【全国の山・天狗のはなし】  

▼30:長野県の山

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▼06:飯縄山・千日太夫

【略文】

飯縄山は、飯縄の法の発祥地。千日太夫が千日も断食修業して編み

出した呪法。この法は霊能をもつ小動物を自由に使う妖術で、次

第に世間からも人心を惑わす邪法として不信感を持たれ次第に衰

退。いまは「飯縄の法」自体を知っている人も少なくなりました。

・長野市と、飯綱町との境。

【本文】

 飯縄山(いいづなやま・飯綱山とも書く・標高1917.4m)は、

長野県長野市と飯綱町との境にある山。江戸時代末期まで戸隠山、

小菅山とともに「信濃三大修験道場」のひとつだったそうです。



 また1998(平成10)年に行われた冬季オリンピックでは、フリ

ースタイルスキーとボブスレー・リュージュの会場になっていま

す。春には大谷地湿原ではミズバショウ、一の鳥居苑地ではヤマ

ツツジやレンゲ、秋にはリンドウ、そして紅葉も楽しめる所。



 この山は、かつては飯砂山(いいずな)とも書かれたように、

ここから「食べられる砂」が採れたことからきているといいます。

この食べられる砂は「天狗の麦飯」とも呼び、飯粒・飯砂・餓鬼

の飯の名もあり、本当に食べられるのだそうです(山旅通信【ひ

とり画っ展】669号)。



 ふもとには、大座法師池や、丸池、柳沢池などの湖沼が点在し

ており、絶好の行楽地になっています。大座法師池は、巨人の足

跡だという伝説もあります。昔、「イズナッパラ」(飯縄原)に、

雲をつくような大きな男が住んでいたという。



 大男は「ダイダラボチ」といい、「イズナッパラ」の出っ張っ

た場所の土を取って、飯縄山の姿を美しく整えたり、高く盛った

り、原を平らにしていました。ところがある時、大男は飯縄山に

向かい作業をしていたとき、なにかの拍子でよろけて、片足を深

く踏み込み転びそうになりました。



大男はあわてて足を引き抜きました。すると、足あとが深くへこ

んで残りました。そこへ雨が降ったりして、見る見る足跡に水が

たまって、いまのような大座法師池になってしまったという。こ

の池は、北の飯縄山の方に爪先を向けて、かかとは南向きになっ

ていて伝説の通りになっています。



 山頂への登山道は、ふもとから一の鳥居や、十三仏などもなら

んでおり、頂上には皇足穂命(すめたりほのみこと)をまつった

飯縄神社があります。これが奥宮呼ばれるもので、里宮はふもと

の大座法師池のそばにあります。この神社は、明治の神仏分離令

が出るまでは、飯縄権現といいました。



 白鳳2年(正式には天武元年・673・飛鳥時代)の創建といわれ、

長い間、飯縄修験道の修行の場として栄えたところ。戦国時代に

は、上杉謙信や武田信玄も信仰していたといいます。とくに上杉

謙信は、戦さのとき、兜(かぶと)の前立てに「飯縄権現」をつ

けて出陣するほどの身の入れようだったらしい。



 さてこの山で有名なのは天狗の飯綱三郎(いづなのさぶろう)

