山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1025号三ツ峠山・とよ女とクモイコザクラ

【略文】
三ツ峠山のふもとに「とよ女」という美しい娘がいました。ある
時娘に恋狂った若者が火をつけ、とよ女を焼き殺してしまいました。
春がくると、とよ女が死んだ場所に、サクラソウが一斉に花を開き
ました。人々は「クモイコザクラ」と呼び、美しさをたたえたとい
う。いまも春になると岩肌に咲くという。
・山梨県西桂町、富士河口湖町と都留市との境。

1025号三ツ峠山・とよ女とクモイコザクラ

【本文】
 富士山をながめながらのロッククライミングでおなじみの三ツ
峠山。神鈴峰、仙泉山の異名もあります。山頂からの富士山の眺
めが良く、大勢のハイカーが訪れます。古くは三嶺山、三峰山とも
いわれ、3つのトツケ(突起=峰)のことで、3つの峰をいうの
だそうです。

 1814年(文化11)編纂の『甲斐国志』(かいこくし)にも、「峰
ハ奇岩峨々トシテ三峰ニ秀ヅ故ニ三峰ト云フ」とあります。3つ
の峰とは、屏風岩のある「開運山」、北側の「御巣鷹山」、西方の
「毛(木)無山」の3峰。御巣鷹山の山頂直下には、かつて水が
湧く場所があったといい、そこから「水峠」といったとの説もある
そうです。

 開運山・御巣鷹山・毛(木)無山の3つの山名のうち、御巣鷹
山が一番古くから名前がついていたらしい。その山名は早くも、戦
国時代前期の延徳元年(1489)あたりから記録があるという。甲斐
武田氏が、鷹狩り用として白鷹を足利将軍に献上したというのです。
ちなみに、その鷹を捕らえて訓練したのは、このあたりの住民だっ
たそうです。

 この中の開運山は、ロッククライミングの岩場のある山。山頂に
は、石祠や石碑があって三都峠本社石尊大権現(いまは神鈴権現・
三峰権現)をまつってあります。三ツ峠山はもともとは奈良時代、
役行者小角によって開かれたと伝えられる霊山で、山伏たちの道場
でした。その後、この山は一時衰退しましたが、江戸後期の天保(て
んぽう)3年(1832)、善応空胎上人という人が、神鈴峰(三ツ峠)
に登り、この山の再興を決意、3年後本宮を再建し、参道なども整
備しました。

 また「法華経」、「仁王護国般若経」、「金光明最勝王経」などの護
国三部経の一字一石(いちじいっせき・経典を小石に1字ずつ書写
したもの)を完成させ、三ツ峠山山頂はじめ付近の山々の山中に埋
めて塚としました。以来ここを一生の修行の場と決め、毎月8日、17
日、28日を護摩修行の日とし、精進に励んだといいます。

 空胎は武蔵国の生まれ、天台宗弾誓派の本山として開山以来木食
寺院であった浄発願(じょうほつがん)寺(現神奈川県伊勢原市)
で修行を重ねた僧だそうです。この善応空胎上人が、三ツ峠山に入
山以来、観誉豊恭信阿、信盈(えい)安西栄阿、修善大道浄阿、明
善和尚の5代にわたって、近郷近在の農民の信仰を集め、出世と蚕
の神として信仰されました。しかし、明治中期についにその法灯は
絶えてしまったということです。

 さて、三ツ峠山表登山道の途中にダルマの形をした石碑・ダル
マ石や八十八大師があります。ダルマ石は1m位の高さ、幅85セ
ンチの自然石。アークという梵字が顔に彫られています。アーク
とは大日如来を意味するという。この太陽を意味する大日如来は修
験道では本尊としています。

 このあたりはかつては7丈敷くらいの平らな石のならんだ畳石と
呼ばれた所でした。それが洪水のため、一瞬のうちに埋まってしま
ったという。こんな悲惨な災害が二度とおこらないよう、水難防止
の祈願をこめて信徒たちが建てたのがダルマ石。空胎上人の後継者
である3代目の安西栄阿和尚の時(幕末期)でした。

 表登山道をさらに登っていくと、八十八大師という石仏がたくさ
んあるところに出ます。これは四国八十八霊場めぐり(四国遍路)
を模したもの。四国八十八霊場は、弘法大師42歳の厄年に四国の
修行地を一巡して定めたとされ、江戸時代中期に四国遍路が著しく
流行したもの。

 しかし、遠隔地で思うように出かけることができないところでは、
「新四国八十八所」といって、その写しが各所でつくられました。
ここもそのひとつで、88体の弘法大師像をあてたものがあり、そ
れを「八十八大師」と呼んでいるそうです。かつては88体の石仏
が全部揃っていたそうですが、いつしか盗難にあい、いまでは数が
減ってしまいました。また「八十八大師」の中に「遍照金剛八十八
体世主現当二世安全」という碑も建てられています。

