山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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▼1008号奥多摩高水三山・常福寺と常盤御前

【略文】
奥多摩への入門コース高水三山の高水山にある常福寺は平安時代、
智証大師円珍が開いたお寺だという。ここの寺宝のひとつに常盤御
前の鏡があるという。常盤御前は牛若丸の母。この山の北側には彼
女の住んでいた所といわれる「常盤」という地名もあります。
・高水山:東京都青梅市と奥多摩町との境。

(本文は下記にあります)

1008号「奥多摩高水三山・常福寺と常盤御前

【本文】

 高水三山は奥多摩への入門コースとされ、手軽に登れるところか
ら人気があります。高水山(たかみずやま)、岩茸石山(いわたけ
いしやま)、惣岳山(そうがくやま)の三つの山が尾根で馬蹄の形
でつながっています。

 高水三山の名は昭和初期に、低山趣味を掲げた高畑棟材(むねた
か・明治から昭和の登山家)が命名したといわれています。高水山
へ登るには、JR青海線軍畑(いくさばた)駅で降り、まず高源寺
まで歩きます。そこから舗装道を登り、大きな堰堤を越えてジグザ
ク路を急登すると常福院(じょうふくいん)に至ります。

 常福院の裏が高水山の山頂です。常福院は、『新編武蔵風土記稿』
巻之117に「高水山龍學寺と號す、…開山開基詳ならず」とはあり
ますが、一般的には平安時代、智証(證・ちしょう)大師円珍(天
台寺門宗の宗祖)によって開かれたお寺ということになっています。

 いまは真言宗豊山派の名刹で、正式名、高水山常福院龍學寺(通
称:高水山不動尊)の寺院。ここの不動堂の本尊は浪切白不動明王
で、昔からから近郊の人々の信仰を集めてきたという。しかしいつ
ごろできたかは不明なのだという。

 そもそもの話が、平安時代、滋賀県大津市にある天台宗総本山・
比叡山延暦寺の座主(ざす)だったというエライお坊さん・智証大
師円珍が、奥多摩町日原に大日如来窟を開くとき、東の方の山に紫
雲がたなびくのを見えたという。その山に登ったところ、高い山の
まわりに何本もの滝が流れ落ちているのが目に入りました。そこで
高い山から水量多い滝があったことから「高水山」と名づけたとい
う。ホントカイナ。

 また平安時代前期の853年(仁寿3)、円珍が唐に渡る時嵐にあ
って、船が大波でいまにも転覆するような危険な状態になりました。
円珍が、一心に不動明王を念じると、舳先(へさき)に利剣を持っ
た不動さまが出現しました。剣で波を切ったところ、嵐はみるみる
収まり、無事に唐に渡ることができたという。円珍はこの不動さま
のお姿を刻み、「波切不動明王」としてここにまつったと、常福院
の不動堂の縁起にあります。

 ふつう、不動明王は持っている剣を上に向けています。しかしこ
この不動明王は下に向けています。これは「波切不動明王」という
ように荒波を切り開き、乗りこえる意味があるのだそうです。

 下って鎌倉時代初期、武蔵の国、畠山庄の畠山重忠が山麓の常盤
というところに住んだ時、不動明王に助けられため、ここに寺院を
建立したという。以来、このお寺の波切不動さまは多くの信仰を集
めたという。

 『高水山縁起』(原本は変体仮名を使っている)にも、「秩父荘司
畠山重忠當山の麓常盤と云ふ處に住せし時此尊に皈依(※帰依・皈
は帰の異体字)し勝利を得る事數度 乃て(※仍ての間違い?)渇
仰愈々深く建久年中大堂建立有し□□以來貴賤益歩を運い(?もち
い??)日々群集せり」とあります(註:□□は判読不能な文字)。

 また、それから「數百年を經て元應二年八月山火の爲に不殘燒失
せり 奇哉(ふしぎにも)尊像御堂の坤(こん)の方(ひつじさる
の方角・西南)中の嶽(たけ)といへる處へ飛給へり、于今其處を
奥の院と稱す、諸人且驚き且尊み不動堂一宇を天明年間に再建せり、
奥の院に愛宕權現、大天狗小天狗の舊祠(きうし)あり」(この部
分2003年(平成15)に元版木から複製したもう一つの『高水山縁
起』)なのだそうです。火事に見舞われたとき、ご本尊が飛び移っ
たところを奥ノ院といっているのですね。

 さらには「當山の宝物重忠の太刀同く名馬の玉 常盤御前の鏡等
何□こそ希世の珍也幸にして今日に傳ふ」と不思議なことが書いて
あるのです。ここにある寺宝の「常盤御前の鏡」の常盤御前(とき
わごぜん)は、もちろんあの牛若丸(源義経)の母のこと。

 なぜ常盤御前かというと、高水山から岩茸石山へ至る尾根の北側
の谷、成木川の上流に「常盤」という地名があり、そこの杉林の中
にやゝ平坦な所があり、「舘舎(御殿)蹟」という石垣の跡など残
っています。ここは源義経の母常盤御前が住んだことがあるといわ
れているのです。

 常盤御前は、源義朝が京の帝(みかど)に仕える千人の侍女の中か
ら選んだ絶世の美女。源氏の棟梁・源義朝の側室になり、今若、乙
若、牛若(のちの義経)を産みました。牛若は正室の子であった頼
朝とは腹違いの兄弟。やがて平治の乱(1159年)がおこり、源義
朝が平清盛に敗れると、乞われて清盛の妾になります。そして頼朝
は伊豆に流され、さらに源義経が都を落ちていったのでした。

 月日が経ち、やがて頼朝が勢力を盛り返し、1185年(文治元)、
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡します。こうして源氏の世になるのです
が頼朝、義経兄弟は不仲になっていきます。やがて義経は都落ち。
その後、鎌倉幕府を興した頼朝は、京都から常盤御前を呼び寄せ、
一時人目を避けた静かなこの地に住まわせたといいつたえられ、い
までも地元の人々は、この山を「御殿」と呼んでいるという。

 実際にも常盤御前は、1186年(文治2)、京都の一条河崎観音堂
(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで源義経の妹と共に、鎌倉勢
に捕らわれています。しかし、鎌倉に送られた形跡もなく、のち釈
放された模様で、以後、常盤御前に関する記録はないという。

 一部に美濃国山中で逗留中、盗賊に襲われ43歳で殺されたとい
う説もありますが、一般には常盤御前の生没年は不詳ということに
なっています。

 しかし、奥多摩・棒ノ折山東南の黒山(842m)を常盤山と呼び、
その南方のピーク逆川ノ丸(840m)を成木方面では常盤ノ前山と
いっています。さらに埼玉県飯能の多峯主山には常盤御前の墓まで
あります。なんとも不思議であり、夢のある山岳伝承の遊びではあ
りませんか。

 ちなみに「奥の院に愛宕權現、大天狗小天狗の舊祠(きうし)あ
り」とある通り、常福院に飾ってある天狗の面は、京都愛宕山の天
狗のようです。

▼高水山【データ】
【所在地】
・東京都青梅市と奥多摩町との境。JR青梅線軍畑駅の北西3キ
ロ。JR青梅線軍畑駅から歩いて2時間で常福院。さらに15分で
高水山。写真測量による標高点(759m)がある。

【位置】
・高水山:北緯35度49分43.71秒、東経139度11分20.43秒

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:2万5千分の1地形図:武蔵御岳。

【参考文献】
・『奥多摩』宮内敏雄(百水社)1992年(平成4)
・『奥多摩: それを繞る山と渓と』田島勝太郎(山と渓谷社)1935
年(昭和10)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

 

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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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