です。この天狗は、日本の代表的な天狗をとりあげた「日本八天

狗」の一狗(天狗は一狗二狗と数える)にも入っているほどの格

のある天狗。三郎とは、京都の愛宕山(あたごさん)太郎坊、滋

賀の比良山(ひらさん)次郎坊の次の天狗という意味になります。



 鎌倉時代末とも室町時代にできたともいわれる戸隠の古い記録

「戸隠山顕光寺流記」には、「伊都奈三郎(飯綱三郎)は日本第三

の天狗なり」とまで書かれ、天狗仲間ではたいした大物なのだそ

うです(山旅通信【ひとり画っ展】146号)。



 さらに、この山にはほかにもう一狗、飯縄山千日太夫(せんに

ちだゆう)という天狗がいる「ことになっている」という。千日

太夫は、幸田露伴が『魔術修行者』にも取りあげられている天狗

です。「魔法。魔法とは、まあ何という笑わらわしい言葉であろう」

という文から始まる『魔術修行者』。



 千日大夫が千日も山に籠もれたのは、「穀食を絶っても、食える

土があったから」としており、食べられる土は、中国の『太平広

記』という本にも出てくるという。



 それはともかく千日大夫は、長い間山にこもって穀食を断ち、

千日間の修行の末「飯縄法」をあみだします。しかし、こっそりこ

の「天狗の麦飯」食べていたのですね。山にこもる修験者もこれを

食べたりしたといういいつたえも残っています。



 そもそも鎌倉時代、天福(てんぷく)元年(1233)、長野県萩野

(いまの信州新町)の城主・伊藤兵部大輔(大夫)豊前守(ひょ

うぶのたいふぶぜんのかみ)忠綱(忠縄とも書く)という御仁が

おりました。



 その忠綱がある夜、3匹の白狐に乗った女神の夢を見て、「飯縄

山の上に大権現をまつり、わが法を世に広めよ」と告げられたと

いう。そこで忠綱は、飯縄山にこもって穀食を断ち、この飯縄(綱)

の法とか、飯縄(綱)の術とかいう法をあみだすことになります。



 この法は小動物を使って人々の未来や運勢、吉凶などを占う術。

これが効験あらたかというので、人々は彼を千日豊前(ぶぜん)

と称し、人気を呼びました。息子の次郎大夫盛綱(縄)も父にな

らって同じように千日修行。そして子孫代々が、千日太夫の名を

受けついだといいます。



 この飯縄修験は、以前からあった京都愛宕山の「愛宕の法」と

同じインドのヒンズ−教の魔女からきた荼吉尼天(だきにてん)

