのです。しかしいまか
ら干支(えと・十二支)をひと回りして12年過ぎれば、平重盛の
寿命がつきて平家一族の命運も尽きましょう、と相模坊天狗は断言
します。

 そして干支が一周した治承3年(1179)、相模坊天狗のいうとお
り平重盛が病死。すると、清盛は諫(いさ)めるものがいなくなっ
たのをいいことに、後白河上皇を鳥羽の離宮(いまの京都市南区上
鳥羽、伏見区竹田・中島・下鳥羽あたり)に押し込めました。さら
に翌年、福原(いまの神戸市)にかってに都を移して、上皇を粗末
な仮御所に閉じこめてしまいました。

 そんな時、源氏方の義朝の子源頼朝は、打倒平家の旗をあげ、木
曾義仲も立ち上がっていっせいに都に攻め上ります。結果、平家の
一族は敗走、崇徳院の言葉どおり瀬戸内海の海上にただよい滅亡し
ていくのでした。もちろんこれは『雨月物語』の作者・上田秋成が
平家滅亡の年数を計算しての上の構成だといわれてはおりますが…
…。

 さて、ここに出てくる天狗についていろいろな説があります。白
峰相模坊天狗は、崇徳上皇その人であるという説があります。これ
は天狗論者や郷土史家なども唱えている説です。現に『保元物語』
(下・新院血ヲ以て御経(おんきょう)ノ奥ニ御誓状(ごせいじょ
う)ノ事)や、『源平盛衰記』(巻第八讃岐院事)に、また『太平記』
(巻第二十七雲景未来記事・巻第三十三崇徳院の事)にも出てきま
す。それでは何という天狗かというと、とたんにあやふやになって
しまいます。

 しかし江戸末期、平田篤胤(江戸時代後期の国学者で天狗研究者)
の亜流で、和歌山の島田幸安という青年の幽界話『幸安仙界物語』
(『幽界物語』、『神界物語』ともいう)に、崇徳上皇の天狗のこと
に触れた部分があります。『幸安仙界物語』は、江戸時代に天狗の
世界との間を行き来したとされる、嶋田幸安青年が語る天狗界の様
子を、紀州藩士の参澤明という人が聞書したもの。

 参澤明の問いに嶋田幸安青年が答える形式になっています。「八
天狗と申(す)は誰々の名を申(す)候にや」という問いに、「私
師の仙君(清浄利仙君)より聞(き)居候は、天南坊崇徳天皇、次
に太郎坊後醍醐天皇、次に歓喜坊護良親王……」などと、王侯、貴
人、武将の名前をならべて天狗名で答えています。

 ところがそこに出てくる天狗たちはみな、京都愛宕山の天狗社に
まつられているという八天狗の名ばかり。(※ちなみに愛宕山八天
狗とは、太郎坊、火乱坊、三密坊、天南坊、光井坊、普賢坊、観喜
坊、東金坊の8狗)。これはよく見ると、先に触れた『源平盛衰記』
や『太平記』に出ている天狗名に島田幸安が、一つひとつ愛宕八天
狗を当てはめていっただけのもの。これらの天狗はみな太郎坊天狗
の手下のようなもの。格の上でも中級天狗の範疇の天狗。これでは
ぜんぜん問題にならないと、天狗研究者の知切光歳氏はいっていま
す。

 また下記の文書などにも「崇徳院の怨霊」と、「天狗白峰山相模
坊」とは同一ではなく、別々に書かれています。先の小説『雨月物
語』はもちろん、讃岐の寺社縁起伝承を著した書『玉藻集』(江戸
時代延宝5年・1677)にも、「崇徳院、保元の乱に此国に遷され給
ひ、終に崩御、この山に葬り奉る。御廟、玉もて彫る計りなり。左
の殿(でん)は千手観音。右の殿は相模坊形天狗。本地不動にて、
南海の守護神なり。天皇葬り奉る所は、御廟の後ろの山中に有り。
左は為義、右は為朝の石喝(けつ)あり。天長長寛二年(1164)八
月廿六日、御歳四十六にて崩御。御所は鼓ヶ岡なり。当峰に葬り奉
る」と、別々にまつってあると書いてあります。

 このようなことから、相模坊の「相模」はやはり、神奈川県相模
大山の「相模」のことになります。この天狗は、日本の天狗の有名
度の物差しにもなっている「日本八天狗」(京都愛宕山太郎坊、滋
賀県比良山次郎坊、長野県飯縄山の飯綱三郎、奈良県大峰前鬼、
京都鞍馬山僧正坊、香川県白峰相模坊、神奈川県相模大山伯耆坊、
福岡県英彦山豊前坊)にも入っている大天狗です。もとは名前ど
おり、相模の国(神奈川県)丹沢大山(1252m)にすんでいたらし
いですが、いつのころか、四国の白峰山に移ったという。そしてそ
のあとに鳥取県の伯耆大山からやってきた伯耆坊天狗がいることに
なっています。

 それでは相模坊が白峰に引っ越したのはいつごろかということに
なります。それは弘法大師が、白峰を開山した平安時代以前ではな
いかとされています。その理由として、以下の記述などが挙げられ
ています。

 まず『白峰寺縁起』。平安時代の貞観(じょうがん)2年(860)、
白峰山の山上の霊崛から瑞光が発しているので、智証大師が登って
みると「老翁一人現じて曰く、吾は此山擁護の霊神、余は法輪弘通
(ぐずう・普及)の聖者なり。此崛は七仏光輪を転じ、慈尊入定の
地なり。ウンヌン」。そして智証大師円珍が老翁(明神)と一緒に
山中をまわって、白峰寺など4ヶ寺49院を創建して大きな道場に
したとあります。

 また『南海通記』(※江戸時代に書かれた四国の武家の通史)に
も、老翁、あるいは弘法大師が白峰を開いたとき、「相模坊ヲ鎮守
トスルナリ」とあります。さらに『全讃史』という本にも、「松山
ニ神アリ。相模坊ト曰フ。甚ダ威霊有り。其ノ余ノ仙霊甚ダ多シ、
窟ヲ宅ニシテ比ニ住ムト云フ。長寛以来、崇徳帝陵有リ。世人(せ
じん)殊ニ之ヲ崇(あが)ム」。などなど、いずれも弘法大師白峰
山開山の記事と同時に相模坊の名前も出ています。

 これにより、相模坊天狗が神奈川県大山からここ白峰に引っ越し
て来たのは、弘法大師がここを開山した弘仁6年(815)より以前
らしいことが分かります。以来、相模坊親分は大勢の魔界の眷属と
一緒に、白峰山の岩窟にすんでいたのです。



▼白峰山【データ】
★【所在地】
・香川県坂出市。予讃線国分駅の北北西3キロ。
★【位置】
・白峰山:北緯34度19分50.32秒、東経133度55分43.49秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図:白峰山



▼【参考文献】
・『雨月・春雨物語』松崎仁(ポプラ社)昭和41(1966)年
・『雨月物語』上田秋成:『雨月物語』(日本古典文学全集48)高田
衛校注・訳(小学館)1989年(平成1)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『太平記5』(巻第32~巻第40)山下宏明校注(新潮社)1991年
(平成3)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本大百科全書13』(小学館)1987年(昭和62)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成2)
・『保元物語』(ほうげん)作者不詳(平安後半):新日本古典文学
大系43『保元物語』栃木孝惟校注(岩波書店)1992年(平成4)
・「白峰寺縁起」(白峰寺ホームページ)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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