山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1052号山でもおなじみ弘法大師

【略文】
弘法大師の石像もよく見かけます。真言宗のお寺にも「南無大師遍
照金剛」の文字塔もあります。平安初期の僧で真言宗の開祖。弘法
大師伝説は各地の山にもあります。奥秩父の瑞牆山に「弘法大師
文字」という不思議な文字があるという。登山家大島亮吉が、雑
誌『山岳』に寄稿した「瑞牆山・小倉山」にその文字について記
しています。

1052号山でもおなじみ弘法大師

【本文】
 弘法大師の石像もよく見かけます。これは弘法大師の命日(ふつ
うは21日)に行われる「大師講」や、「念仏講」で供養のために建
てたもの。ふつうは座っている像で、左に念珠、右手に金剛杵(し
ょ)を持っています。また真言宗のお寺の入り口や、境内に「南無
大師遍照金剛」(へんじょうこんごう)とか、「大師遍照金剛」と彫
られた文字塔もよく見ます。

 弘法大師は、平安初期の僧で真言宗の開祖。空海のおくり名で、
お大師さんとして民俗神にもなっています。また、四国八十八ヶ所、
また和歌山県北部に高野山の聖地を開いたことでも知られます。大
師にまつわる伝説は、塩井戸伝説や弘法清水などの形で、全国各地
に、それこそ数限りなく伝わっています。

 ある人が、そうした伝説地や大師が開いた山、開基のお寺の縁起
や市町村地誌を集め、どこで何年ここで何年と合計したところ、800
年以上になり、さらに伝説も入れると1600年は越える勘定になる
という。そういえば空海は、仙人でもあり平安後期の『本朝神仙伝』
(日本の仙人37仙を解説)には、第16番目に名を連ねています。

 弘法大師空海は774年(宝亀五・奈良時代)、いまの香川県善通
寺市の善通寺で生まれたという。5,6歳になると、土で仏像をつ
くったり、草や木で仏堂に似たものを建てたりしていたといいます。
ある時、八葉の蓮華の中に、大勢の仏さまがおいでになり、自分と
語り合う夢を見たというから、もうふつうの子供とはかなり違って
いたのですね。ある人が、この子どもを見ると、尊げな童が4人が、
いつもこの子につきそって礼拝しているのが見えたという。そこで
近所の人たちはこの子を「ありゃあ神童に違いねえ」だといい合っ
ていたそうです。

 この子は15歳で上京、18歳で大学に入学、しかし儒学を修める
も満足せず、在学中に一人の修行者に会い、虚空蔵求聞持法(こ
くぞうぐもんじほう)という教えを授かり、仏道に帰依、大学と決
別し、阿波(徳島県)の大滝岳、伊予(愛媛県)の石鎚山など四国
各地や、奈良吉野金峰山(きんぷせん)などで修行をはじめました。24
歳で名著といわれる『三教指帰』を著しました。延暦14年(795)
になり、22歳で東大寺の戒壇で具足戒(ぐそくかい・戒律)を受
け、それ以後、名を空海となのったという。

 延暦23年(804)31歳のときに遣唐大使藤原葛野麻呂(かどの
まろ)に従い、橘逸勢(はやなり)とともに入唐留学、青竜寺恵果
(けいか)阿闍梨(あじゃり)に師事し、金剛胎蔵両界法を受け、
「伝法阿闍梨」の潅頂(かんじょう・継承者の儀式)を受けました。
留学の間、長安の宮中の壁面の揮毫修復で、両手両足と口に筆を持
った大師がエイっと気合いをかけ、一気に「樹」の文字を書きあげ
ました。皇帝はいたく感嘆、大師に「五筆和尚(わじょう)」の号
を授けたという。このようないろいろなエピソードを残しています。
そして大同元年(806・平安初期)に秘器仏物を携えて帰朝するこ
とになります。

 いよいよ日本に帰る日、弘法大師は高い岸に立って、「私が学ん
だ教え(密教)を広めるのにふさわしい聖地に落ちよ」と、日本に
向かって三鈷杵(さんこしょ)を投げました。三鈷杵ははるかに飛
んで雲の中に入っていったという。その後大同元年(806・平安初
期)、経典や仏像など多くの秘器、仏物といっしょに帰朝しました。
816年(弘仁7・平安時代)、43歳の時、高野山を国家・修行者の
ために開きたいと朝廷にお伺いを立て、46歳の時、伽藍(がらん)
建立に着手したとあります。

818年(弘仁9)大師は嵯峨天皇から高野山を下賜(※かし)され、
大師が帰朝後はじめて高野山に登ると、三鈷杵は高野山の松に落ち
かかっていたといいます。その松は「三鈷の松」といい、いまも大
切にまもりり育てられています。

松の葉はふつう2本ですが、このは、三鈷の先のように、葉先が3
本に分かれています。これは、お大師さまの法力によるものといわ
れ、その松葉を拾い持っていると、なにかよいことがあるそうです。

なお、『本朝神仙伝』には、「一は東寺(京都)に墜ち、一は紀伊の
国高野の山に落ち、一は土佐の国室生戸(むろふど・室戸岬)の山
に落ちにき。朝(みかど)に帰りて後、相尋ねて仏の法を弘めたま
へり」とあり、3ヶ所に落ちたことになっています。

 伝説によれば、弘仁6年(815)、聖地をさがしていた弘法大師が
山の中で、黒白2匹の犬を連れた猟師に出会った。その猟師こそ高
野山の地主神・狩場明神(かりばみょうじん)で明神の使者である
黒白2匹の犬の先導で、無事高野山にたどりついたという。

