▼05:海門(開聞)岳武山魔神
【説明本文】
九州鹿児島の開聞岳にも天狗ばなしがあります。大天狗の名前は、
開聞岳(海門岳)武山魔神(たけやままじん)といいます。天狗と
一口にいいますが、上は大天狗、中天狗、小天狗に分かれ、小天狗
でもカラス天狗・木の葉天狗・白狼(はくろう)天狗、なかには修
行が未熟で溝を飛び越すにもやっとという「溝越天狗」などという
ものもいます。上位の大天狗のなかでも、○山○○坊などと、名前
のある天狗は大した天狗です。
武山魔神天狗は、開聞岳一帯を支配する魔神だというのです。以
下は、地元の村人の間で言いつたえられてきた話です。江戸時代末
期のこと、鹿児島のなんという人が、竹之島に近いところの児ヶ水
に湯治にきていました。
朝早く、海岸をウミガメの卵などを探しながら散歩していると、
知らず知らずのうちに、岩窟の下まで来てしまいました。するとど
こからともなく、法螺貝(ほらがい)の音が聞こえてきてしつこく
耳元で鳴ります。どこまで行っても一向に音は消えず、宿まで逃げ
帰ってきましたが、とうとう気を失ってしまいました。
まだまだあります。安永元年(1772)ころ、丸山新左衛門と紋兵
衛という地元の侍が、山川の町でイッパイやってご機嫌になり、鼻
歌を歌いながら竹山の下の村を通りがかりました。そこへ突然、身
の丈2丈(6.06m)以上もある魔神が立ちふさがったのです。
丸太のように太い腕、夜叉のような恐ろしい顔をして、提灯を突
きつけてきます。その恐ろしさにふたりは、イッパイ機嫌はどこへ
やら、家に逃げ帰りました。それからというもの、子孫代々にまで
絶対に竹山の下を通るべからずといさめたという。その時、魔神の
提灯には、木瓜(もっこう)の紋があったということです。
このような話は、うわさだけでなく、記録にも残されています。
ここに江戸時代後期の『薩藩神変奇録』(田原篤実著)という本が
あります。その薩摩国頴娃郡(えいちょう)山川郷の項にこんな記
事があります。
「…海辺に竹の山といふ山あり。此山は往古より俗に天狗の御在所
と云ひ傳ふる所なり」として、数々の不思議な話を載せています。
この竹山が武山と書かれ、武山魔神という天狗のすみからしい。だ
いたいこの天狗は、自分の領域内に無断で立ち入られたり、騒いだ
りされるのが大嫌いだったようです。
江戸時代後期の文化8年(1811)12月2日の夜のことあるから
具体的です。地元薩摩藩島津家の御用船の神明丸(船頭・西田駒助)
は、暴風のため、鹿児島湾の入り口に当たる山川港に逃げ込もうと
しましたが、あわてて、近くの竹山下の浜辺に流れ着きました。
すると、天狗がすむという竹山の方角から、大きな火の玉が飛ん
できたかと思うと、船の帆柱に舞い上がりました。見上げると帆柱
のてっぺんに、提灯(ちょうちん)のようなものをさげた大男が、
大あぐらをかいてすわっています。なぜか提灯にこだわっています。
乗組員たちは船底で小さくなって震えています。
船底へ逃げ遅れた船乗りたちがウロウロしていると、豆粒のよう
なものがほおに当たったとたん、皆気絶してしまいました。そして
気がつくと帆柱がへし折られていました。これには、さすがの海の
荒くれ男たちも胆をつぶし、おののいたと書かれています。
また同夜、4,5人の釣り人が小舟で沖にこぎだしたことも書か
れています。夜が更け、雷雨が激しくなったので、岸へ戻ろうとす
ると、かの竹山のあたりにあらわれた光りものが、みるみる大きく
なり、東南東方向の鳶の口方向へ飛び去りました。その夜は一晩中、
竹山の頂上に怪火が燃え、雷鳴が鳴っていたといいます。
この騒動を船頭が、薩摩藩島津家の藩丁に庁に出した届書が同書
にあります。それには「御船神明丸十六反帆喜界島砂糖為積船当春
被差下上善にて山川より……」からはじまり、事の次第を詳しく述
べて、「……左候て間もなく右通の大変事御座候 文化八年未(ひ
つじ)十二月 御船神明丸船頭 西田駒助 (以下乗組員名等略之、
編者)」と結んでいます。
これではそんな話、ウソだろうと一笑に付すわけにはいかなくな
ります。武山(竹山)は(※開聞岳の東方、指宿市山川にある)山
というより岬の丘みたいな所。海からの見通しもよい。すぐ隣に、
山川・頴娃(えい)の集落があり、近くにソテツの自生地があり、
竹山神社もあります。
この神社の縁起にも、「隣に連なっている鳶之口峰との間は天狗
の住みかで、頂上に神灯が見えたり、太鼓・笛・法螺の音が鳴り響
き渡ったり、岩石が大きな音をたてて崩れ落ちたりする様々な霊怪
が伝えられている」とあります。
そんな丘のような山に、よく武山魔神のような大天狗がすみついた
