【全国の山・天狗のはなし】  

▼27:神奈川県の山

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▼02:阿夫利山道昭坊

【略文】
丹沢大山の天狗伯耆坊は有名です。しかしもう一狗、道昭坊(常昭
坊とも)天狗がいることになっています。道(常)昭坊は、江戸時
代後期の国学者平田篤胤が著した『仙境異聞』に出てくる天狗で
す。平田篤胤が、門人の下総国葛飾郡柏井村(いまの千葉県市川
市柏井)に住んでいた中尾玄仲から聞いた話を取り入れたものら
しい。

▼02:阿夫利山道昭坊

【本文】

 丹沢大山には大天狗小天狗のほか、天狗になりかけのものなどウ
ジャウジャといるといいます。その中で名前を持っているほどの大
物天狗・伯耆坊(ほうきぼう)が有名です。下社わきには、この天
狗の姿が入ったレリーフが建っており、不動前の大山寺には伯耆坊
の祠もあります。

 ところがあまり話には出てきませんが、もう一狗、道昭坊(常昭
坊とも)天狗がいることになっています。道(常)昭坊は、江戸時
代後期の国学者で、神道家の平田篤胤が著した『仙境異聞』とい
う本に出てくる天狗です。

 この本は篤胤が、天狗にさらわれた江戸下谷七軒町の寅吉少年
から聞いた、天狗社会の日常を一問一答形式で、こまごまと綴った
もの。道昭坊(ここでは常昭坊)については、平田篤胤が、門人
の下総国葛飾郡柏井村(いまの千葉県市川市柏井)に住んでいた
中尾玄仲から聞いた話を『仙境異聞』に載せています。

 それによると、下総國東葛飾郡新宿(いまの東京都葛飾区新宿)
の旅館の主人藤屋荘兵衛は、熱心な大山の信者だったそうです。
ある日、午後になってから急に大山参りに行くといって支度をは
じめました。家の者たちはきょうは遅いのであしたにしたらと止
めましたが、振りきって出発しました。

 家から出て2キロもいかないうち、道端で目つきの鋭い大男の
山伏に出会いました。その男は「柿色の衣(きぬ)着て髪長く、
山伏の如き人の、凡人より眼大きく、すさまじげなる」姿をして
います。男は大山詣での藤屋荘兵衛を待っていたらしく声をかけ、
「大山に連れ行くべし。目を閉ぢて我が背に負はれよ」といい、
そのまま彼を背負って空中に飛びあがり、大山のふもとまで運ん
でいきました。

 荘兵衛がお参りをすますと、再び背負ってもとの出会ったとこ
ろにおろしてくれ、別れぎわに近いうちにお前のうちに遊びに行
く「よく清め掃除して待てよ」といって姿を消しました。

 何日かすると、彼の山伏がやってきて、「門口より荘兵衛宿に居
るかと云ひつゝ、案内もなく」ヅカヅカと奥の部屋に入り、「汝は
正直なる者ゆゑに来たれり。我は常昭といふ者なり。酒呑みかはさ
ん」などといっています。こうして山伏と荘兵衛は酒を酌み交わ
しながら5、6日滞在して帰っていったという。

 逗留中、近所の人たちとも親しくなりましたが、どこで分かる
のか、ねじけた根性(天狗の神通力を試そうとする)の持ち主に
は、見もしないうちに玄関先で追い払っていたという。

 滞在中に荘兵衛は山伏に、「知り合いになった記念になにか書き
残してほしい」と頼んだところうなずいて、灯火もない暗がりの
なかで、ただ筆をかきまわしているようでしたが、書きあがった
ものをみると、格調正しく、東国三社といわれる鹿島神宮、香取
神宮、息栖(いきす)神社の神号と、その下に天狗文字らしい字
体、で託宣のようなものが書いてありました。

 末尾に「日向国坂野上、常昭山人」とあり、田村氏と署名して
あり、そかも2枚あったという。それでかの山伏は、法号を「常
昭」といい、出身地は日向国坂野上(いまの宮崎県日向市坂之上
か?)で、苗字が「田村」であることが分かったのでした。そし
て「…もし火事が起きた時は、富士山の方に向かって、俺の名を
呼べ。必ず火災の難を逃れさせてやる」といって帰っていきまし
た。

 常昭が帰ってからしばらくして火事がありました。藤屋では山
伏の言葉を忘れていて焼けてしまいました。隣りの次郎兵衛宅で
は、富士山の方に向かって常昭の名を呼んだら、大勢の人がやっ
てきて消火につとめてくれ、難を逃れたという。

