山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼136号「北ア・佐々成政と黒部ダム」

【概略】
北アのど真ん中黒部ダム。延べ990万人もの人々が関わったとい
う。この難所を厳冬に歩いて越えたという富山城主佐々成政は有名。
1ヶ月後、信州についた時は大部分の家臣を失っていたという。ダ
ムはいまはスカート姿の観光客も多く、のんびり遊覧船も走ってい
ます。
・富山県立山町

▼136号「北ア・佐々成政と黒部ダム」

♪剱岳のォふもとに、黒部の流れ、クジラがとれるゥ………。こん
なひょうきんな山の歌があります。黒部川といえば富山県東部を流
れる有名な川。峡谷は険しく、山頂と谷底の高度差は1500から2000
mもの断崖もあります。

水量が豊富で、河床勾配が大きく落差がありダム発電にはもってこ
いのところ。大正末期から電力屋さんが目を付け調査をしていて、
現在大小あわせて十四もの発電所があります。

なかでも黒部ダムは着工以来6年10ヶ月、労務者延べ990万人、
総工費513億円、黒部湖の広さは甲子園球場の237倍。その難工事
は多くの犠牲者を出し、1963年(昭和38)にやっと完成したのは
ご承知の通りです。

この難所を安土桃山時代、しかも厳冬期に越えたという人がいます。
富山城主の佐々成政です。信長死後、勢力を拡げる、豊臣秀吉と戦
う信長の次男信雄(かつ)と徳川家康(小牧・長久手の戦い)。

このとき成政は亡き主君信長の恩に報いるため、信雄・家康側につ
きました。ところが、肝心の信雄が秀吉に丸め込まれ、勝手に和解
をしてしまいました。

これでは家康も戦う理由がなくなってしまったわけです。あわてた
佐々成政は、ぜひとも浜松の家康に会って、いくさを続けるよう進
言したいところ。

しかし、東、西、南側とも敵の勢力下にあり身動きひとつできませ
ん。そこで考えたのが、北側の吹雪の立山連峰を越えての浜松行き。
1584年(天正12)12月のことでした。

それから約1ヶ月、信州(いまの大町市大出)に着いたときは、大
部分の家臣は負傷あるいはすでに亡く、雪の黒部の厳しさを知るの
でありました。

9月、剱岳から三の窓、小窓を通り、仙人池、内蔵助谷から黒部川
へ出て足を冷やします。川の水は冷たく、たちまちしびれて1分と
入れていられません。

それからひたすら上流へ。突然巨大な建造物があらわれます。黒部
ダムです。放出する水が霧になって降ってきます。豆粒のような人
影が動いています。

やっとの思いでダムの上に登りました。スカート姿の観光客が目に
まぶしく映ります。成政も腰を抜かすような変わりようです。のん
びり走る遊覧船の向こうにあるはずの成政が渡ったとされる「黒部
川の平」(いまの平ノ渡し)を背伸びして眺めてみるのでありまし
た。

▼【データ】
【所在地】
・富山県中新川郡立山町。JR大糸線信濃大町駅からバス、扇沢か
らトロリーバスで黒部部ダム。地形図に黒部ダムとその記号、展望
台、黒部ダム駅の文字の記載あり。

【位置】
・黒部ダム:北緯36度33分59.12秒、東経137度39分43.75秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「黒部湖(高山)」

【参考文献】
・「角川日本地名大辞典16・富山県」坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・「日本歴史地名大系16・富山県の地名」高瀬重雄ほか(平凡社)
1994年(平成6)
・「日本大百科全書・7」(小学館)1986年(昭和
・「秘録・北アルプス物語」朝日新聞松本支局(郷土出版)1982年
(昭和57)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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