山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼073号「丹沢蛭ヶ岳・山頂の祠と鹿」

・【概略】
かつて薬師如来がまつられていたといいますが、大正の中期までは
確かにあったそうですが、いつの間にか何者かに持ち去られてしまったと
いう。いま山頂にあるのは木曾の御嶽山の神の祠です。ある年の初
秋、塔ノ岳からカモシカ山行をしました。蛭ヶ岳で朝食をとって
いたら、野生の鹿がよってきて食べ物をねだります。知らんぷり
をしていたら、目の前にジャージャーとやられました。
・神奈川県山北町と津久井町との境

【本文】
 神奈川県丹沢山塊の最高峰の蛭ヶ岳(ひるがたけ・1673m)は
塔ノ岳方面からでもよく目立つ山です。蛭ヶ岳の広場に立つと富
士山や南アルプスが正面に広がり、野生の鹿がよく顔をのぞかせ
てくれます。

 蛭ヶ岳にはかつて薬師如来がまつられていたそうです。その薬
師如来の石仏は、大正の中期までは確かにあったが、いつの間にか何
者かに持ち去られたと故松井幹雄氏(霧の旅会)が話していたという。

 蛭ヶ岳のヒルとは何でしょうか。ノビルなど植物のヒル類からの説。
山の形がお坊さんのかぶる毘廬帽(びるぼう)に似ているという説。また
山伏たちが本尊と仰ぐ大日如来の異名である毘盧舎那仏(びるしゃな
ぶつ)から、毘盧(びる)ヶ岳といったものがなまったのだとも
いわれています。(表尾根に木ノ又大日、新大日が祭られてあるので
大日の名の重複をさけたらしい)。

 さらにヤマヒルがいるからついた名前なのだと諸説ふんぷんとし
ています。しかし蛭ヶ岳でヤマヒルに血を吸われるという被害は聞いた
ことがないし、植物のヒル類もきわだつほどでもありません。そんなこんな
で宇宙仏といわれる毘留舎那仏説が有力になっているそうです。

 そういえば、地元の古老が子供のころは「ピルヶ岳」と呼んでいたとな
にかの本で読んことがありましたが、やはり毘留ヶ岳がなまったものでしょ
うか。毘盧舎那仏とは大仏さまのことだそうです。毘盧舎那仏は華
厳(けごん)経というお経に説かれている仏さま。

 お釈迦さまのようにこの世に生まれてくるのではなく、蓮華蔵
(れんげぞう)世界という極楽浄土(ごくじゅらくじょうど)に
おられるという難しい話がものの本に載っていました。

 ある年の初秋、カモシカ山行(夜通し歩く強行山行)で、夜に
大倉尾根から登り、蛭ヶ岳のホコラの前で朝食をとりました。山
の中では誰もいじめたりしないので、すっかり人間になれてしま
った野生の鹿がそばに来て、シキリに食べ物をねだります。生態
系?によくないと知らんぷりをしていたら、目の前でジャージャ
ーと放尿の仕返し。なんという態度だーッ。鹿にもなめられるよ
うになってしまったな。

▼【データ】
【山名】・山ヒル説・僧のかぶる毘盧帽子説・毘盧舎那仏を祀って
ある説・植物のヒル類が生えている説などがある。

【所在地】
・神奈川県山北町と神奈川県相模原市(旧津久井郡津久井町)との境。
小田急渋沢駅からバス、大倉から歩いて6時間30分で蛭ヶ岳。写真測
量による標高点(1673m)と蛭ヶ岳山荘と木曽の御嶽大神の祠がある。
地形図に山名と標高点の標高、蛭ヶ岳山荘の記載あり。

【位置】
・標高点:北緯35度29分10.76秒、東経139度08分20.05秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」(国土地理院「地図閲覧サ
ービス」から検索)

【参考】
・「角川日本地名大辞典14・神奈川県」伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「新編相模国風土記稿」江戸幕府(1830・天保1)編纂の地誌(巻
之121村里部津久井縣巻之6毛利庄):大日本地誌大系23「新編相
模国風土記・5」編集校訂・蘆田伊人(雄山閣)1980年(昭和55)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
1)
・「日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

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山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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