 まだ不思議なことがつづきます。藤屋は焼けた家屋をやっと再
建したある夜、大雨の中屋根の上に「ドスン」と落ちたものがあ
り、庭に転がり落ちました。藤屋荘兵衛や、となりの次郎兵衛の
家でも大騒ぎ。何が起きたかわからないまま見ると、わらに包ん
だ一抱えもある大石でした。驚いたものの、とりあえず大石を納
屋に取り込んでおきました。

 しばらくして隣家の次郎兵衛方へひょっこり常昭があらわれ、
「この間大雨のなか、鹿島神宮へ行く途中、荘兵衛の家にみやげ
をひとつ置いて行ったが、大切にせよといっておけ」という。次
郎兵衛は「ハハン!」あの大石のことかと合点がいったという。

 またある時、江戸神田に住む荘兵衛の親せきが、神隠しにあっ
たというので見舞いに行きました。すると当人が修験者の常昭に
会ったといいます。そして「常昭さまはいま、富士山のおられる。
荘兵衛さんのところでしばらく世話になったといっていた」と、
その時のことを詳しく話しました。

 そんな話を平田篤胤が天狗小僧寅吉に尋ねています。「問ふて云
はく、下総の国東葛西領新宿といふ所に、藤屋荘兵衛といふ者あ
り。先年此の者の家に、富士山に住む常昭といへる山人の来たり
て、二三日逗留し、三社(鹿島、香取、息栖・いきす)の託宣が
如き物を記して与へたる事あり。此の山人を知れるか。

 寅吉云はく、それは富士山には有るべからず。大山に住む山人
の名なり。大山を富士と聞き違え給へるなるべし」という。これ
に対して篤胤は、「(常昭は)山人になりて、大山の神に事(つか)
へ、其の後に富士山の麓に隠居したりと聞こゆ。予は富士に住む
とのみ聞き覚えけるが、寅吉が大山の山人なり、といへる事甚(い
と)奇なり」。としながらも年数を考えると、「常昭山人、しばら
く大山の仕へを退きて、富士の下に隠居したるが、近ごろ再(ま
た)勤(つと)むる事となれりと見ゆ」としています。

 中尾玄仲が、藤屋でこの話を聞いたのは、江戸時代の文政(1818
〜1830)の初めころらしく、「藤屋は今も荘兵衛といひて、六十五
六歳なるが、此は常昭と交はりし荘兵衛が子にて、此の者の十二
三歳の時なりしと、今も覚えていて語る」とあるから、これらの
話は明和初年(1746)のころらしい。

 平田篤胤がこの天狗のことを『仙境異聞』に書いてから、篤胤
一派の島田幸安、宮地堅磐などの神道家たちが、幽界で常昭坊を
見たとか、うわさを聞いたとか書いています。それにはみな、大
山の常昭となっているらしい。しかし、この一派以外は常昭のこ
とを書いた人がいなく、また阿夫利神社の神職一同が、聞いたこ
とがないというはどうしたことでしょう。



▼大山【データ】
【所在地】
・神奈川県伊勢原市と厚木市・秦野市との境。小田急小田原線伊
勢原駅の北6キロ。小田急伊勢原駅からバス、大山ケーブル駅か
らケーブル利用下社駅下車、さらに歩いて1時間30分で丹沢大山。
三等三角点(1251.7m、現地確認)と写真測量による標高点(1252
m・標石はない)と阿夫利神社奥社と電波塔がある。地形図に山名
と三角点の標高、標高点の標高、阿夫利神社の建物の記号と電波塔
の記号の記載あり。
※「地図閲覧サービス」と「電子国土ポータルWebシステム」地形
図には三角点と標高点があるが、「基準点成果等閲覧サービス」地
形図には両方とも記入がない。

【ご利益】
・阿夫利神社:御利益:豊作祈願・無病息災・家内安全・防災招
福・商売繁盛などの祈願。とくに水に関係のある火消し・酒屋、
またご神体の刀に関係のある大工・石工・板前などの商売繁盛の
祈願)。

【名山】
・「日本三百名山」(日本山岳会選定):第235番選定:日本百名山
以外に200山を加えたもの。

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・大山標高点:北緯35度26分27.09秒、東経139度13分52.22秒
・大山三角点:北緯35度26分26秒.9251、東経139度13分53秒.1146

【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」

▼【参考文献】
・『図聚 天狗列伝西日本編』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『仙境異聞・勝五郎再生記聞』平田篤胤著・子安宣邦校注(岩波
書店)2018年(平成30)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)

 

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】制作処
山のはがき画の会

 

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