 一方、明治のはじめの廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)の嵐が、
この地にも吹きおよび、付近にはその当時、頭を打ちわられた石
仏が目につきます。頭や手足のない石仏を見ながら、そんな暴徒
にも手足を出ざず、ましてだるま石。よくぞガマンを…と、妙な
感心をした次第です。

 ちなみに廃仏棄釈とは、幕末、勢いの強くなった国学、儒学者
が仏教を異端視・邪教視しはじめます。この思想が下敷きとなり明
治維新政府は、仏教を神体とすることの禁止などの「神仏分離令」
を布告しました。これにより「政府が仏教を廃止した」というウワ
サが広がりました。

 そしてもともと「敬神廃仏」思想の強かった「水戸学」や、平田
篤胤の影響が強かった藩がこぞって仏教排斥(はいせき)に突進し
ます。さらに林羅山・藤原惺窩(せいか)・熊沢蕃山(ばんざん)
らの敬神思想が追い打ちをかけ廃仏棄釈運動(釈は釈迦の教え)が
渦巻きます。

 お寺は焼かれ、お経は破り捨てられ、仏像・仏具はたたきこわさ
れ、暴徒は暴れ放題。こうして日本伝来の貴重な文化財は失ってし
まったのでありました。このような三ツ峠山が、広く世間に知られ
るように、なったのは、文豪大町桂月が大正13(1924)年ここに
登山、世間に紹介してからだという。

 さて三ツ峠山にはこんな伝説があります。屏風岩の下を通り、開
運岳と木無山の鞍部に出ると、石尊大権現(神鈴権現・三峰権現)
がおわします。これは空胎上人が三ツ峠山を再興する以前からある
古い社。蚕の神さまとしてお猫さんのお札が、山梨県国中地方で尊
ばれていました。

 国中の八代郡に「とよ女」という美しい娘がいました。彼女は三
ツ峠の権現さまを篤く信仰していました。美しいとよ女に村の若者
はみな、あこがれていましたが、とよ女はだれにも心を許しません
でした。

  ある年の5月5日の権現さまの祭りの日、とよ女に夢中になっ
た一人の若者が、お参りに行くとよ女を待ち伏せ、自暴自棄の果て
に、枯れ草に火をつけたのでした。風にあおられた火は燃え広がり、
逃げまどう彼女はとうとう炎の中に追い詰められ、焼死してしまい
ました。

 厳しい冬も過ぎ、三ツ峠にも春がやってきました。すると、あの
「とよ女」が死んだ場所一面に、かわいいサクラソウが一斉に花を
開いたのです。紫紅色の花が一帯を埋め尽くしました。人々はその
花を「クモイコザクラ」と呼び、美しさをたたえるようになったと
いう。いまも権現さまのお祭りのころになると、クモイコザクラが
岩肌に咲いています。(【とよ女の伝説】西桂町役場・広報「にしか
つら」)。

 クモイコザクラは、サクラソウ科サクラソウ屬。高山の岩場に生
える小形の多年草。漢字では「雲居小桜」で、雲居は雲がすぐそば
にあるような高地にある小型の桜草の意味。コイワザクラの亜種と
考えられているそうです。

 また三ツ峠山一帯は、四季を通じて高山植物の宝庫。アツモリソ
ウや、ミツトウゲヒョウタンボク、またカイフウロ、コウシュウヒ
ゴタイ、グンナイキンポウゲ、クサタチバナ、シモツケソウなど、
現地の名のついた貴重な植物がたくさん生えています。アツモリソ
ウなどの貴重な植物は、盗掘があとを絶たないという。

▼三ツ峠山【データ】
【所在地】
・山梨県西桂町、富士河口湖町(旧南都留郡河口湖町)と都留市
との境。富士急行三ツ峠駅から歩いて1時間10分でダルマ石、さ
らに3時間20分で三ッ峠山。
【位置】
・三角点1785.2m:北緯35度32分57秒、東経138度48分33秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「河口湖東部(甲府)」

▼【参考文献】
・『甲斐国志』大日本地誌大系45(別巻2)(雄山閣)1982年(昭
和57):『甲斐国志』【巻三十六】
・『角川日本地名大辞典19・山梨』竹内理三編(角川書店)1991年
(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「西桂町役場小冊子」
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系19・山梨県の地名』(平凡社)1995年(平成
7)
・『牧野新日本植物図鑑』牧野富太郎(北隆館)1974年(昭和49)
・「三ツ峠冊子」(西桂町教育委員会)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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