山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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▼1001号「東京都奥多摩・一石山と鍾乳洞」

【略文】
東京都奥多摩、鍾乳洞バス停から歩き出し、一石山神社わきから
タワ尾根を登って行くと一石山があります。さらに登っていくと
人形山、金袋山、篶(かご)坂の丸、ウトウの頭を経て酉谷山か
らの尾根上のタワ尾根の頭に至ります。その登り口一石山神社は日
原鍾乳洞(一石山大権現)の遙拝所だったという。
・東京都奥多摩町。

(本文は下記にあります)

▼1001号「東京都奥多摩・一石山と鍾乳洞」

【本文】

 東京都奥多摩駅、日原鍾乳洞行バスに乗り、終点から鍾乳洞方
面に歩いていくと左手に一石山神社があります。そのわきからタ
ワ尾根の急坂を登って行くと一石山があります。ポツンとうっか
りすると見落としてしまいそうな小さな標識が掲げられています。
さらに登っていくと人形山、金袋山、篶(かご)坂の丸、ウトウ
の頭を経て酉谷山からの尾根上のタワ尾根の頭に至ります。

 登り口一石山神社は、日原鍾乳洞を見下ろす感じで建っています。
祭られる神は、天照大神、稜威尾走命(いつのおはしりのみこと)。
稜威尾走命は、『古事記』では伊都之尾羽張神(いつのおはばりの
かみ)と書かれ、国譲りの神話の中でチョロっと出てくる神サマで
す。

 この神社は明治維新の廃仏棄釈のときつくられた新しい神社だと
いう。それより以前、廃仏棄釈前は日原鍾乳洞を一石山大権現とい
い、いまの神社は、その権現拝所(うがんじゅ)(本地堂)だった
といいます。江戸幕府が(1810・文政11年)に編纂した地誌『新編武
蔵風土記稿』(風土記)にも「窟内を一石山大権現と称す、磐石数
百回、高さ数百尋(ひろ)、窟中数百歩なれども、ことごとく一石
なればこの名あり」とあります。

 そのころは東叡山寛永寺の支配下になっていて、別当(神社の経
営管理を行う)は大宝寺で、原嶋右京、淡路の両社家があってこれ
に奉仕していたという。いまの本殿は1949年(昭和24)に建立、
鳥居は昭和39(1964)年の建てたもの。このあたりには、石灰岩
の奇岩怪岩が立ちならび、とくに梵天岩、つばめ岩、籠岩などが屹
立しその雄大さに圧倒されます。

 『西多摩郡村誌・皇国地誌』)齋藤眞指(まさし)編纂 (1984年)
にも「籠岩、梵天岩ノ西岸ニ傍(そ)ヒ、桟ヲ渡リ、岩角ヲ攀ヂ、
行クコト凡(およそ)四町許(ばかり)、タワノ尾根の東崖小川ニ
臨ミテ断崖側立シ、横凡(およそ)二十間許(ばかり)ノ間、刻ム
ガ如ク鑿(うが)ツガ如ク、攻ムガ如ク、巧(たく)ムガ如ク、大
小無数ノ穴隙ヲナシ之ヲ望ムニ全山惣(すべ)テ最良ノ太湖石ノ如
ク、天工此ニ至テ奇絶妙絶、之ヲ賞スル唯絶叫アルノミ」と、大仰
に記載されています。

 当時一石大権現として崇められた鍾乳洞は、人の通れるところは
約800m。それから先は底なし井戸となっているという。中には鍾
乳石の鳩胸、香炉檀、蓮華岩などがあります。また格天井、舟底岩、
弘法大師の硯石など呼ばれるところがあり、どれもその形から命名
されているそうです。

 そのほか、弥陀の原、死出の山、塞の河原などの広場、十二薬師、
十三仏掛け軸などの壁面、地獄谷、三途の川という流れもあります。
鍾乳洞の中の支洞には、関守地蔵や白衣観音、また金剛杖などと名
づけられた鍾乳石や石筍(せきじゅん)が垂れ下がっています。

 これらの鍾乳石や石筍群を区画して「村雨の間」、「獅子王の間」、
「竜王の間」、「お伽の間」、「女神の間」と呼ぶ所もあります。ここ
は廃仏棄釈までは修験道の修行の場。入洞することを「参詣」、修
行することを「禅定(ぜんじょう)」と呼んでいたそうです。