 しかし、『今昔物語集』(巻第十一第二十五)では「弘仁七年ト
イウ年ノ六月ニ……一人の猟師ニ会イヌ。大小の黒キ犬ヲ具セリ」
とあり、年も1年遅く、連れていたのは黒い大小の犬だという。
百科事典などでも説明と図版ではかなり混乱が生じているところ
です。しかしその辺はまあまあ、伝説の世界のこと、ご容赦くだ
さい。

 奈良県五條市の転法輪寺(てんぽうりんじ)に、狩場明神をま
つる神社があります。ここが弘法大師と狩場明神が、はじめて出
会った所だといい、境内に明神の出会いの図と説明文が掲げられ
ています。また黒白2匹の犬は、神社の狛犬として鳥居のそばに
控えています。犬をつれた明神の画像は、高野山の金剛峰寺(こん
ごうぶじ)や、京都東寺にも収蔵されているそうです。

 この時、弘法大師が狩場明神と交わした「土地借用書」の話があ
ります。明神の神領地である高野山を大師が「十年間」借り受けて
返す約束でしたが、のちにこっそり「十」の上に「ノ」の字を付け
加え「千年」してしまったというから面白い。また「千」という字
のところを白ネズミがかじってしまい、何年かわからなくなってし
まったという。

 突然ですが、「弘法も筆のあやまり」ということわざがあります。
『今昔物語集』(巻第十一第九)に、京の大内裏(だいだいり)の
応天門の額を書いたとき、いざ門に掲げてみると、「応」の最初の
点がありません。驚いた大師は、筆を投げつけて点をつけたという。
大勢の人はそれを見て、手をたたいて感嘆したということです。「弘
法の投げ筆」という言葉はここから来ており、「弘法も筆のあやま
り」もここからはじまったという。

 そのほか弘法大師伝説は、各地の山にもあります。奥秩父の瑞牆
山に「弘法大師文字」という不思議な文字があるという。大正15
(1926)年に、大正〜昭和時代前期の登山家大島亮吉が、雑誌『山
岳』に寄稿した「瑞牆山・小倉山」にその文字について記してい
ます。それによると、「弘法大師文字は、山の南側流れる天鳥川左
岸の、小岩峰に2字2行に刻まれているというが、道が分からず
現場に行けなかった」とあります。

 また、洞ヶ岩の洞くつの奧にも、弘法大師が彫ったという梵字
(カマンポロン)があり、梵字は大日如来不動明王の意だという。
いまでも山中に「大日岩」があり、その背後に不動明王が祀られ
ているいうと聞きます。洞くつ内には修行したあとも残っている
らしい。

 そういえば、この山は平安時代初期に、弘法大師空海が開山し
ようとしたという伝説があります。空海は霊場をもとめて全国を
行脚。やがてここでしばらく修行していましたが、あたりには霊
場をつくるのに必要な、「八百八谷」がないためあきらめて、和歌
山県北部の高野山に大霊場を開いたとされています。瑞牆山の山
頂西峰には、大師の名の弘法岩もあります。もし条件があってい
れば、瑞牆山が「高野山」の代わりになっていたかも知れなかっ
たわけです。

 弘法大師が諸国行脚のエピソードも全国に残っています。弘法大
師にちなんだ井戸や清水の話は有名です。その一話です。首都圏
でおなじみの丹沢・塔ノ岳登山口。ふもとを流れる水無川の水は、
大倉集落付近で消えてしまいます。その昔孝行息子が父の危篤の
知らせに急いで帰ってきましたがお金がなく、強欲な船頭にいく
ら頼んでも川を渡ってくれません。

 仕方なく歩いて渡りはじめましたが深みにはまり死んでしまい
ました。これを聞いた弘法大師が船頭を諭しますが、船頭は反省
するどころか、竿で殴りかかるしまつ。身をかわした大師は、錫
杖を川に突き刺しました。すると川の底に穴があき、たちまち水
が干上がり、それからというもの、水無川になってしまったとい
うことです。

▼転法輪寺【データ】
【所在地】
・奈良県五條市犬飼町124。JR和歌山線大和二見駅から歩いて30
分で犬飼山転法輪寺。地形図に寺院記号と犬飼町の文字のみ記載。
寺より北西方275mにJR和歌山線が走る(or付近に何も記載なし)。
【位置】
・転法輪寺:北緯34度20分21.57秒、東経135度40分37.35秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「五條(和歌山)」

瑞牆山【データ】
【所在地】
・山梨県北杜市須玉町(旧北巨摩郡須玉町)。中央本線韮崎駅の北
東24キロ。中央本線韮崎駅からバスで増富温泉、歩いて5時間30
分で瑞牆山。三等三角点(停止【亡失】)と写真測量による標高点
(2230m)がある。地形図に山名瑞牆(みずがき)山と標高点の
標高の記載あり。
【位置】
・標高点:北緯35度53分36.45秒、東経138度35分31.55秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「瑞牆山(甲府)」

▼【参考文献】
・『今昔物語集』(巻十一・第九):日本古典文学全集『今昔物語集
1』馬淵和夫ほか校注・訳(小学館)1993年(平成5)
・『今昔物語集』(巻第十一・第二十五):日本古典文学全集『今昔
物語集1』馬淵和夫ほか校注・訳(小学館)1993年(平成5)ほ
か。
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本大百科全書・7』(小学館)1986年(昭和61)
・『日本伝説大系9』(みずうみ書房)1984年(昭和59)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『本朝神仙伝』大江匡房著(日本古典全書・古本説話集 川口久
雄・校注)(朝日新聞社)1971年(昭和46)
・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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