山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1034号丹沢表尾根・行者ヶ岳

【略文】
開けた展望といつもにぎわいを見せている丹沢表尾根。その中で行者岳
(行者ヶ岳)は表尾根随一の岩山で、クサリもありスリルを味わわせてくれ
ます。西側が切れ落ちていて谷から涼しい風が吹き上げてきます。ここに
も役行者がまつられ古くから行者の石像があったという。
・神奈川県秦野市と清川村との境。

1034号丹沢表尾根・行者ヶ岳


【本文】

 開けた展望といつもにぎわいを見せている丹沢表尾根。その中で行者

岳(行者ヶ岳)は随一の岩山で、クサリもありスリルを味わわせてくれま

す。丹沢表尾根の新大日と烏尾山の間にあり、西側が切れ落ちていて谷

から涼しい風が吹き上げてきます。気流の通り道でもあり、気象の変化に

も富んでいます。



 ここにも役行者がまつられています。丹沢は修験道山伏によって開か

れた山が多い。丹沢の修験は大山を行場とした大山修験(当山派)のほ

かに、大山東方山中の日向修験(本山派)と、東北東山ろくの八菅修験

(本山派)があります。ここ表尾根は、日向修験の峰入りのコースで、行者

岳は厳しい修行が行われる行場のひとつ。



 そのコースは日向−大山−丹沢表尾根−主脈−青根集落の入峰ル

ートと、各村への檀廻が順に記されています。峰入りは、一人一升の焼

米を持参、5日が野宿という修行だというから厳しいものです。



 1962年(昭和37)発見された、日向修験の『峯中記略扣(控)』(ぶち

ゅうきりゃくひかえ)という、入峰修行作法の古文書があります。それに

は、「三月廿五日ヨリ山入……行人斗リ山江入小家ヲカラケ一宿ス」。「雨

具以外ハ一切ナシ、一草物一枚也、是ヨリ立出烏ケ尾ト云山ニ上リ三リ

程也、是迄烏二羽ニ而送候故烏ケ尾也、此山上ニ蔵王権現石仏有、是

ニ札納法示祓シ、夫ヨリ向ノ峰ニ移リスズノ中ヲ暫ク行尊仏云所ニ出、札

納是江一宿祓シ、是ヨリ西ノ方ヨリ北エ行、大キナル岩ノ上ニ役ノ行者

有、ココニ札納法示祓シ、是ヨリ左ニ付下ルト新客ノゾキノ岩有、是ニ新

客ノ腰縄ヲ付ミセル也、夫ヨリカヤノヲ上リ大日尊有札納、是ヨリ峰ニ登ル

ト塔ノ峰也」とあります。



 長々引用しましたが、現代文で書くと、「雨具以外は一切なく、筵(むし

ろ)1枚のみ。ここから出発して烏ヶ尾(烏尾山)に登る。3里ほどである。

ここは2羽のカラスが導いたという故事があり、そこから烏尾山という。この

山上に、蔵王権現の石仏あって、これに札を納めてお払いをする。向か

い側の峰に移って、スズタケの中を行くと前尊仏に出る。……。ここより西

の方から、北へ行くと大きな岩(行者岳)の上に、役ノ行者像がある」。



 「……。これより左に下ると新客覗きの岩がある、新客(峰入りの新人)

は、腰に縄をつけて崖から身を宙吊りして下を覗く行をする。ここから萱

の尾根を登り大日尊(木ノ又大日岳)に札を納める。これより峰に登ると塔

の岳である」としています。ここでも大峰山山上ヶ岳の西ノ覗、東ノ覗のよ

うなことが行われていたのですね。



 室町時代末期の永禄13年(1570)庚午3月、この山に役行者の石像

がまつられたという。秦野山岳会の漆原俊さんという人が1938年(昭和

13)、この石像を写真に撮ってあったという。



 それによると石像は高さ26センチ、幅29センチで、裏には『大泉坊

堯真、永禄十三年庚三月十日、権大僧都法印』(安土桃山・江戸初期の

真宗高田派の僧。三重県津市身田町・真宗高田派本山専修寺第13世

上人か)の刻名があったという。



 この石像は1940年(昭和15)ころまであったということですが、いつの

間にか姿を消してしまいました。また参考書によっては、像は高さ2尺

(75.8センチ)ばかりの2体の行者像で、前鬼・後鬼を従えその前には石

でつくった巻物(経文)が供えられてあったするものもあります。



 昭和53年(1978)になり、八菅山の修験者である千葉晴峯師が、行

者岳山頂に役行者の石像を再建しました。前面に役行者像を浮き彫りに

した、高さ65センチほどの石像でした。しかしこの像も3年くらいでなくな

ってしまいました。かつて石仏ブームの時、盗難騒ぎがありましたが、な

にか関係があるのでしょうか。さらにいまは新しい石碑が建っているようで

す。



 このように役行者、役行者とならびますが、この役行者(役小角)も丹沢

を修行の場としていたといいます。では役の行者はいつのころ丹沢にや

って来たのでしょうか。室町時代?ころの『役行者本紀』という本の「第

四小角、経歴の部」には次のようなことが載っています。



 飛鳥時代の後期、役行者は奈良大和の大峰山や葛城山を本拠地

に、日本各地の山々を巡っていました。その中で、「……。天武天

皇白鳳元年(673)、癸酉(みずのととり)、小角は四十歳。六月に伊勢の

両皇宮にお詣りをした」。



 「二見の浦・尾張の熱田、三州の猿取・峯堂・白峯、駿州の富士、相州

の足利(矢倉岳)・雨降(丹沢大山)・箱根、伊豆の天城・走湯、相州の江

ノ島、常陸の筑波、三岫の香島・香取・浮巣、信州の浅間岳、甲斐の駒ヶ

岳、信州甲州両国の内の御岳・美濃の南宮・鳳凰山、近江の息吹山(伊

吹山)・石山、大和の笠置山などを巡って、四十数日の後、八月上旬に

葛城山に帰ってきた。……」とあります。



 こんなことから673年(天武元)、役行者が40歳の時、奈良葛城山か

ら伊勢神宮をお参りののち、さらに足をのばし富士山、箱根矢倉岳、丹

沢大山にきたというからこの時、当山にも寄ったのでしょうか。行者岳の岩

壁には植物も多く、コバギボシや、イワギボシ、ウツギ、マメザクラ、アワ

ビ、ミツバツツジなども咲いてくれます。



▼行者ヶ岳【データ】
【所在地】
・神奈川県秦野市と清川村との境。小田急小田原線渋沢駅の北9キロ。
小田急小田原線秦野駅からバス。ヤビツ峠下車。歩いて約3時間で行者
岳山頂。標高点・1209mがある。
【位置】
・行者ヶ岳:北緯35度26分49.46秒、東経139度10分44.75秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「大山」(別の図葉名と重ならず)

▼【参考】
・『あしなか復刻版・第三冊』:「あしなか41輯」(山村民俗の会)1954年
(昭和29)
・『役行者本記』:『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年
(平成6)収納
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平(名著出版)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『峯中記略扣』(ぶちゅう きりゃくひかえ)常蓮坊

 

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