山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼120号 東北・朝日連峰の伝説

朝日連峰の主峰大朝日岳は剣頭山とも呼ばれています。これは見当
山の意味といいます。1598(慶長3)年、米沢城主・直江山城守は
この山を目標にしながらの交通路「朝日軍道」をつくった。「八千
の兵を引き、黒鍬五百、熊斧(よぎ)三百、つるはし鎌の者千人を
先に立て…」という大工事。その痕跡はいまも狐穴小屋、以東岳間
に残っています。

▼120号 東北・朝日連峰の伝説

【本文】
 東北・山形県の朝日連峰・朝日岳(大朝日岳などの山々)も修
験道の祖・役ノ行者(えんのぎょうじゃ)が開いた所だとされて
います。飛鳥時代の680年(白鳳8)、行者が山頂に天照大御神(あ
まてらすおおかみ・仏教でいう大日如来)をまつったのが最初だ
そうです。

 役行者の略伝を著した平安時代の本『役行者本記』に「天智天
皇9年(670)庚午(かのえうま)、小角は37歳。飛鳥時代の天智
天皇九年(670)、庚午(かのえうま)、小角は37歳。7月大峯を出
発して、3日のうちに出羽の国の羽黒山に着いた。それから、出羽
の国の月山・湯殿山・金峯・鳥海山、奥州の秀峯などを巡って、22
日の後に大和に帰ってきた。およそ里数にして三千百里」とあり、
このころから東北、関東、秩父などを巡っていたようです。

 平安時代前半の940(天慶3)年の天慶の乱で敗れた平将門の残
党や、同じ平安時代後期の1185(寿永4)年の平家滅亡時の残党
がこの山に入り込み、山伏になって次第に強大な勢力になってい
きます。

 鎌倉中期になり、北条時頼が出家して諸国行脚(あんぎゃ)の
際、ここに立ち寄りその勢力の強大さに驚き、朝日岳を閉鎖し山
伏たちを弾圧したといいます。

 またこの連峰の主峰大朝日岳は剣頭(けんとう)山とも呼ばれ
ています。これは見当(けんとう)山の意味といいます。よく目
立つため、交通の目標になります。

 時は安土桃山時代から江戸時代に入ろうとする1598(慶長3)
年、米沢城主・直江山城守はこの山を目標にしながらの交通路「朝
日軍道」をつくります。

 「八千の兵を引き、黒鍬五百、熊斧(よぎ)三百、つるはし鎌
の者千人を先に立て…という大工事だったということです。その
痕跡はいまでも狐穴(まみあな)小屋、以東岳間に残っています。

 朝日連峰は東北地方の三つの山脈の一番西側にあり、冬の偏西
風がまともにあたる地域。そのため全国有数の豪雪地帯になって
います。この山は山ろくの村人の農業の神として、木こりやマタ
ギなどの信仰も厚かったという。

 いまでも春には、山ろくの大井沢や、徳網、三面集落などでは、
昔ながらのクマ狩りが行われ、多くのマタギが活躍しているそう
です。山名は各地の朝日の名のつく山々と同じで、朝、ふもとの
集落から見て太陽が上る山だからという。

 かつては、修験者による登山が行われたという伝承があちこち
に残っていますが、いまは宗教色が残っていないのは、先にある
ように北条時頼の閉鎖弾圧によるものだそうです。


▼【データ】
【所在地】
・山形県西村山郡朝日町と同県西村山郡西川町と同県西置賜郡小国
町との境。JR左沢線寒河江駅バスターミナルからバス、宮宿待合
所からバス乗り継ぎ、朝日鉱泉下車歩いて5時間で大朝日岳。二等
三角点(1870.3m)がある。地形図に山名と三角点の標高の記載あ
り。

【位置】
・【緯度経度】:北緯38度15分37.85秒、東経139度55分20.3秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「朝日岳(村上)」(国土地理院「地図閲覧
サービス」から検索)。5万分の1地形図「村上−朝日岳」(「電子
国土ポータルWebシステム」から検索)

【参考】
・「角川日本地名大辞典6・山形県」誉田慶恩ほか編(角川書店)1
981年(昭和56)
・「コンサイス日本山名辞典」(三省堂)1979年(昭和54)
・「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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