 洞穴そのものは一石大権現の伽藍(がらん)(※清浄な場所、寺
院)で、天井から垂れ下さがる鍾乳石は曼陀羅華とし、石筍は如来
や菩薩、宝珠と見られていたらしい。当時参詣人は、洞の中を貨銭
を撒きながら進みました。近年になり中の通路を調査してみると、
平安末期に輸入された北宋銭や、南宋銭、明銭、それに国内銭の寛
永通宝、文久永宝などが出土したというからなんとも古そうです。

 伝説では鍾乳洞は、山形県出羽国湯殿山まで通じているといい、
話は大きい。その昔、藤沢上人のひとりが「之を辿(ゆ)(たどる)
くこと7日にして大河あり、渉ること得ずして戻った」などの記述
もあります。ちなみに藤沢上人とは時宗のお坊さんの一派だそうで
す。

 鍾乳洞の縁起には、ご存じ役ノ行者がこれを発見し、弘法大師が
中興、慈覚大師の再興したのだという。昔は松明(たいまつ)を持
って鍾乳洞に入ったので、その煙で洞内の鍾乳石、石筍も燻(くす
ぶ)っていたという。中の鍾乳石は1センチのびるのに70年、石
筍は130年かかるといいますから、この地下の大宮殿は何十万年か
の歴史を積み重ねているわけです。洞内の気温はいつも11度程度
で変わらないという。

 ところで一石山大権現から戴く御符(護符)は、霊験あらたかで
諸病を癒したといいます。この御符には日原で獲れるクマやイノシ
シの胆汁を使っていたといいます。昔は薬の代わりになっていたの
ですね。ここも昔はご多分に漏れず女人禁制の聖地でした。鍾乳洞
行のバス停の所を「こうさつば」と呼ぶそうです。昔ここには女人
堂があり、その先に女人立ち入り禁制の高札場があったそうです。

 この日原鍾乳洞(一石山大権現)は、他地域の寺院縁起にも結び
つき、次のような話も残っています。(1・東京都昭島市拝島町に
ある大日堂は、日原一石山から流れついた大日如来像が夜々後光を
放ち、これを拝しながらまつったので拝島の地名ができた。(2・
羽田要村の弁財天の「如意宝珠」は日原の大日霊水にあったものが
流れついた。(3・青梅市の高水不動堂は、智証大師が日原の大日
如来窟で修行中、この山に紫雲がたなびくのを望見して霊山と知り、
浪切り不動明王像を彫刻してまつった、などがあります。

 この大権現には「一石山の掟」という掟(おきて)があったらし
い。それには「一、なになに。二、なになに…」と掟の項目がなら
んでいるのですが、そのあとに「掟書追加」というのがあります。
先達たちが時にはちょろまかすこともあったのか、こんな一文も追
加されています。

 一、近年先達ども古来の掟に相そむき参詣の道者より鳥目貧取候
由相聞き不届の至りに候(原嶋右京、淡路の)両社家より先規の通
り先達銭十八銅ずつ相渡のほか貧取候は、曲事たるべく候。これに
より此度制札六枚差遣わし候間、御定めの所にこれを立置き、永く
退転無く相守るべくのこと。

 御岩屋側、封内入口、倉沢、大宝寺、両社家。右六ヶ所にこれを
立置くべし。などという一文があり、ちょっと笑えます。奥多摩町
日原地区は、昔から「霊地」と見られていたためか、この地区を取
り巻く山々の岩峰はどれも仏菩薩の尊称で呼ばれていたそうです。

▼一石山【データ】
【所在地】
・東京都奥多摩町。JR青梅線奥多摩駅の北東▽キロ。JR青梅
線奥多摩駅からバス、日原鍾乳洞停留所下車、歩いて5分で一石山
神社。さらに歩いて1時間10分で一石山。1007m

【位置】
・一石山:北緯35度51分17.3秒、東経139度2分8.35秒

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:武蔵日原

【参考文献】
・『奥多摩』宮内敏雄(百水社)1992年(平成4)
・『奥多摩風土記』大館勇吉著(武蔵野郷土史研究会)1975年(昭
和50)
・『角川日本地名大辞典13・東京都』北原進(角川書店)1978年(昭
和53年)
・『日本歴史地名大系13・東京都の地名』児玉幸多ほか(平凡社)
2002年(平成14)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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