山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1028号仁和寺・四条河原・愛宕山の天狗騒動

【略文】
山でおなじみの天狗ですが京の町にもいました。南北朝時代、宮方など
やんごとない人や高僧たちの化身の天狗が集まりました。そして天下の
政権をひっくり返そうと相談し実行されたと『太平記』にあります。南北朝
時代京都仁和寺の天狗評定、また京都愛宕山の天狗集会などです。
・京都府京都市右京区嵯峨愛宕町。

1028号仁和寺・四条河原・愛宕山の天狗騒動

【本文】
 山でおなじみの天狗ですが京の町にもいました。南北朝時代、宮方な
どやんごとない人や高僧たちの化身の天狗が集まりました。そして天下
の政権をひっくり返そうと相談し実行されたと『太平記』にあります。

 天狗が一番活躍したのは南北朝時代だといわれます。北条高時が自
殺し鎌倉幕府が滅び、世は朝廷の時代になりましたが、1336年南北朝
廷が対立。吉野の南朝と京都の北朝に別れます。そうした1338年(北朝
:暦応1、南朝:延元3)、北朝側の足利尊氏が、征夷大将軍となり室町
幕府をつくりました。

 しばらくしたころ、世聞をアツといわせた事件がありました。『太平記』
(巻二十五)に「宮方の怨霊六本杉に会する事付けたり医師評定の事」
(みやかたのをんりゃうろっぽんすぎにくわいすることつけたりいしひょうじ
ょうのこと)という項があります。

 南朝の忠臣・楠正行(まさつら)が「四条畷(しじょうなわて)の戦い」で
高師直(こうのもろなお)に殺された1348年、北朝でいえば貞和(じょう
わ)4年、南朝では正平3年の夏のこと。京都右京区にある真言宗御室
派の総本山・仁和寺(にんなじ)に不思議なことが起こりました。

 通りすがりの禅僧が夕立にあい、仕方なく仁和寺の六本杉の下で雨
やどりしているうち、夜になってしまいました。夜も更けて雨もあがり、月
明かりで見ると愛宕山、比叡山の方から御簾(みす)を垂らした輿(こし)
が次々に空を飛んできて六本杉の梢に集まり、幔幕(まんまく)を張って
中に座を占めます。

 風で吹き上げた幔幕の間から見ると、一段高い上座には大塔宮護良
親王(おおとうのみやもりながしんのう)がいます。護良親王はもと建武新
政府の征夷大将軍でしたが、足利尊氏排斥に失敗して鎌倉に閉じこめ
られ、「中先代(なかせんだい)の乱」のときに尊氏の弟・直義(ただよし)
に殺された皇子です。

 護良親王のわきには、これも後醍醐天皇の外戚にあたる峰僧正・春雅
(元弘の乱の時後醍醐天皇に従っていた画僧だった)。さらに左右には
南都(奈良興福寺)の僧・智教上人(かつては後醍醐天皇に従っていた
西大寺の戒律僧)、浄土寺の忠円僧正、その他居ならぶ人たちもこの世
にいた時は権勢の最高潮の座にいた人たちばかりです。

 どの人も眼が金色で、羽のはえたカラス天狗の姿をしており、怨念から
天狗になったとされる人物がならび、酒盛りをしながらなにやら相談中。
やがて峰僧正が口を開きます。

 「北条家を亡ぼしたのもつかの間、尊氏の反逆でまた武家に権力を奪
われた。足利一族の悪政で天下は腐り果てている。足利を混乱させる方
法はないものか」。天下の困窮をよそにおごりたかぶる足利一党にひとあ
わ吹かせようというわけです。すると忠円僧正が「良い方法があります」進
み出ます。

 まず尊氏の弟・足利直義の妻のお腹に大塔宮が宿り、男の子として生
まれる。次に峰僧正が、禅僧の夢窓国師の弟子・妙吉侍者の慢心の心
に入り込み、よこしまな考えを吹き込み政道にくちばしをはさませる。夢
窓国師は尊氏の帰依(きえ)厚い人なので効き目がある。智教上人はや
きもち焼きの上杉重能と、畠山直宗の邪心にとりつき、忠円僧正は師直・
師泰兄弟の心と入れ替わって上杉・畑山と争うようそそのかし滅亡させ
る。これで尊氏・直義兄弟は仲が悪くなり必ず戦いをはじめる。「しばらく
見物のネタはなくなりません」。

 これを聞いて大塔宮をはじめ、居ならぶ天狗小天狗までが「いしくも計
らひ申したるかな」と大賛成。こうして相談(天狗評定)はまとまり、天狗た
ちは煙のように消え去りました。これを見ていた禅僧は身も凍る思い。あ
たりが明るくなって真っ青な顔で六本杉を立ち去りました。