ものと、天狗研究者は不思議がっています。このような魔神天狗は、
いつ、何の目的があって、どのようにしたすみ着くのでしょうか。
そしてどこからきたのでしょうかネ。
開聞岳(かいもんだけ)は、鹿児島県指宿(いぶすき)市(旧揖
宿郡開聞町)にある山。『日本百名山』(深田久弥著)の099番目に
書かれています。開聞岳は神話の山であり、修験道の山でもありま
す。かつてこの山は、枚聞(ひらきき)岳と書いていました。なの
で開聞岳(ひらききだけ)と読むのが正しいといいます。
しかし、いまはカイモンの方が一般的です。ヒラキキの名は、北
ろくにある開聞岳をまつる枚聞神社(ひらききじんじゃ)に、その
名前が残っている程度です。枚聞神社は、古代には開聞神、中世以
降は開聞宮(ひらききのみや)・開聞神社と呼ばれていたそうです。
この神社は、平安時代の古代法典『延喜式』(えんぎしき)にも載
っているという古い神社です。
さて次は「ヒラキキ」とは、「カイモン」とはなんだ?というこ
とになります。「開聞岳の信仰」(『山岳宗教史研究叢書13』所収)
の筆者・小川亥三郎氏は、各地の地名を例に、こんな風に検証して
います。ヒラキキの「ヒラ」とは、『万葉集』にある、滋賀県の比
良山のふもと比良地方の浦を、平の浦(ひらのうら)や、大阪府の
枚岡山(ひらおかやま)の例から、坂、傾斜地、崖などを意味する
語。
また「キキ」は「クキ(岫)」の転音。山の洞穴を意味していま
したが、転じて岩山・谷・峰の意に。明治時代編纂の国語辞典『大
言海』にも、「くき(岫、洞)山ノ洞(ホラ)アル処。転ジテ山。
岡」とあります。そんなことから「ヒラキキ」は「ヒラクキ」の転
化で、「傾斜の急な山」の意味であると結論づけています。
この山はまた、日本神話にも登場します。北ろくにある枚聞神社
の祭神は、国常立命(クニトコタチノミコト)・大日?尊(オオヒ
ルメノミコト)・猿田彦など多くの神がまつられています。このう
ち大日?尊とは、ナント太陽神天照大神のことだそうです。この天
照大神を開聞岳にまつったのは瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。
以下は『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨の話です。ぞろぞろ
と神々大勢ひきつれて、高天原から高千穂に天下ったニニギノミコ
トは、笠沙崎(かささのみさき)に来て、宮を建てました。ある日、
開聞岳のふもとに行った時、山を仰いで、「われ今たひらに来たり
き」と感嘆し、おばあさんの天照大神をまつりました。
そしてまたその時感嘆した言葉から、「ひらきき」が地名になっ
たという説もあります。さらにニニギノミコトは、海岸を歩いてコ
ノハナサクヤヒメに出会って求婚したのです。いまの川尻温泉のあ
る川尻漁港あたりだそうです。これは『古事記』(上つ記)にも出
ています。
枚聞神社(開聞神、開聞宮、開聞神社とも)の祭神は、昔から分
かりにくいと先にも書きました。大日?貴命を中心に、天之忍穂耳
命、天穂日命、その他なんだらかんだらのほか、国常立命・猿田彦
など数多くの祭神をあげています。私が参考文献としているなかで
さえ、こんがらがって書いているほどです。
一方、室町時代の一宮の一覧を記した『大日本国一宮記』という
本には、和多津美(わたつみ)神社、枚聞神社と号す、とあり、塩
土老翁(シオツチノオキナ)と猿田彦が祭神だとしています。
塩土老翁は、開聞岳山ろく、登山口休憩所近くにある「天ノ岩屋」
にいたとする神仙です。こんな話も残っています。江戸中期の『薩
州穎娃開聞山古事縁起』(快宝法印作)によれば、飛鳥時代の大化
5年(648)、「天ノ岩屋」で塩土老翁が修行をしていると、雌鹿が
来て法水を飲んでしまいました。すると鹿はたちまち妊娠し、翌春、
口から美しい女の子を産んだというのです。
塩土老翁は、その子を瑞照姫(みずてるひめ)と名づけ大事に育
てました。姫が2歳になり読み書きを覚え、詩歌も暗唱するという
才女ぶり。その上美女とくるから、うわさは太宰府から都の朝廷に
伝えられました。
そして上京、藤原鎌足に預けられたのでした。やがて姫は、ます
ますの才媛美女に成長、13歳になると、大宮姫(おおみやのひめ)
と名づけられ、宮中に上がり、とうとう天智(てんじ)天皇の妃に
なりました。
ところがある日、宮中の雪合戦の時、足袋がぬげ、姫の足の爪が
鹿の爪であることが分かり、天智天皇の皇子、大友皇子(みこ)は
じめ、宮中の官女たちにねたまれ、大宮姫は故郷の開聞岳の流され
てしまいました。早速山ろくに仮御殿がつくられました。