思想を元とした呪法です。「愛宕の法」は当時狐を使う外術(外道

の怪しい術)として民衆から恐れられていたという。



 徐々に人気の出た「飯縄の法」は、全国各地へ布教に乗りだし、

ますます評判が上がります。こうして飯縄の法の不思議な力は、

各地方に鳴り響き、飯縄の法の先輩格である京都愛宕山の「愛宕の

法」の呪術者も、飯縄山に集まってくるようになったというからす

ごい。



 「飯縄の法」ははじめは、ご利益があるというので、病気や災

害から人々を救っていました。しかし次第に、呪文をかけて敵を

死に追いやることもできるなどというようになり、怪しげな方へ

向かい始めます。戦国時代はこの法を使う忍者が暗躍するほどに

なっていたという。



 「飯縄の法」とは、この山にいるネズミくらいの霊能をもつ小

動物(管狐・くだぎつね)を自由に使う術で、敵の情報を得たり、

未来を占ったりする術。管狐は特殊な小狐ともいう動物で、ここで

捕まえた雄雌の子狐を飼い慣らし繁殖させたという。この管狐の本

家は京都の伏見稲荷だともいいます。



 百夜通って縄ににぎりめしを結びつけたものを餌として、飼い慣

らし、狐を竹筒の中に入れて持ち帰り、呪法の種にしたという。こ

んな飯縄山の怪しげな修験者が、あちこちで「イヅナの法」、「ダ

キニの法」などといって、次第に奇術まがいの術で入場料を取っ

たりするようになっていきます。



 当然民衆からは不信感を持たれはじめ、さらには世間からも人

心を惑わす邪法として糾弾され、次第に衰退していきます。『茅窓

漫録』という本には、「愚陋恒民(ぐろうこうみん)を幻惑するの

みか、尊き神名に混雑し、大いに正道に害あり。



 有識なる人出たまひて、邪法悪魔の種類を糾明し、駆除いたし

たきものなり」などとこき下ろされる始末。それでも地方にはそ

の「残党」が、残っていたらしく、「飯縄使い」が地方の村々にも

来ていたらしい。



 千葉県の田舎育ちの筆者もよく祖母などが、飯縄使いがどこど

この村へきているらしいという話を聞かされ、子ども心になんと

も怖く思ったものでした。この呪法はいまはすっかり陰を消し、

いまは本家の飯縄山にも、山頂直下に荼吉尼天の石像があるだけ

で、「飯縄の法」自体を知っている人も少なくなりました。



 この飯縄山も役行者(えんのぎょうじゃ)に関係のある山らし

い。「往昔白鳳2年(673)癸酉(みずのととり)七月、国峰修行

役行者神変大菩薩、コノ嶽ニ飛行シ、止リ給ヒ」。



 さらに「柴燈護摩ノ秘法ヲ御修法アリケルニ、一人の山伏忽然

トシテ顕(あらわ)レケル故、行者恭敬(きょうけい)シテ、…、

飯縄三郎智羅天狗ト」名づけたという。また「国家ノ飢ヲ救イ給

フ御誓願ヲ立給ヒテ、”めし”ノ縄ノ山ト名付給フ」とあります。



 役行者が最初に登り、飯縄三郎天狗に会い、また飯縄山と名づ

けたのだそうです(「勧化帳」文久3年・1863)。別の資料・鎌倉

時代の『阿裟縛抄』(あさばしょう)では、平安時代の嘉祥2年(8

49・平安時代)ころ学問行者(学門とも書く)が、飯縄山で7日

間修業した後、戸隠山に移り、そこに戸隠寺を開基したとありま

す(『山岳宗教史研究叢書16』)。



 ここにはこんな伝説があります。昔、泉平(いずみだいら)に、

どんなことにでも反対する爺さまがいました。節分には「福は外、

鬼は内」といい豆をまきます。それを聞いて鬼がやってきました。

婆さまは芋汁を作って鬼にご馳走しました。鬼はうまそうに食べ、

お礼に「好きな物をやろう」といいました。



 爺さまは「わしは千両箱が嫌いだが、あんたは何が嫌いか」と

尋ねました。鬼は「カラの擂り鉢を、すりこぎでこする音が大嫌

いだ」といいました。そこで婆さまが勝手に行き、カラのすり鉢

を「ゴリゴリ」とやったのです。「爺、ひでえことするナ」と、鬼

はほうほうの体(てい)で逃げ出しました。



その晩のこと、爺さまの家の屋根を突き破って、いくつもの千両

箱が投げ込まれてきました。爺さまと婆さまは大喜びしながら「キ

ャァ〜、南無飯綱大権現さまお助けを…」と拝んだという。



 次の朝、飯縄山を見上げると、鬼の影法師(黒法師)が、験者

ヶ峰あたりを登っていくのが見えたそうです。爺さま、婆さまヤ

ルモンダね…。いまも八十八夜になるとふもとの長野市上ヶ屋(あ

げや)から飯縄山を見ると、その胸のあたりに黒法師が雪形にな

って見えるという。



 同じく戸隠村(いまの長野市戸隠)銚子口からは、中社側稜線

の中間に白い瓢箪の雪形が、また善光寺平の大豆島(まめじま)

からは、富士山形の中央に白い星々の雪形が望まれます。



 さらには更級郡からは、飯縄山西峰の谷の雪解けが、猿の形に

なります。雪解けが進み猿の首が切れるころになると、農家は「綿

の種をまく」という諺が残っています。



■飯縄山【データ】

▼【由来】

・山頂付近の湿地の土砂が栗飯や麦飯に似て食べられるといい、飯

砂山から転じて飯縄山になったという。


▼【所在地】

・長野県長野市と長野県長野市戸隠(旧上水内郡戸隠村)、長野県

上水内郡飯綱町大字牟礼(旧上水内郡牟礼村)との境。信越本線

牟礼駅の西25キロ。JR信越本線長野駅からバス、飯縄高原から

歩いて2時間30分で飯縄山。二等三角点(1917.4m)がある。


▼【位置】

・三角点:北緯36度44分22.2秒、東経138度8分1.16秒


▼【地図】

・2万5千分の1地形図「若槻(高田)」


▼【山行】

・某年5月3日(土曜日・晴れ)



▼【参考文献】

・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)1

990年(平成2)

・『山岳宗教史研究叢書・9』(富士・御嶽と中部霊山)鈴木昭英

編(名著出版)1978年(昭和53年)

・『山岳宗教史研究叢書16・修験道の伝承文化』五来重編 (名著

出版)1981年(昭和56)

・『山岳宗教史研究叢書17・修験道史料集(T)』五木重編(名著

出版)1983年(昭和58)

・『信州山岳百科・3』(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)

・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)

・『世界大百科事典・21』(平凡社)1972年(昭和47)

・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)

・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

・「日本の天然記念物・三」講談社1984年(昭和59)版

・『日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)

・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和5

4)

・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)

 

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