 この六本杉の評定があった翌年(1349年・貞和5)にも天狗が仕掛け
た騒動がありました。『太平記』巻第二十七「田楽の事付けたり長講見物
の事」(でんがくのことつけたりちゃうかうけんぶつのこと)。都では疫病、
干ばつ、豪雨、兵乱と天変地異がつづき、人々は不安と混乱の中に打
ちひしげていました。

 当時、世の中の出来事から占いなどを担当していた陰陽寮からも「慎
みあるべし」との警告が出ていました。そんななかでも貴族たちは流行し
ていた田楽能にうつつを抜かし、あちこちで演能を催していました。なか
でも京都四条河原で行われていた田楽興行は羽目をはずして目に余る
ものがありました。

 それを見て、一人の天狗山伏が「まるで狂気だ。肝をつぶしてやろう」
と見物客満載の桟敷の柱を「えいやえいやと押すと見えけるが、二百余
間の桟敷皆天狗倒しにあひてんげり」。見物客は投げだされ押しつぶさ
れ、川に放り出されておぼれ、河原は見る見るうちに死人やけが人が山
と重なり目を覆うようなありさま。これはただ事ではない。天狗の仕業に違
いないと人々はうわさしあいました。

 その年(1349年・貞和5)の6月にも京都愛宕山で大規模な天狗集会
が行われたといいます(『太平記』(巻第二十七)「雲景未来記の事」(うん
けいみらいきのこと)。「またこの頃、天下第一の不思議あり。出羽(では
の)国羽黒(はぐろ)といふ所に、一人(いちにん)の山伏あり。名をば雲
景とぞ申しける。希代(きだい)の目に逢うたりとて…」。

 羽黒山伏の雲景(うんけい)という人が、珍しい体験をしたと、「熊野の
牛王(ごわう)の裏に告文(かうぶん)を書いて出だしたる未来記あり」とつ
づきます。それによると、雲景がたまたま行き合った老僧に誘われて愛宕
山の秘所に行きました。

 そこは人の目には入らない魔所で、異様な姿の金の笏(しゃく)を持っ
た高貴な人や高僧が流れきていました。この世のものとも思えぬその場
の雰囲気に雲景が老僧に「どういう人たちか」と尋ねました。

 すると、上座にいる金の鳶姿の天狗は崇徳院、そばで弓矢を前にして
いる大男が源為朝、左にならんでいるのは代々の帝王である、淳仁帝、
光仁后、後鳥羽院、後醍醐帝などだという。

 老僧は、「次第の登位を逐(お)って悪魔王の棟梁と成りたまふ、やん
ごとなき賢帝たちよ」という。その次の座にも真済、慈恵、仁海、尊雲らの
高僧たちも、同じ大魔王となってここに集まり、天下を大混乱に導く評定
を行っていたのでした。

 その時、第一の座にいた長老で僧の衣装を着た愛宕山太郎坊天狗
が、新顔の雲景がいるのに気づき、「さらばこの間、京中の事どもをば皆
見聞きたまふらん。…」と聞いてきます。

 この間の四条河原の騒ぎについて、世間でのうわさはどうかというので
す。雲景は、「あれは天狗に仕業だと人々がいっています」。すると「天狗
の仕業とは限らん。天下の難儀を横目に、奢り享楽にふける平家一族に
は神の怒りもあろう」との返事でした。……これが愛宕山の天狗集会だと
いう(1349年・貞和5)。

 こんな天狗集会があった年、尊氏の重臣・上杉重能(しげよし)・畠山
直宗(ただむね)が同じ執事の高師直(もろなお)と対立、越前に配流さ
れ、師直(もろなお)の命令により殺されています。そして翌々年(1351年
・正平6/観応(かんのう)2)、まず直義(ただよし)と師直(もろなお)が不
和になりました。

 さらに尊氏により、高師直(こうのもろなお)一族が亡ぼされ、その翌年
(1352年・文和(ぶんな)元)の2月(六本杉の評定があった4年後)には、
尊氏は直義(ただよし)を鎌倉で毒殺し、観応の擾乱(かんのうのじょうら
ん・1349〜1352年)になってあらわれたのは歴史の語るところです。

 尊氏は直義(ただよし)を毒殺はしたものの、その後も直義派の抵抗は
止まず、尊氏はその対策に苦慮しながら1358年(正平13/延文3)、病の
ために死去。結局、歴史の通りになっていきます。

 もちろん、これは『太平記』の作者が、年代に合わせて創作したのに違
いありませんが、それにしても細部まで状況が合致していることが不思議
です。

【参考】
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『太平記4』(新潮日本古典集成)山下宏明・校注(新潮社)1991年(平
成3)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本大百科全書・3』(小学館)1985年(昭和60)
・『日本大百科全書6』(小学館)1985年(昭和60)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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