白鳳2年(673)になり、天智天皇が皇后の大宮姫を恋しがり、
開聞岳の山ろくまでやってきました。そしてふたりはこの離宮で、
幸せに暮らしましたが、天智天皇は慶雲(きょううん)3年(706、
飛鳥時代)、79歳で死亡。皇后も翌年、慶雲4年(707・同飛鳥時
代)59歳で亡くなったということです。この大宮姫をまつったの
が、枚聞神社のはじまりだということです。
ところで開聞岳には、筑紫富士・薩摩富士・小富士・海門山・海
門岳・蓮花山・長主山(ながぬしやま)・枚聞岳(ひらきき)・枚聞
山(ひらきき)・金畳山(きんじょうざん)・空穂島(うつほ)・鴨
着島(かもつく)・筑紫小芙蓉(つくししょうふよう)・連花山・補
陀峰(ふだ)・海門(かいもん)岳・薩摩富士・筑紫富士など、う
んざりするほど異名があります。
その名前の由来を説明した本があります。江戸時代の鹿児島県の
地誌『三国名勝図会』(巻之二十三)やそのほかに、(1)長主山と
は:神代に、ここは吾田(あた)の長屋の国主であるコトカツクニ
カツナガサ(事勝国勝長狭)の領内であり、開聞岳は領内一の絶景
ということから、国主の名前をとり、ナガサ(長狭)が主宰の山、
つまり長狭の「長」、主宰の「主」で、「長主山」にしたという(こ
れってホントかいな)。
また、(2)鴨着島とは:やはり神代のころ、火遠理命(ホオリ
=山幸彦)が、塩土老翁につくってもらった篭舟に乗って、なくし
た釣り針を探しているうちに着いた竜宮が、ここだったという話(有
名な海幸彦と山幸彦)からつけらたということです。
昔は国を島といったのだそうです。(3)金畳山(きんじょうさ
ん):開聞岳の美しさを詠んだ僧巣松の漢詩、「神仙削出玉芙蓉、重
畳黄金猶幾重……」とあり、この山は金山だったと昔の人はいって
いたという。
(4)空穂島:平安時代の貞観(じょうがん)、仁和(にんな)
の大噴火で、山のなかは空っぽになったのではないかというところ
からつけられたということです。(5)海門岳:この山は鹿児島湾
(錦江湾)の入り口にあり、形がよく遠くからもよく目立ち、航海
の目印に便利なところからきているといいます。
開聞岳は修験の山でもあります。中世から近世にかけて、北麓の
天ノ岩屋は、修験道の修行道場の中心でした。薩摩・大隅(おおす
み)を支配していた島津氏は、修験山伏の組織を情報収集に利用し
ていたと聞きます(『鹿児島県の歴史』)。開聞山ろくの修験道場は、
諜報(スパイ)関係の養成所だったのか?
●開聞岳【データ】
★【所在地】
・鹿児島県指宿市(旧揖宿郡開聞町)。指宿枕崎線(いぶすきまく
らざきせん)開聞駅の南3キロ。開聞駅から3時間で開聞岳山頂。
三角点:922.2m。標高点:924mがある。
★【位置】・開聞岳:北緯31度10分48.47秒、東経130度31分
42.06秒
★2万5千分の1地形図:開聞岳
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典46・鹿児島県』(角川書店)1991年(平成
3)
・『古事記』(上つ卷):新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西
宮一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『薩藩神変奇録・上』田原篤実著(文化10年(1813)ころ):『幽
冥界研究資料 第1巻』友清歓眞編纂(天行居発行)大正2年(1913)
に収蔵
・『薩摩穎娃開聞山古事縁起』(開聞山古事縁起・開聞縁起)(快宝
法印作)延享2年(1745・江戸中期)
・『山岳宗教史研究叢書13』中野幡能編(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書18』五来重編(名著出版)1983年(昭和58)
・『三国名勝図会』(上巻)(天保14(1843)年刊行・鹿児島県の地
誌)五代秀尭, 橋口兼柄
共編(南日本出版文化協会)1966年(昭
和41)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀』(一)校注・
坂本太郎ほか)(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本歴史地名大系47・鹿児島県』芳即正(平凡社)1998(平成10)
年
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)
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